【光る君へ】 清少納言の後夫・藤原棟世とは、どんな人物だったのか?
随筆『枕草子』で平安文学を代表する一人となった清少納言(せいしょうなごん)。
才知あふれる彼女の夫は二人いたことが知られており、先夫の橘則光(たちばなの のりみつ)は、体育会系すぎてセンスが合わず、離婚してしまいました。
※ただし離婚後も交流は続いており、関係は良好だったと言います。男女の仲はよく分かりませんね。
やがて、後夫の藤原棟世(むねよ)と再婚するのですが、この人物についてあまり詳しいことは分かっていないようです。
先夫の橘則光は『枕草子』にしばしば登場するのに対して、後夫の藤原棟世はあまり登場しないのも理由の一つでしょう。
今回は、清少納言の後夫・藤原棟世について紹介したいと思います。
藤原棟世の家族やキャリア
藤原棟世は、藤原氏南家・巨勢麻呂流の子孫・藤原保方(やすかた)と、船木氏(ふなき。実名不詳)の間に誕生しました。
【藤原棟世 略系図】
……藤原鎌足-藤原不比等-藤原武智麻呂(むちまろ)-藤原巨勢麻呂(こせまろ)-藤原真作(またなり)-藤原三守(みもり)-藤原有貞-藤原経邦-藤原保方-藤原棟世-藤原重通-藤原棟貞-藤原棟房……
※『尊卑分脈』真作卿流より
『尊卑分脈』によると、兄弟(いずれも母親不詳、異母弟か)には藤原棟幹(むねもと。無位無官?)、藤原棟利(むねとし。従四位上・春宮少進)、藤原棟用(むねもち。従四位下・丹波守)がいます。
藤原棟世の生年については不明ですが、応和3年(963年)に「六位蔵人」となっている点に注目しましょう。
六位蔵人になる年齢は決まっていませんが、おおむね20~30歳でなるものと推定すると、藤原棟世の生年は承平3年(933年)~天慶6年(943年)ごろの誕生と考えられます。
ちなみに清少納言の生年は康保3年(966年)ごろと推定されているため、夫婦間の年齢差は20~30歳以上と考えられるでしょう。こうなると夫婦というより、ほぼ父娘ですね。
二人の結婚時期も不明ですが、一人娘である小馬命婦(こまのみょうぶ。上東門院小馬命婦)が、正暦4年(993年)以前の生まれと推測されることから、それより更に前の結婚と考えられます。
官歴については以下のとおりです。
・村上天皇(第62代)朝:六位蔵人
・円融天皇(第64代)朝:右中弁
・一条天皇(第65代)朝:摂津守
※時期不詳:筑前守、山城守(摂津守以前。一条天皇朝?)
六位蔵人(ろくいのくろうど)とは、天皇陛下の側近である蔵人のうち、六位の者を指します。
通常内裏に昇殿できるのは五位以上の貴族に限られますが、蔵人に限ってはその職責上、六位でも内裏に昇殿できる特権が与えられていました。天皇陛下の側近ゆえ激務ではありますが、それに見合った出世コースであったことから人気の官職だったそうです。
右中弁(うちゅうべん)とは、太政大臣の配下として各官庁の指揮監督に当たる官職(弁官の一つ)でした。
弁官は左右(左が上位)と大中少(大が上位)ランク分けされ、序列は左大弁⇒右大弁⇒左中弁⇒右中弁⇒左少弁⇒右少弁の順となります。棟世は右中弁なので、上から4ランク目ですね。
摂津守(せっつのかみ)とは、摂津国(現:大阪府北部一帯)の国司で、守(かみ)はその長官(一等官)でした。
筑前守(福岡県北部)・山城守(京都府南部)についても同様です。
国司は徴税権を持っているため、朝廷に定額を納めたら後は私腹を肥やせる人気の職でした。
これらのキャリアを総合すると、藤原棟世はある程度の能力と謹厳さを備えていたと考えられるでしょう。
清少納言との結婚生活や子孫たち
藤原棟世と清少納言との生活がどうであったか、詳しい記録は残っていませんが、なにせ父娘ほどの年齢差。ですから二人の関係は、ごく穏やかなものだったのではないでしょうか。
そんな藤原棟世と清少納言の間には、一人娘が生まれました。実名は不詳(幼名は狛との説あり)ですが、後に藤原彰子へ出仕して小馬命婦(こまのみょうぶ。上東門院小馬命婦)と呼ばれました。
小馬命婦が誰と結婚したかは分かりませんが、後に娘を生み、その娘が高階為家(たかしなの ためいえ。大弐三位の息子で紫式部の孫)と交際していたことが分かっています。
『尊卑分脈』によれば、為家の子には生母不詳の高階為遠(ためとお。正四位下・丹波守など)がいます。為遠は、もしかしたら清少納言の血を引いているのかも知れません。
【高階為家・略系図】
……高階為家-高階為遠-高階家行(正四位下・大舎人頭)-高階為清(正五位下・佐渡守)-高階行清(無位無官?)-高階有清(無位無官?)……
※『尊卑分脈』第十九巻より
【清少納言・略系図】
……清原元輔-清少納言-小馬命婦-女子(高階為家室?妾?)……
ほか、棟世の子には生母不詳の藤原重通(しげみち)がおり、従五位下に叙せられ、朱雀院の判官代(後朱雀天皇の側近)や周防守を務めました。
重通の子は藤原棟貞(むねさだ。従五位下)、藤原棟房(むねふさ。無位無官?)と代を重ねていきます。
藤原棟世の没年については清少納言と同じくはっきりしておらず、一説によると長保3年(1001年)の夏ごろと考えられているようです。
藤原棟世・基本データ
生没:生没年不詳
氏族:藤原氏南家巨勢麻呂流
両親:藤原保方/船木氏
兄弟:本人、藤原棟幹、藤原棟利、藤原棟用
伴侶:清少納言、その他
子女:小馬命婦、藤原重通
官位:正四位下/摂津守
今回は清少納言の後夫・藤原棟世についてその生涯をたどってきました。多くが謎に包まれているため、今後の究明が俟たれます。
恐らくNHK大河ドラマ「光る君へ」は登場しないでしょうが、晩年の清少納言が藤原棟世とどのような家庭生活を送っていたのか、実に興味深いですね。
※参考文献:
萩谷朴『枕草子解環 一』同朋舎(角川書店)、1981年10月
藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第3巻』吉川弘文館国立国会図書館デジタルコレクション
増淵勝一『平安朝文学成立の研究 韻文編』国研出版、1991年4月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)
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