徳川家康を最初に祀った「久能山東照宮」と富士山・日光東照宮との不思議な関係とは! 貴重な建造物が残る観光スポット(静岡県)
静岡県内の富士山を身近に感じながら巡れる観光スポットを紹介していますが、今回は静岡市駿河区にある、徳川家康を祀る「久能山東照宮」(くのうざんとうしょうぐう)を紹介します。
徳川家康公を最初に祀った、国宝 久能山東照宮
「久能山東照宮」は、徳川家康公をご祭神として祀った最初の神社で、全国東照宮の創祀となります。久能山東照宮の御社殿(本殿・石の間・拝殿)は、静岡県では唯一の国宝に指定されています。元和3(1617)年4月17日に家康が亡くなると、その日のうちに遺骸は、家康自身の遺命によってこの久能山に葬られ、翌元和3(1617)年には現在の久能山東照宮の社殿などが完成しました。
栃木県にある日光東照宮の現在の主な建物は、3代目将軍徳川家光の時代である寛永13(1636)年に造営されたものですので、久能山東照宮はそれよりも19年ほど以前の建物になります。
この久能山東照宮へのアクセス方法には日本平ロープウェイを使う方法と、久能山下からの徒歩ルートがあります。今回は、日本平ロープウェイに乗り久能山東照宮へ向かいます。
日本平ロープウェイ乗り場までは、路線バスか自動車・タクシーで行くことができ、広い駐車場があります。
久能山は駿河湾を見下ろす高さ216mの孤立した小高い山で、東には伊豆半島を、西は遠くに御前崎を一望できる場所だといいます。東照宮が出来る前には、この場所には武田信玄が築城した山城・久能山城がありました。
東照宮とは「東から照らす神社」という意味で、徳川家康が死後に神となり、日本列島の東側から全国を照らして守護しているとして祀っている神社の事です。徳川家康が存命中に、自分の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り」という遺言を残していたことから、家康の死後に、息子の秀忠(ひでただ)によって創建されました。久能山東照宮の御社殿(本殿・石の間・拝殿)は、静岡県では唯一の国宝に指定されています。
頭上には赤い門が見えます。これは楼門(ろうもん)という2階建ての門になっています。
今回は、久能山東照宮の齋藤曜さんが、色々と案内をしてくださいました。楼門をくぐったところが平らな広場となっています。この広場は、東照宮が建てられる以前の山城の時に 本曲輪(くるわ)があった場所で、今でも当時の城跡が残されている場所だそうです。
久能山東照宮へ参拝をするための社殿に到着するためには、久能山の山の下からだと1,159段の表参道を徒歩で登ってのアクセスとなるそうです。この説明を聞いている楼門を通過した場所は、既に山の下から1,100段上ったという場所になるそうですので、残りわずか59段程度で社殿に行くことが出来るということになります。ロープウェイで一気にアクセスをすると、高い山の中に居るという感覚がありませんでしたが、下からの徒歩ルートだとかなりの距離を登りようやくここに到着することになるようです。
階段を上り鳥居をくぐると、階段とその上には唐門という建物が見えています。この唐門に続く階段と、その前の通路・参道の正中にずれがあるのが、下の写真でわかりますか? 参道の真ん中である正中は神様の通り道とされており、唐門や社殿の中心を通るように位置しているのが普通です。しかし、この久能山東照宮の参道は少し歪んでおり、ある理由から唐門や社殿の正中を通らずに、ずれて作られています。
実はこの久能山東照宮の建物などの正中と参道がずれているのにはある理由があるのですが、それは後ほどご紹介します。
いよいよ、国宝に指定されている久能山東照宮の社殿に到着しました。
今回はJR東海が行っている「もれなく富士山キャンペーン」のツアー取材のため、社殿の中での精神修養体験と昇殿参拝を行いました。椅子が置かれているのはお参りをするための建物である拝殿になります。
冒頭でもふれたように久能山東照宮は、全国100社以上ある東照宮の根本大社(一番最初の神社)であり、この拝殿を含む社殿は元和2(1616)年に建立されました。その後、数十年ごとに修復を400年前の建物がそのまま残っているそうです。その理由が、建物に施された「漆」による塗膜です。
漆での塗装というのは、実は30の塗膜を順番に施して、30層で出来あがっているものだそうです。
メッキや現在のペンキなどでの塗装は、はげ落ちたところが出ると、その部分をのみを補修できるのだそうです。しかし漆の場合には、30にも重ねられている塗膜を一つ一つはがして行き、元の白木を露出して、その後にもう一度30もの塗膜を作っていくという途方もない工程を繰り返す必要があるのだとか。
そういった苦労のおかげで、雨風や日光などの環境からこの建物が守られ、そのために、400年以上経った現在でも、久能山東照宮の社殿は建立当初のまま残されているのだといいます。
建立された江戸時代から現在までに、約40回の塗り直しの作業が行われた記録が残っており、一番最近は2006年に塗り替えが完了しています。欄間(らんま)に描かれた天女も元々は江戸時代のものですが、修復の度にいくつかが作業され、その修復作業の時期が異なるため、その違いが見てわかるそうです。
上の写真の2つの天女は、比較的最近の修復のため色が鮮やかに残っています。下写真の真ん中部分の天女は修復された時代が古く、3代将軍家光の時代、この建物が建ってから20年ほどの時代に行われた、最初の修復時のものだそうです。日光が届きにくい室内でも、かなり色あせてしまっているのが分かります。
そしてさらに古い時代、下写真の天女は、顔の一部が剥がれ落ちてしまっています。記録によると、こちらの天女にはまだ修復歴が無く、建てられた当時のオリジナルのままだそうです。
今後も引き続き、こういった修復作業を、約50年ごとに続けていかなければ、この建物自体の維持が非常に困難になるそうですが、現在では修復のための職人が少なくなっていることや、莫大なお金が必要になることから、かなりの困難が予想されているようです。私たちも、訪れた際の拝観料や寄付などを通じて、少しでも個人でできる協力をしながら、今後の将来にもこの貴重な建物を残していけるように応援をしていきたいものです。
さて、次に社殿の建物の造りに関しても説明を頂きました。
現在お話をされているこの場所の後ろには、実は階段があり、一段下がった場所に朱色の縁の畳が敷かれています。この畳が敷かれた場所は「石の間」と呼ばれ、さらに奥にある「本殿」とをつないでいます。元々は石畳だったうえに畳を敷いているそうです。
このように、「拝殿」と「本殿」とを「石の間」で連結した造りは、「権現造(ごんげんづくり)」と呼ばれる様式で、全国に数多く創建された東照宮の原型となったそうです。したがって、日光東照宮も、ここの造りを模して権現造りの建物となっています。
この石の間に敷かれている紅色の縁の畳は、通常のものよりも一回り大きなサイスの畳で、平安時代に宮中等で使われていたのと同じ畳だそうです。実はこの畳、建物建立時の400年前の畳がそのまま現存しているものだそうです。しかし、現代まではこの畳の編み方が伝わっておらず、この畳を修復できる技術を持つ職人も居ないため、現存するこの畳が非常に貴重なものになっているそうです。今では神職の方々も、特別な神事でこの石の間に立ち入る際には、畳を保護するために 軾(ひざつき)などカバーするものを設置してから移動をするのだとか。
その他にも、この久能山東照宮の社殿には、約40回もの修復作業を経た様々なものがきれいに残されています。
壁に描かれた絵もきれいな状態で残っています。
拝殿の前側から見ると、屋根下の部分の木鼻や垂木飾りやその装飾などもきれいです。
拝殿に向かって左側の奥の上を見上げると、下の段にある垂木のうち一番奥・左側の端のも垂木を飾る金具に切るされている葵紋の形だけが、上下逆になっている「逆さ葵」となっているのが見えます。
逆さ葵の意味としては諸説あるのですが、一説によると、建物がまだ未完成であることを表すことで、更なる発展への願いが込められているといわれています。
拝殿・神殿の建物の左側から、裏に少し進みむと廟門という門があり、その先に階段が見えてきます。廟門から神廟までの間をつなぐ間は、廟所参道と名付けられ、階段の踊り場の左右には、家康公に仕えた武将たちが奉納した石灯籠が据えられています。
階段を少し登り来た方向を振り向くと、本殿の裏側を見ることが出来ます。右の門がくぐってきた廟門です。
階段更に登り、一般の参拝者が行くことが出来る一番奥に、徳川家康のお墓「神廟」があります。この「神廟」がどのように作られたかは未だ判っていないのですが、伊豆石の1枚岩で出来ているそうです。
徳川家康のお墓「神廟」は、重要文化財になっています。創建当初は木造桧皮葺の造りでしたが、寛永17年(1640)に、3代将軍徳川家光により現在の石造宝塔に造り替えられました。宝塔の高さは、5.5mで、外廻り約8メートル、前面に唐戸があります。神廟は家康公の御遺命により西向きに建てられています。
富士山と久能山東照宮の深い関係
ここで、この久能山東照宮と富士山との少し不思議な関係に関してご紹介します。
先ほど、「久能山東照宮」の参道がと階段で、通路の真ん中である正中が少しずれている場所をご紹介しました。
実は、この久能山東照宮の様々な建物の正中は、富士山の山頂にある「富士山本宮浅間大社」の奥宮と重なるように建てられているのです。そのために、建物の正中と参道の中心とにずれが生じたのが理由だそうです。これらの建物が建てられた江戸時代の初期に、どのように正確に建物の正中が合うように場所を合わせて、設計や建設を行ったのかは、現代になっても詳しくは分かっていないそうです。
もう一つ不思議なことに、この久能山東照宮の正中線をそのまま延長して富士山山頂を通り過ぎてもさらに延長を続けると、この久能山東照宮と同じように徳川家康を祀る「日光東照宮」に重なるそうです。
「日光東照宮」は「久能山東照宮」と同じように、生前の徳川家康の遺言、「一周忌が過ぎたら日光に小堂を建てて勧請し神として祀り、関東八か国の鎮守とせよ」という言葉に従って創建された神社になります。
徳川家康は、富士山をこよなく愛し、富士山の8合目以上を「富士山頂上浅間大社奥宮」の境内となったことにも強く影響を与えたと伝えられています。そういったことからも、「富士山」と徳川家康を祀る2つの「東照宮」の間には、特別な関係があるといえるでしょう。
さて、そんな徳川家康が祀られている「久能山東照宮」に関してご紹介をしてきましたが、実は今回の取材では、さらに奥の特別な場所を取材することが出来ました。
富士山+αの楽しみ方「もれなく富士山キャンペーン」
JR東海が2025年3月まで実施している、日本が誇る絶景・富士山を眺めるのと一緒に楽しめる様々なプランを提案しているキャンペーンが「もれなく富士山キャンペーン」です。富士山を眺めるという事に加え、静岡県内での、レジャー体験・観光名所・グルメ・宿泊など様々なおすすめの旅を、JR東海のキャンペーン特設ページを通じて予約が出来るというものです。「もれなく富士山」でWeb検索の上、ご確認ください。
今回の取材は、この「もれなく富士山キャンペーン」での特別な体験として用意されている、” 国宝・久能山東照宮の禁足地で特別拝観&富士山を遥拝 特別限定御朱印紙付き “という旅行プランと、同じツアー体験をしています。それは「400年の歴史で一般公開されてこなかった、神職以外は足を踏み入れることがなかった神聖な 【禁足地(鎮守の杜)】 を訪れることが出来る」という貴重なツアーなのです。国宝社殿での精神修養(心のお清め)で、禁足地に足を踏み入れる準備を行い、神職のご案内で入山。久能山の山頂にある第一の古社(末社愛宕神社)から富士山を遥拝するというこのプランは、日数と人数限定で募集されています。
プラン内容に関しては、JR東海の「もれなく富士山キャンペーン」のWebサイト(「もれなく富士山」でWeb検索ください)からご確認ください。(※こちらのプランは現在は販売終了になっているようです。「久能山東照宮」の拝殿内に入りたい場合には、祈祷をしてもらう事で拝殿の中に入ることが出来ますのでそちらを申し込むか、JR東海が行っているツアー「EX旅」などで、久能山東照宮の特別正式参拝が付いているプランを申し込むなどの方法があります。是非、こういったツアーを探してみてください。)
「禁足地」の様子をご紹介しようと思いますが、少し長くなりましたので、別の記事にてご紹介します。
静岡市郊外にある「久能山東照宮」は、徳川家康を祀るための豪華な建物やそれ以前の山城跡などが当時のままで残されている貴重な場所ですので、是非一度は訪れてみてください。
鎌田啓吾(鉄道チャンネル)