『夫婦で自刃』乃木希典の教育者としての晩年 ~明治天皇に殉じた壮絶な最後
乃木希典(のぎ まれすけ)は、日清戦争および日露戦争で名を馳せた陸軍の軍人で、特に1904年の日露戦争頃には大将にまで昇進し、旅順要塞の攻略に成功するなど、数々の軍功を残しました。
日露戦争後、希典は明治天皇からの厚い信頼を受け、皇族や華族に対する教育にも尽力することとなります。彼の人格形成に基づく「質実剛健」の理念は、当時の学習院の教育方針に大きな影響を与えました。
1907年、希典が第10代学習院長に任命されたことで、学習院はその方針をより一層強化することになります。
また、この時期には義務教育が6年に延長され、全国で就学率が上昇していた時代背景がありました。日本の教育制度が大きく発展した時期と、希典の教育者としての役割が重なることは非常に興味深い点です。
ここでは、陸軍大将としての乃木希典が、教育者として残した足跡と、その壮絶な最後について追ってみたいと思います。
江戸の長府藩上屋敷で生まれ、文武両道を学ぶ
乃木希典は、1849年12月に長府藩(長州藩の支藩)の藩士であった父・乃木希次(まれつぐ)と、母・壽子(ひさこ)の三男として、江戸の長府藩上屋敷(現在の東京都港区六本木)で生まれました。
希典は10歳まで江戸で過ごし、その後、父・希次が藩主の跡目争いに巻き込まれたことをきっかけに、一家は長府(現在の山口県下関市長府)に移住します。ここで希典は、漢籍や詩文に加え、流鏑馬や西洋式砲術、剣術など武芸の修練を積みました。
1862年、希典は鍛錬道場である集童場に入り、翌1863年に元服し、幼名の「無人(なきと)」から「源三」と改めています。
軍人の道を選び乃木希典へと改名、そして結婚
1864年、希典は学者を志し、萩藩の藩校である明倫館の文学寮に通いながら、一刀流剣術にも励んでいました。
1865年には第二次長州征討が始まり、希典は一時萩から長府へ戻り、山縣有朋の指揮のもと小倉戦争に参加して功績を挙げます。その後、再び明倫館に復学しました。
1868年(明治元年)、希典は藩の命令により伏見御親兵兵営に入り、フランス式の軍事訓練法を学びました。しかし、従兄弟で報国隊の隊長であった御堀耕助から「学者になるか、軍人になるか」を迫られ、最終的に軍人の道を選んだといわれています。
その後、軍人としてのキャリアを歩み始めた希典は、1872年に大日本帝国陸軍の少佐に昇進し、この時期に名を「希典」に改めました。当時の希典は22歳で、これは異例の大抜擢でした。その後も昇進を続け、軍階級の階段を着実に上っていくこととなります。
1877年、鹿児島で西郷隆盛を中心とした士族の反乱である「西南戦争」が九州で勃発する中、東京の神田錦町では学習院が創立されています。後に希典は、この学習院の第10代学習院長に就任します。
プライベートでは、1878年に28歳で旧薩摩藩の藩医の娘である静子と結婚。
翌年、長男の勝典が生まれ、1881年には次男の保典が誕生しました。
日露戦争で名をあげる乃木希典とその影
1894年7月から1895年4月にかけて、朝鮮半島の支配権を巡って日本と清国の間で日清戦争が勃発しました。
この戦争において希典は、旅順要塞をわずか1日で陥落させるという輝かしい戦果を上げています。
その後、1904年から1905年にかけて、朝鮮と満州を舞台に日露戦争が繰り広げられました。
この戦争では、日本(大日本帝国)とロシア帝国の間で激しい戦いが行われ、希典は第三軍の司令官として、困難な状況下でも旅順要塞を再び陥落させることに成功しました。
希典は日清戦争の数年前にドイツに留学し、ドイツ陸軍の訓練や戦術を学んでいます。それ以前は道楽的な生活を送っていましたが、留学後は質素で簡素な生活を心がけるようになり、その旨を復命書として政府に報告しています。こうした背景も日清戦争、日露戦争に勝利した一因と考えられています。
日露戦争で苦戦していた時期には、乃木の更迭を求める声も上がりましたが、最終的に明治天皇の御前会議において、乃木の指揮継続が決定されました。この戦いにおいて日本は勝利し、朝鮮半島と満州を支配下に置くこととなります。
しかし、こうした輝かしい功績の裏で、希典は悲劇も経験しています。
1904年、長男である勝典が南山の戦いで戦死し、その半年後には次男の保典も戦死してしまったのです。
乃木希典 第10代学習院長に就任
日露戦争が終わると、1906年に希典は東京へ凱旋帰国しました。
この際、彼は第三軍司令官を退き、明治天皇より新たに軍事参議官に任命されます。
同時期、華族女学校と学習院の合併が行われましたが、合併後も学習院(男子)と学習院女学部(女子)は別々の学校として運営されました。
翌年の1907年、乃木希典は第10代学習院長に就任し、軍事参議官と兼任になります。
この人事には、明治天皇の深い意向が反映されていたとされています。
教育者としての乃木希典
こうして希典は学習院長となりましたが、その翌年には、後に昭和天皇となる裕仁親王が学習院へ入学してきました。
乃木は裕仁親王の教育係としての役割を果たし、さらに皇族や華族の教育にも尽力しました。
特に裕仁親王に対しては、「どんな天候であっても、徒歩で通学するように」と指導し、それまでは車で送迎されていた裕仁親王もこれを忠実に守り、学習院まで歩いて登校するようになったそうです。
それまでの学習院は、華美で柔弱な印象を持たれていましたが、希典の「質実剛健」を重視する教育方針によって、大きく変化していくこととなります。
希典は中・高等学科を全寮制とし、自らも寮に住み込み、生徒とともに質素で勤勉な生活を送ったのです。この寮は現在、国の登録有形文化財である「乃木館」として残っています。
乃木の教育方針では、当時流行していた西洋のスポーツである野球やテニスよりも、兵式体操や馬術、弓術、撃剣、柔道といった日本的な武芸が重要視されました。これらの厳格な教育スタイルは「乃木式」と呼ばれ、乃木の人格形成や教育理念を反映したものでした。
また、乃木は「贅沢ほど人を馬鹿にするものはない」「寒い時は暑いと思ひ、暑い時は寒いと思へ」といった訓示を通じ、生徒たちに厳しさと自制を教えています。
衝撃を与えた乃木希典の殉死
国内外に名を馳せ、1907年には伯爵の爵位を受けた希典でしたが、その最期は、日本中に衝撃を与えるものでした。
1912年9月13日、明治天皇の大喪の日。乃木希典は、明治天皇の崩御に殉じる覚悟を決め、自らの命を断つことを決意したのです。
場所は、東京市赤坂区新坂町(現:東京都港区赤坂八丁目)の自邸でした。
午後7時40分頃、希典は居室にて、天皇の御真影の前に正座しました。
そして日本軍刀で十文字に腹を切り開き、その後、妻・静子の自害を見届けました。静子は希典の決意に共感し、自らも夫と共に死を選んだのです。彼女は刀を用いて胸を突き、命を絶ちました。享年54。
静子が息を引き取ったのを確認した後、希典は最後の行動に移ります。彼は軍刀の柄を膝に立て、剣先を喉に当て、力強く押し込みました。これにより気道や頸動脈を深く貫通し、前に倒れ込みながら即座に息を引き取りました。享年64。
この出来事は、日本全国に大きな衝撃を与え、まさに明治時代の終焉を象徴するような事件となりました。
乃木夫妻が訪れた栃木県那須塩原市石林の土地には現在、乃木神社が建立されており、夫妻が祀られています。
また、東京都港区にある乃木邸は「乃木公園」として管理されており、その名は後世に残されています。
彼の名は乃木坂などの地名にも刻まれ、今なお多くの人々に語り継がれています。
参考:『学び舎の乃木希典』『学習院HP』他
文 / 草の実堂編集部