レオンティーナ・グランスポーツとクワトロルオーテ・ザガート 2台の複製アルファ・ロメオ:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#36
書棚の奥から立ちのぼる、油と紙の匂い
写真や資料を整理していて、“レオンティーナ”のカタログを見つけた。今回はごく少数が製作されたという希有なクルマの話だ。
一緒に、私がこの希有なクルマの存在を知った時のメモ書きと、実車のスナップ写真が1枚挟み込まれていた。カタログはアルファ・ロメオ好きの先輩から譲られたものだった。希有なものであり、私にとっては貴重な資料であることは間違いないが、これまで1度も何かを書くという機会はなかった。それは戦前期アルファ・ロメオの高度な再現車、レプリカだ。存在を知ってから優に40年を経てPARCFERMEの連載にこれを書こうとしている。
薄いファイルがひらいた、小さな扉
レオンティーナという名のクルマが存在し、日本に輸入されたことを私が知ったのは、1979〜80年頃だったと思う。当時、勤務していた自動車輸入会社の資料棚に、“LEONTINA”とのタイトルが書かれた薄いファイルを見つけたときだった。諸元表と簡単な箇条書きのメモ、カタログのコピーだけが挟まった、見落としそうな薄いファイルだったが、はじめて目にするものだった。
これから運輸省(当時)に型式申請する最新モデルの認証作業で忙しい時期だったが、謎のファイルを前にした私にとっては、まずは沸き上がる好奇心の処理が優先事項になり、昼休みを待ってそれを開いてみた。
6Cという神話、その鼓動を追って
レオンティーナとは、正式名を“アルファ・ロメオ・ペッテネッラ・レオンティーナ・グランスポーツ2000”といい、見てのとおり、アルファ・ロメオ6C1750の再現車(レプリカ)であり、ペッテネッラはこれを製作したカロッツェリアの名称だ。
「なんだあレプリカか」と切り捨てるには惜しい高度な作りを掲げていて、それに興味を抱き、以来、気になるクルマになった。個人的には、レオンティーナの存在を知ったことが転機となって、この手の“職人の執念が迫り来る”かのような造作と設えを備えた複製車に興味を抱くようになった。
元になったヴィトリオ・ヤーノ設計の6Cシリーズ(1500/1750/1900)は、凝った設計の直列6気筒エンジンを備え、実用的な乗用車仕様からレースにも使えるスポーツモデルと、広いバリエーションを持つ万能車だった。シリーズの頂点に君臨したのは、基本設計のSOHCヘッドをDOHC化したモデルにスーパーチャージャーを備えて大幅にパワーアップし、軽量なスパイダーボディを架装した6C1750GSだ。ミッレミリアなど長距離レースで大活躍したアルファ・ロメオの象徴となったモデルだ。
ジュリアの骨格に宿る往年の影——4RZという試み
アルファ・ロメオにとっての歴史的重要車両を近代に再現しようとした例は、社外のほかにもアルファ自身にもあった。イタリアの著名自動車雑誌、クワトロルオーテ創刊者の提唱によってクワトロルオーテ・ザガート(略称は4RZまたは4Rザガート)と命名したモデル少数生産されたことがあった。
4RZは友人の手元にあった時期があり、記事にするために何度か乗る機会があったので少し触れてみたいと思う。それは生産車のジュリア(101系)用モノコックボディのフロア部分を使いながら、可能な限り6C1750を再現しようとしたモデルである。
その構成ゆえに、機構的にはジュリアのレイアウトを踏襲。エンジンは1.6ℓ4気筒DOHC、5段変速機、前がダブルウィッシュボーン式独立、後が非独立懸架と、その時代の量販モデルと同一だった。だたし、歴史的なプロポーションと見栄えを優先した結果、ブレーキをドラム式としている。
4RZの最大の売りは、なんと言ってもボディをザガートが自社工場で架装したことだ。オリジナルの“ザガート・スパイダー”のスタイリングをジュリア・ベースに描き直して製作し、当然ながら“Z”のエンブレムも備わった。
よって4RZは、アルファ・ロメオ出身の名物ヒストリアンであったルイジ・フージの著作、『All Alfa Romeo Cars From 1910』でも紹介されているシリーズ生産車格の“公認のレプリカ”なのである。
ザガートの稲妻、日本の道路へ
フージの記述によれば、4RZは1965年に12台、66年に51台、67年に29台が生産されたとあるから、総計が92台と、この手のファンカーとしては多くが造られたことが分かる。イタリア国内での販売価格は240万リラで、同時期の1600スパイダー・デュエットは66年当時に219万5000リラ、GT1300ジュニアは169万5000リラだったから、目立つスタイリングを求めるにはそれなりの出費が必要なことがわかる。
そのうち6台が、当時のアルファ・ロメオ日本総代理店の伊藤忠オートによって、1967年から68年に正規輸入されている。輸入当初の価格は約320万円程度で、ポルシェ912とほぼ同価格であった。また、日本からの要望でごく少数ながら右ハンドル仕様も製作された。余談ながら、オリジナルの6Cシリーズはすべて右ハンドル仕様であったから、4RZの右ハンドル仕様は“原型に忠実”ということになるだろう。
ドライブした印象は、スタイリングゆえの開放感に優れることで、走行風の巻き込み以外は量販型のジュリア・スパイダーとなんら変わりはなかった。
鋼の梯子に古典の魂——レオンティーナ、硬派の設計哲学
一方、本題のレオンティーナの構造はかなり本格的な硬派だ。まずシャシー構造がヴィンテージ期の踏襲であることだ。オリジナルの形状を模したと謳う特製の鋼板板金製ラダーフレームを持ち、前後ともリーフスプリング式の非独立懸架を用いるという徹底ぶりだ。さらにジュリアから流用した2ℓ4気筒DOHCエンジンの搭載位置も前車軸より後方にして“ヴィンテージカー”の様式を再現していた。エンジンと同様に変速機もジュリア由来の5MTだ。
寸法面でも6C1750になぞられていて、ホイールベースもオリジナルに合わせて2750mmとし、トレッドも前輪が1415mm、後輪が1385mmとして、現代車にはない細身のプロポーションを再現している。
さらに、6C1750GSのスーパーチャージャー付き6気筒に対して、ジュリアの2ℓ4気筒とエンジンには違いはあるものの、公称車重は6Cの920kgに対して約1000kgと、ここでもオリジナルに近い値だ。
おそらく相当の製作コストを掛けたに違いないレオンティーナの販売価格は不明だが、相当に高価であったこと想像できる。価格ゆえか1973年から76年に14台しか販売されずに終わったという。この時期にはオリジナルの6Cであってもバリエーションと保存状態次第では安価での入手ができただろうから、気を使わず、手間も掛けずに乗ることができるとは言え、レオンティーナに大枚を投じる趣味人はそう多くはなかったのかもしれない。
ジュネーヴの眩暈、日本へ飛んだ一台
レオンティーナが発表されたとき、欧州旅行の際に見初めた日本のアルフィスタが入手を希望したという。そしてごく初期の生産車が日本にやって来ることになった。公式デビューは1976年3月のジュネーヴ・ショーであったから、あるいはショー会場で魅了されたのかも知れない。
前述したように、私がこのクルマを知った際に輸入会社のAR販売担当者に聞き取りした証言メモによれば、新規登録上の懸念から船便では間に合わないと判断し、空路での輸入を選択したという。また納期の関係から、日本に飛来したのはジュネーヴ・ショーでデビューした展示車ではないかとのことだった。
確かに76年ジュネーヴ・ショーを報じたCG誌に掲載されたレオンティーナの写真を見ると、日本にやってきたクルマの色合いはショーカーと同一に見える(掲載写真はモノクロなので想像の範疇を出ないのだが)。
レオンティーナの存在を知ったときに話を聞いたAR販売のベテランスタッフから「興味があるなら機会をみてオーナーを紹介するから、見せていただきなさい。」そうした言葉をもらったが、機会に恵まれずに時だけが過ぎた。
古都での邂逅、記憶はセピア色に
それから暫くして、ある有名な観光地に住むヒストリックカー好きとクルマ話をしていたところ、「それならわかる。置いてある場所を知っている。誰でも見える場所にある……」と彼は言い放った。
さっそく夏休みの旅行にその地を選び、古都の散策中にとある店でレオンティーナを発見。短時間ながら対面することができた。ここに掲げたのはその時のスナップ写真で、プリントが1枚だけ残っている。現車を見ることが叶い、場所が特定できたことで安堵したことを覚えている。
雑誌記者に転じてからもレオンティーナの存在はたまに脳裏に浮かぶことがあり、企画を立ててキッチリと取材したいと考えていたが、あるとき知人からの知らせでクルマがその町から去ったことを知った。
“風の便り”によれば、どこかで新しいオーナーのもとに納まり、塗色も6C1750GSらしいロッソアルファに塗り変わっているとのことだった……。果たして再会はあるのか?