【童謡・赤い靴】の女の子は実在していた? 9歳で亡くなった「きみちゃん」とは
「あかいくつ、はいてた」で始まる童謡『赤い靴』。
大正時代に作られたこの歌は、小学校などで今日に至るまで歌い継がれており、多くの人が子ども時代に聞いたり歌ったりしたことがあると思います。
寂しげなメロディーと「異人さんに連れられて行っちゃった」という歌詞がミステリアスなうえ、その後、女の子がどうなったのか分からず、「怖い童謡」だと感じる人も多いようです。
実は、この赤い靴を履いた女の子は「きみちゃん」という実在する女の子だという説があり、全国に7ヶ所もきみちゃんを偲ぶ少女像があるのです。
きみちゃんとは一体誰で、どんな人に、どこへ連れられていったのでしょうか。
100年以上も歌い継がれる童謡「赤い靴」
『赤い靴』は、今から100年以上前の大正11年(1922)に誕生した童謡です。
童謡界の三大詩人(※)の一人、野口雨情(のぐち うじょう)と、作曲家・本居長世(もとおり ながよ)により発表されました。
平成18年(2006)に、文化庁と日本PTA全国協議会が「日本の歌百選」に選出しています。
※童謡界の三大詩人:北原白秋・西条八十・野口雨情
幻の五番「日本が恋しきゃ帰っておいで」
『赤い靴』は、四番まであります。
歌詞は以下のような内容となっています。
一番 「赤い靴を履いた女の子が、異人さんに連れて行かれた」
二番 「横浜から、船に乗って行ってしまった」
三番 「今は青い目になって外国にいるのか」
四番 「赤い靴を見たり、異人さんに会うたび考える」
実は、のちに発見された草稿には、五番までありました。
「赤い靴を履いた女の子は、生まれた日本が恋しくて海をみているのではないか。恋しきゃ異人さんに頼んで帰っておいで」
という、切ない内容になっています。
改めて歌詞を振り返ると、「この女の子は誰だったのか」「なぜ異人さんに連れて行かれたのか」「どこの国に行ったのか」「今は何をしているのか」といった疑問が浮かびます。
実は、この童謡は、実話に基づくという説があるのです。
9歳までしか生きられなかった赤い靴の女の子
「赤い靴」の女の子は、実在した「きみちゃん」という少女だと言われています。
きみちゃんは、明治35年(1902年)7月15日に静岡県清水市で誕生。
母親は岩崎かよという静岡県出身の女性で、山梨県の紡績工場で働いていましたが、妊娠したため故郷に戻り、きみちゃんを出産したそうです。
かよさんはシングルマザーとなりましたが、当時の社会ではシングルマザーに対する風当たりが非常に厳しかったため、顔見知りの多い故郷での生活は難しかったのでしょう。
明治36年(1903年)、かよさんはきみちゃんを連れて開拓団として北海道の函館に渡りました。
そして、函館で知り合った鈴木志郎という男性と結婚し、北海道留寿都村へ入植することを決めました。
当時、北海道には新天地での生活を求めて本州から多くの人々が移り住んでいましたが、開拓地での生活は非常に厳しいものでした。そこで、かよさんはきみちゃんがまだ3歳くらいの頃、彼女を養女に出すことを決意します。
きみちゃんは、アメリカ人宣教師のチャールズ・ウェスレー・ヒューエット夫妻に引き取られました。
そして数年後、夫妻はきみちゃんを連れて本国アメリカに帰る計画を立てました。しかし、不幸にもきみちゃんは当時「不治の病」とされていた結核を罹ってしまったのです。
病状が悪化し、船旅が不可能になったきみちゃんは、東京都港区の鳥居坂にある鳥居坂教会の孤児院に預けられます。
そして、孤独な闘病生活を送った末、明治44年(1911)9月15日、わずか9歳で亡くなりました。
きみちゃんが結核に罹り、宣教師夫妻のもとから孤児院に移され、孤独のうちに亡くなったという事実は、かよさんの耳に届くことはありませんでした。
かよさんは、きみちゃんの死を知らないまま、昭和23年頃に亡くなっています。
開拓農場生活を断念し、新聞社へ
かよ夫妻は、きみちゃんを養子に出した後も開拓農場で懸命に働きましたが、過酷だったのか北海道での生活を断念しました。
その後、明治40年(1907年)頃、夫の鈴木志郎は札幌の新聞社に勤めることになり、そこで詩人の野口雨情と出会ったそうです。
野口雨情は、かよ夫妻からきみちゃんの話を聞き、それを詩として綴りました。
そして、本居長世が曲を付け、大正11年(1922年)に「赤い靴」が誕生したのです。
雨情は、自身も男の子の後に女の子をもうけましたが、その女児はわずか一週間でこの世を去ってしまったそうです。
そのため、かよ夫妻の話に強く共感し、その感情が「赤い靴」の歌詞に反映されたのではないかと言われています。
「赤い靴の女の子」が実在の人物だとわかった理由
童謡「赤い靴」の女の子が、実在の人物であったことが明らかになったのは、昭和48年(1973年)のことでした。
この発見のきっかけは、新聞の夕刊に掲載された岡そのさん(鈴木志郎とかよ夫妻の娘)による投稿でした。
「野口雨情の『赤い靴』の女の子は、私の姉です」
この投稿に注目したのが、当時北海道テレビの記者であった菊地寛さんでした。※作家の菊池寛は別人
菊地寛さんは5年もの歳月をかけて、きみちゃんの存在を突き止めたそうです。※菊地寛の著書「赤い靴はいてた女の子」(1979年)
これが、一般的に「定説」とされている「赤い靴は実話だった」という説です。
しかし、この定説には根拠がないという反論や、取材不足を想像で埋めていたなどの異論も存在します。
全国に7つある「きみちゃん」の像
鳥居坂教会の孤児院(現在の十番稲荷神社)にて、わずか9歳で亡くなった少女の生きた証しとして建てられたのが、麻布十番商店街にある「きみちゃん像」です。
像の除幕式後まもなくすると、きみちゃん像の足元に小銭が置かれるようになりました。
そのため募金箱を設置したところ、「恵まれない環境にいる子どもたちを助けたい」と願う人々が、次々と寄付をするようになったのです。
集まった募金は毎年国連児童基金(ユニセフ)に寄付され、30年間で総額1千5百万円を超えました。
作風は異なれど、遠くを見つめているような表情
前述した定説に基づいて建てられたきみちゃんの像は、全国にいくつか存在しています。
・『赤い靴はいてた女の子の像』1979年完成 横浜山下公園(山本正道 作)
髪の毛を後で一束に結び、膝を抱えて座っている像。
まるで、海をじっと見つめているようです。
この像のミニチュア版が、横浜駅の中央通路にもあります。
・『母子像』1986年完成 静岡県日本平山頂(高橋剛 作)
帽子をかぶった小さいきみちゃんと、その前にひざまづき、胸元を直してあげているような母親との像。
︎『きみちゃん像』1989年完成 麻布十番(佐々木至 作)
身長60cmの、ブロンズと御影石でできたワンピースを着た、小さなきみちゃん像。
︎1991年完成 北海道留寿都村「赤い靴ふるさと公園」(米坂ヒデノリ 作)
ボンネットのリボンを首元で結び、ロングワンピースの上にケープを羽織って座っている、洋装のきみちゃん像
︎2007年完成 北海道小樽市「運河公園」(ナカムラアリ 作)
母親かよさんと鈴木志郎さんが並んで座っている前に、きみちゃんが立っている仲睦まじそうな親子3人の像。
︎2009年完成 北海道函館「西波波止場美術館前の公園」(小寺真知子 作)
赤い靴を履き、小さなバッグを持って、渡れなかった異国を見つめているかのようなきみちゃん像。
︎2010年完成 青森県鯵ヶ沢町 海の駅「わんど」(田島義明 作)
座っている母親かよさんと鈴木志郎さんの間に座り、両者の手を握っている親子三人の像。
終わりに
それぞれの「きみちゃん像」は、衣装や髪型はもちろん、ポーズや作風も異なります。しかし、共通して印象的なのは、きみちゃんがどこか遠くを見つめている表情です。
きみちゃんが見つめていたのは、離れ離れになってしまった母親なのか、行くことのできなかった異国なのか……。いずれにしても、今は病も癒え、天国で母親と再会し、楽しく遊んでいるといいなと願わずにはいられません。
きみちゃんは、青山霊園の鳥居坂教会の墓地に眠っています。
参考:
日経 麻布十番 童謡「赤い靴をはいた女の子」は、実在の少女だったという事はご存知ですか?
麻布十番未知案内
東京新聞「のぼりくだりの坂」鳥居坂(港区)「赤い靴」の少女を思う
文 / 桃配伝子
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