【佐橋佳幸の40曲】小坂忠「夢を聞かせて」Tin Pan 再結成を機に細野晴臣がプロデュース!
連載【佐橋佳幸の40曲】vol.35
夢を聞かせて / 小坂忠
作詞:小坂忠
作曲:佐橋佳幸
編曲:佐橋佳幸
キャラメル・ママ発展したティン・パン・アレー
1973年、若き日の細野晴臣(ベース)、鈴木茂(ギター)、林立夫(ドラム)、松任谷正隆(キーボード)の4人が結成したスーパーバンドが “キャラメル・ママ” だ。彼らは吉田美奈子、荒井由実、雪村いずみ、南沙織ら多彩なアーティストたちのレコーディングでバッキングを務め、それまで日本のポップシーンにはなかった新しいグルーヴとサウンドを世に広めていった。
やがて74年半ば、キャラメル・ママは参加メンバーの裾野を広げる形でミュージシャン集団 “ティン・パン・アレー” へと発展。佐藤博(キーボード)、ジョン山崎(キーボード)、浜口茂外也(パーカッション)、田中章弘(ベース)、林敏明(ドラム)、吉田美奈子(ヴォーカル)、小坂忠(ヴォーカル)らとともに、1980年代にかけて日本のポップ音楽を飛躍的に発展させる意識的な活躍を展開していった。
佐橋佳幸がTin Panのツアーに参加
そんなティン・パン・アレーが “Tin Pan” という名義で復活したのが2000年暮れ。メンバーは細野晴臣、鈴木茂、林立夫。再結成アルバムをリリースしたのに合わせ、翌2001年にかけてコンサートツアーも行われた。そして、佐橋佳幸はそのツアーに参加。これは彼にとって大きな出来事だった。Tin Panの3人とはこの時が初共演。面と向かってきちんと話をしたのもおそらくこの時が初めてだったという。
「Tin Panの再結成アルバムのレコ発ツアー。メンバーはTin Panの3人に、久保田真琴さん、忠さん、美奈子さん、大貫(妙子)さん、(忌野)清志郎さんがヴォーカルで、あと佐藤博さん、モツ(浜口茂外也)さん、高橋祐子さん(アコーディオン)に僕。東京のNHKホールで始まって、神戸チキンジョージ、福岡サンパレス… というツアーで。東京以外は高野(寛)くんもいた。僕はアルバムのレコーディングには参加していなかったんだけど、たくさんのゲストが参加してこういうツアーをやることになった時、譜面を書いたりするまとめ役がいないとってことで声がかかって」
「この時期、はっぴいえんどやティン・パン・アレー世代のバンドをカッコいいな、新鮮だなと再評価していたのは僕よりも若い、渋谷系の連中とかDJの人たちが中心ではあったんだけど。楽器が得意だったり、実際に昔の曲をぱっとセッションできるとか、あとは細かい譜面書いたり… という、いわゆる力仕事(笑)が得意な人は少なかったから。そんなわけで、ツアーをやるにあたってかつてのティン・パン・アレー関連の曲を知ってて、なおかつ若いまとめ役はいないかということで、僕にお声がけいただいたわけです」
1970年代にシーンの礎を築いたレジェンド世代の末っ子的な存在
以前から本連載を読んでくださっている方ならばご存じの通り、佐橋はアマチュア・バンド “人力飛行機” を組んでいた中学生時代、ヤマハ渋谷店で松任谷以外のキャラメル・ママのメンバー3人を目撃。その際、林立夫にサインをしてもらったことがある。そんな佐橋にとって、これはもう断る理由などない、この上なく光栄な仕事だった。1980年代にデビューした佐橋ではあるけれど、音楽的には1970年代にシーンの礎を築いたレジェンド世代の末っ子的な存在。若い世代と組んで新しい時代を切り開きつつ、同時に上の世代との共演をとりまとめる役割も任される。そんな佐橋の立ち位置は間違いなくこの時期に確立した。
「達郎さんや大貫さんとシュガーベイブの曲を演奏した時と同じで、10代の頃からずっと聴いてきた音楽の世界に自分が加わる体験でした。そういえば、このTin Panのリハーサルで「北京ダック」やった時に、細野さんが僕の譜面を見ながら “僕、こんなフレーズ弾いた覚えないんだけど” って言うんで、“あ、ちょっと待ってください” ってCD探してきて聴いてもらったら “あ、弾いてたね” “ですよね” みたいな(笑)。もう、ここでもマニアとしての蓄積が役に立ちまくりました」
レジェンドのひとり、小坂忠との出会い
そしてもうひとつ。ここで佐橋は、以降も親しくコラボレーションを重ねてゆくことになるレジェンドのひとり、小坂忠との出会いも果たした。もともと1970年代、演奏家としては凄腕ながら歌うことは苦手… という顔ぶれが中心だったティン・パン・アレーが自分たちでコンサートを行う際、吉田美奈子とともにリードボーカリスト的な役割を担うこともあった小坂忠。1970年代末、クリスチャンとして聖職につき、ポップミュージックの世界からゴスペルの世界へと活動の軸足を移していたが、Tin Pan再結成を機にポップシーンへと復帰し、昔のよしみで復活ツアーにゲストボーカリストとして参加した。ティン・パン・アレーとの共演は実に25年ぶりのことだった。
それをきっかけに、小坂は2001年10月、久々に細野晴臣にプロデュースをまかせたアルバム『People』をリリースすることになるのだが。そのレコーディングにも佐橋は参加することになった。
「Tin Panで忠さんにお会いしたのが2000年12月。そして、2001年の4月から忠さんの新作アルバム『People』のレコーディングが始まってます。お会いしてすぐのことだったんだな。で、その後、夏にFM802主催の野外音楽フェス『MEET THE WORLD BEAT』を大阪でやったときには、もう “小坂忠&フレンズ” の名義で一緒にライブをやってますね。『People』は細野さんがプロデュースで、基本メンバーは林さん、細野さん、佐藤博さん、モツさん、そして僕。レコーディングが始まる前、たしか2001年の年明けに細野さんから曲を書いてほしいというメールが来たんだけど。そこには “ジェイムス・テイラー・ミーツ・ビル・ウィザースの感じでお願いします。いい曲待ってます” って書いてあったの。あの細野さんに、ジェイムス・テイラーみたいな曲を、しかも忠さんのために書いて欲しいと頼まれたんだよ。2行くらいの短いメールだったんだけど、それはもう、人力飛行機やってる中学生が見る夢みたいな話でさ(笑)」
あっという間に書き上げた「夢を聞かせて」
細野からのメッセージに触発されるかのように、すぐにインスピレーションが湧いた佐橋は、メールを受け取ったその日のうちに、あっという間に曲を書き上げてしまったのだとか。それが「夢を聞かせて」だった。
「ちょうど、ProToolsを導入するかしないかの時期だったかな。当時、仕事部屋として借りていた自由が丘のワンルームマンションみたいなところでひとりでデモを作ったのを覚えてる。で、その曲を持っていったら即採用になって。忠さんも曲を聴いて、すぐに詞が浮かんだと言ってくれて。とはいえ、もちろん最初はまだ歌詞は未完成の状態で。でもその段階で、僕が作ったデモのオケで忠さんが歌ってくれたの」
「その時のデモはね、ブラシのスネアみたいなやつのループに合わせてアコギ弾いてるだけのアレンジだったのね。他の楽器とか一切入れずに。でも、そのデモをみんなで聴いた時、モツさんが “この曲、けっこうサハシのループが雰囲気出してるよね” と言って、スタジオにあった椅子を自分のブースに持ってって、それをブラシで叩いて…。それが僕のデモのループっぽい感じになってね。細野さんも気に入ってくれた。そのモツさんのブラシと僕のアコギを軸に、みんなで録っていった記憶があります。この頃はまだ佐藤博さんがお元気で。この曲での佐藤さんのプレイがもう、本当に、とてつもなく素晴らしいんです」
Smooth Aceはどうかな?
コーラスには、当時メジャーデビューを果たしたばかりだった4人組コーラスグループ(現在はアカペラ・デュオとして活動)Smooth Aceが参加した。
「これ、やっぱりコーラス入れたいですよね… って話になった時、“Smooth Aceはどうかな?” と言ったのは細野さんだった。それで “コーラスは僕に任せてもらっていいかな” と、細野さんがシゲちゃん(重住ひろこ)とオカちゃん(岡村玄)と一緒にコーラスを考えて後半のゴスペルっぽいラインを入れてくれた。ギターに関してはベーシックは基本的に僕がやって、後で色付けのオーバーダビングを(鈴木)茂さんがやった感じ。だからコーラスも、茂さんのダビングも、僕はレコーディング現場にはいなかったんですけど。そんな感じでレコーディングを進めていきました。曲を作ってきた人のデモを聴きながら、みんなでヘッドアレンジしながらやっていく… という、本当に昔ながらの方法。それを、あのメンバーでやれたというのはね、本当に幸せな経験でした」
大名盤『HORO』のタイトルチューンの再演バージョン
このレコーディングセッションがスタートした際、1曲目に演奏されたのは「ほうろう」だった。1975年、細野プロデュースの下、ティン・パン・アレーが全面バックアップした小坂忠の大名盤『HORO』のタイトルチューンの再演バージョンだ。久々の共演レコーディングだけに、Tin Panの再結成ツアーでも演奏したこの曲をウォーミングアップを兼ねて… という趣向だったらしい。
「ギターは、細野さんに “この前のツアーでやった佐橋くんのアプローチが良かったから、あんな感じでやって” と言われたので、そんな感じで弾いています。ちなみにこのバージョン、最後「♪ほうろうーっ」って歌ってから、オリジナルとは違ってフェイドアウトしているんですよ。「♪ほうろうーっ」の後、じゃんじゃん!ってブレイクダウンして終わるんじゃなく、ずっと同じパターンを演奏し続けて… という。そしたら、やってるうちに何かヘッドフォンから “ぼわぁぁぁ” って変な音が出てるの。なんだろうと思ったらさ、細野さんが寝てたの(笑)」
「ベースが鳴りっぱなし。“ごめん、あまりに気持ちよくなって寝ちゃった” って。もう、みんな大爆笑。でも、本当にすごくいいテイクだったんで、その、細野さんが寝ちゃう寸前までのところでフェードアウトすることにして。いやー、僕も長くやってきていろんな経験してきたけど、演奏しながら寝る人を見たのは後にも先にもあの時だけです。しかも、レコーディングスタジオでだよ。なんだか、すごく幸せな気持ちになっちゃった。いやぁ、細野さんすごいなと笑いました」
同じ目黒のご近所育ち、すっかり意気投合した佐橋と小坂
もちろん、そのセッションに混ざって対等に渡り合う佐橋もすごい。こうして『People』が縁となり、佐橋と小坂はすっかり意気投合。“せっかくお近づきになったんだから、この機会にいろいろ聞いちゃえー” とばかり、休憩時間も佐橋は小坂を質問攻め。幼い頃の音楽体験のこと、歌い始めてからのキャリアのことなど、いろいろ貴重な話を聞くことができた。そして話しているうちに、実は子供時代、地元が同じだったことも判明。
「不思議なご縁を感じたなぁ。忠さんの中学って、僕の家から道一本渡ったところにあったんです。僕が通っていたのはお隣の中学だったんだけど。同じ目黒のご近所育ち。話してみると、その頃のご自宅もうちの近所だった。僕が中学生の頃にはもう忠さんは引っ越しちゃっていたんだけど。やっぱ地元が一緒だから響きあうものがあったのかなぁ、なんてことも思ったりして」
ゴスペルの世界からまたこの舞台に帰ってきた小坂忠
2001年12月、“小坂忠&フレンズ” 名義による『People』のレコ発ライヴが新宿厚生年金ホールで行われた。
「第1部はヒックスヴィルとの共演で、僕は第2部で演奏しました。すっごいいいコンサートだった。忠さんがゴスペルの世界からまたこの舞台に帰ってくるとは思わなかったけど。牧師さんとして毎日歌っていたから、歌声もすごく力強いの。音楽的にも素晴らしいし、人間的にも本当に誰からも愛される人。僕はその中ではいちばん若かったから、すごいかわいがってもらって。それで、やっぱり忠さんにはもっといろいろアルバムを作ってもらおうよって話になって、その関係が2009年、僕がプロデュースしたアルバム『Connected』までつながっていくんですよ」
「ライブもいっぱいご一緒した。キョンさんたちと毎年やってるホーボーキング・セッションにも出演してくれたりね。無茶ブリで、ドアーズとか歌ってもらったこともあるなぁ。昔、忠さん、ディスコバンドで歌ったりもしていたからね。だったら… ってことで、長髪のカツラを用意して、それかぶって「ハートに火をつけて」を歌ってもらおう、と。ノリノリで歌ってくれたよ、カツラもかぶって。もう、キリスト教を布教している牧師さんが絶対に歌ってはいけないようなヤバい歌詞の曲なのに(笑)。あと、エルヴィス・プレスリーもやってくれたな。これもまたうまいんだ」
2017年、癌に冒されていることが発覚。以降、闘病を続けながらそれでも活発に音楽活動を続けていた小坂忠。が、2022年、惜しまれながら亡くなった。享年73。
「最後のライブまで、ほぼ毎回この「夢を聞かせて」は歌ってくれていたな。少なくとも僕と一緒の時に、この曲をやらないことはなかった。忠さんが亡くなる少し前、松(たか子)さんと一緒にご自宅に伺ったんです。少しお話をできて。もう、声を出す力もないような感じだったんだけれど。あんまり長くお邪魔しても疲れちゃうだろうから、楽しい話とかくだらない話をして、写真とって、楽しい時間を過ごして。“じゃ、また” “ありがとね” って短く言葉を交わして、おうちを出たとたん、ふたりで号泣した。もう、ご自身が天国に行くことを知っている人の顔だった。本当につらかった。大切な人がいなくなってしまったな、と。忠さんだけでなく、こうやって先輩たちの話をしてると、あれからずいぶんたくさんの先輩が亡くなったことを思い知るよね。残念だね。寂しいよね…」