「西条柿」発祥の地 長福寺 東広島が誇る実りと歴史が育んだ伝統の味わいを探る【東広島史】
東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:大森美寿枝
奈良時代から伝わる秋の味覚 西条町発祥が有力
秋のフルーツ「柿」には多くの品種がありますが、東広島市西条町が有力な発祥地と伝わる渋柿の品種である「西条柿」について紹介します。
柿とは
柿の原産地は諸説あり、現在日本各地で栽培されている柿のもとになっているのは奈良時代に遣唐使によって伝来したのが通説となっています。
当時の柿はすべて渋柿で熟柿[じゅくし]や、干し柿にして食べられており、主として祭祀用に使われていたようです。
その後、鎌倉時代に神奈川県川崎市で突然変異により甘柿が誕生し(現在の禅寺丸[ぜんじまる])これが世界最古の甘柿といわれています。
江戸時代になると栽培方法が発展し全国に広まり、200種ほどの品種が栽培されるようになりました。日本から海外へも広まり、日本名の「KAKI」と呼ばれ親しまれています。
今では各地で栽培をしている柿は1000種類以上あるといわれ、甘柿と渋柿を見分けるのは難しく品種名で判断するのが確実です。
西条柿の起源地 安芸[あき]国西条「長福寺[ちょうふくじ]」
「長尾山 医王院 長福寺」は東広島市西条町寺家にあり奈良時代神亀[じんき]年中(724~729)行基[ぎょうき]により創建という古寺ですが、現在は無住職寺院となっており、集会所として利用されています。
境内には江戸時代の終わり頃まで幹回り5㍍近い古木があり、この木は各地で植えられている西条柿の原木といわれています。
長福寺には西条柿の原木が伝わる古文書「長福寺縁起」が残されており、このことから「西条柿の発祥の地」として、東広島市史跡に昭和57(1982)年に指定されています。
長福寺には室町時代初期(1336~)作の仏像があり「木造薬師如来坐像」は広島県重要文化財指定、「木彫十二神将立像」は東広島市重要文化財に指定され、現在は長福寺収蔵庫に安置して地域の人たちが大切に管理をされています。
長福寺 縁起
江戸時代初期に書かれたと推定される。鎌倉期の延応元(1239)年、安芸国賀茂郡西条(現在の東広島市西条寺家)にある長福寺の僧良信[りょうしん]が、寺にある薬師如来の霊夢のお告げにより、源頼朝建立の鎌倉にある永福寺[ようふくじ]に弟子の信常[しんじょう]を遣わし、「柿の種」を求めさせて持ち帰りこれを堂の側にまくと7年後には実がなり、良信はこれを干し柿にして永福寺に献じました。その頃、鎌倉4代将軍藤原頼経[ふじわらのよりつな ]の若君が、疱瘡[ほうそう]を患い全く食事もできない症状となり、長福寺から献じられた柿を食したところ、たちまち病が完治し、若君はやがて将軍になられ頼嗣[よりつぐ]と号し、長福寺に良田[りょうでん]八丁の寺領が寄進され、また柿は最上のものとされ、地名から「西条柿」と名付けられました。その後代々鎌倉の将軍家へ「西条柿」を献上したと伝えられています。
西条柿の特徴
果実は、縦長の卵形、側面に4本の溝があるのが特徴です。5月下旬頃から白い花を咲かせ、10月上旬頃から収穫が行われます。柿の平均糖度は16度とされていますが、西条柿はドライアイスや干し柿にして渋を抜くことで糖度は18~20度にも上がり甘みが凝縮され極上の逸品となります。
現在は山陰の島根、鳥取両県が主産地であり、ついで岡山、広島、山口の中国各県や、香川、愛媛など多くの県で生産されています。
◆革新技術・ 接ぎ木により伝播
柿は奈良時代に中国から遣唐使等により交通の要衝であった安芸国に伝来し、この地が温暖な気候のため適応し定着したものと見られます。
また、西条柿には「雄花」が無く、蜂などの昆虫により他家受粉[たかじゅふん]するため結実したその種子は雑種化して「西条柿」の純粋な特性は次世代に伝わらないため「接ぎ木」により殖やします。接ぎ木の技術も奈良時代、共に伝来したといわれています。
◆鎌倉期~戦国時代の西条柿
鎌倉時代になると、広く栽培されるようになり、その後、戦国時代に中国地方を制覇した毛利元就は西条柿を愛したと言われています。毛利氏と尼子氏の数年に及ぶ覇権争いの際に毛利方から石見国(島根県)に持ち込んだとされ、両者の古戦場跡地や旧街道筋、お寺などには樹齢400~500年の西条柿の古木が点在しています。
干し柿は長く保存が利く手軽な兵糧であり、50年にもわたる長期戦のなか毛利軍の農民兵は故郷安芸国の西条柿の穂木や苗木を持ち込み接ぎ木したと思われます。西条の地名がつけられた柿は、長福寺―西条(鏡山城)→吉田(郡山城)→島根(月山富田城)へと人々の動きに伴って各地に伝播[でんぱ]しました。
◆江戸期の西条柿
広島藩は西条柿奉行を設け、西条柿の増産に力を入れ藩財政に貢献をしたとされています。
西条柿の干し柿(つるし柿)は安芸国の名産と知られ、文政2(1819)年の芸備国郡志御用・賀茂郡書上帳には「異国の名産品が集まる肥前長崎港では果物は安芸国の西条柿が一番」と記されています。また、農民の飢饉[ききん]救済対策として文政年間(1818~1830)には広島藩三次町奉行の頼杏坪[らい きょうへい]は、西条柿の植え付けを奨励し現在も杏坪柿と呼ばれる古木が残っているそうです。
◆長福寺の原木
鎌倉から持ち帰り植えた原木は、江戸中期正徳2(1712・樹齢473年)年頃までは生育良好でしたが文政12(1829)年に枯死してしまい樹齢570~590年生とみられています。
原木が枯死する40年前の寛政元(1789)年頃、原木の断絶を心配した村人が近在の何カ所かに接ぎ木をしていました。文政13(1830) 年寺家の医師野坂完山の書簡にその木が成長し柿がなり始め、広島藩主へ干し柿にして献上したことが記載されています。残っていた古根株で藩主は床の置物を作らせ楽しんでいた様子も書簡に見られます。 現在、長福寺境内にある西条柿の木は、昭和の中頃植えられたもので多くの実がなっています。
◆西条柿の新品種開発、販売
西条柿は800年以上の長い期間をかけて中国地方各地へ伝播していき、現在は各産地で盛んに開発研究をして生産販売活動に取り組んでいます。
広島県では東広島市を中心に「原産・西条柿」と銘うち近在市場へ出荷をしています。農業技術センターでは時代感覚に合った開発に取り組み、柿菓子や柿葉から保健機能食品等を医学部門連携の産官学共同研究が進められているそうです。
接ぎ木により先人たちが残した古木は、経済バブル期に大半が伐採されてしまいましたが貴重な遺伝資源は「天然の文化遺産」です。
秋になると皮むきをされた柿が軒下につるされている風景はまさに日本の秋の原風景です。歴史や文化を感じていただき、今年の秋は最上の味覚「西条柿」をじっくり味わってみてください。
〈参考文献〉
・「街道を往った西条柿」中国電力(株)エネルギア総合研究所
・「寺家の歴史散歩」一般財団法人 寺家会
・「西条町誌」西条町
プレスネット編集部