なぜ今、ヘーゲルを「読まなければならない」のか──斎藤幸平さんが読む、ヘーゲル『精神現象学』【NHK100分de名著】
「相互承認」こそが、本当の自由を可能にする──ヘーゲル『精神現象学』を、斎藤幸平さんが解説
2025年3月のNHK『100分de名著』では、近代哲学の完成者ともいわれるヘーゲルの最重要著作『精神現象学』を、東京大学准教授の斎藤幸平さんが紹介します。
「弁証法」など独自の哲学的思考法を構築し、マルクスにも影響を与えたヘーゲルの思想は、19世紀ドイツ哲学の中心的な位置を占めました。その主著である『精神現象学』は、さまざまな対立や矛盾を含んで移り変わる社会において、他者と共に生きる方法を指し示します。
番組テキストでは、難解なことで知られる『精神現象学』を斎藤さんの解説で解きほぐし、ヘーゲル本来の思想を読み解いていきます。
今回はテキストから、そのイントロダクションを公開します。
社会の分断を乗り越える思想
今回は一八〇七年に刊行された『精神現象学』に挑みます。著者は十九世紀ドイツを代表する哲学者で、「近代哲学の完成者」ともいわれるゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(一七七〇〜一八三一)です。
「ヘーゲルって誰だっけ?」という方も、少なくないと思います。同じドイツの哲学者でも、彼より半世紀ほど早く生まれたイマヌエル・カント、あるいは半世紀後のカール・マルクスのほうが一般には知られているかもしれません。
けれども、哲学の歴史を振り返れば、ヘーゲルは間違いなく時代を画したといえる大哲学者です。その思想は、マルクスをはじめ、後世の哲学者に絶大な影響を与えました。二十世紀のポストモダン思想はもちろん、ジュディス・バトラーやスラヴォイ・ジジェクといった現代の哲学者も例外ではありません。
『精神現象学』は、ヘーゲルが三十七歳のときに発表した主著です。哲学史上でも、最重要の著作の一つとの評価が確立しています。けれども、読破した人はほとんどいないし、大学の授業ですら扱われることが少ない。
なぜなら、とてつもなく難解だからです。例えば、「100分de名著」で取り上げたことのあるカントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』も難攻不落の大著ですが、感覚だけでいうと『精神現象学』はその五十倍くらい難しい。正直、100分でやるのは無謀だと思います……。
なぜ難解さを極めるのか。それほど難しい本(しかも二百年以上も前に書かれた本!)を、なぜ今さら苦労して読まなければならないのか。マルクス研究者である私が、なぜヘーゲルを取り上げるのか│。はじめにみなさんの「なぜ?」にお答えしておきましょう。
難しい理由は大きく三つあります。第一の理由は、ヘーゲル独特の言葉づかいです。今回は熊野純彦訳のちくま学芸文庫版を底本としますが、分厚い上下二巻のどこを切り取っても、何をいっているのかチンプンカンプンでしょう。例えば、有名な一節に次のような言葉があります。
事物が〈私〉である。じっさいこの無限判断にあっては、事物は廃棄されてしまっている。
(テキストでは冒頭の一文に傍点)
「無限判断」といった表現が意味不明なだけでなく、「事物が〈私〉」という部分も晦渋で何を主張しているのか判然としません。こんな文章がひたすら続いて、読者の心をへし折るのです。
訳者のせいではありません。ヘーゲルが書いたドイツ語の原文そのものが難解なのです。二十世紀イギリスの哲学者バートランド・ラッセルも、ヘーゲルは「偉大な哲学者たちのなかで、理解するのが最も困難な哲学者」だと評しています。
しかも、『精神現象学』は構想のスケールが破格にデカイ。これが第二の理由です。カントをはじめ、ヤコービ、ラインホルト、フィヒテ、シェリングなど、当時のドイツ哲学界を牽引していた人々の誤謬や矛盾を突く「論争の書」でもあるので、彼らの思想や主張を理解していないと読み解くことができません。
さらに、哲学以外にも、古代ギリシャから近代に至る文学や芸術、政治や宗教まで、いろいろなテーマが混然と詰め込まれている。その結果、一つひとつの話はなんとか理解できたとしても、前後の脈絡や相互の連関、そこから紡ぎ出される全体像がつかめないのです。
それは「序論」を読んでもわかります。通常、学術的な著作の冒頭には、この本がどのような問題を扱い、何を証明しようとしているかが書かれています。ところが『精神現象学』にはそうした要素がなく、これは「意識の経験の学」であり、やがて「絶対的な知」に至る──と、読み手を煙に巻くようなことが書かれているのです。
しかも厄介なことに、この本には「序論」とは別に、長い「序文」が付いています。なぜこんな構成になっているかというと、途中で全体の構想が変わってしまったからです。はじめは「意識の経験の学」だったはずが、執筆中に「精神」の話に力点が移っていき、後半の「精神」章だけが異常に長くなっている。そこで、ヘーゲルは最後まで書き上げた後に「序文」を書き足し、タイトルも『精神現象学』に変更しています。この「混乱」が、『精神現象学』を難解にする第三の理由です。
壮大にして奔放、難解にして破格。しかし、『精神現象学』は間違いなく今こそ読まれるべき一冊です。なぜならば、分断が進む現代社会において、意見や価値観の違う他者と共に生き、自由を実現するための手がかりが、『精神現象学』には書かれているからです。
ヘーゲルの時代のドイツは分裂状態にあり、さらには、フランス革命や産業革命の影響で社会が激変し、さまざまな対立や分裂が生み出された時代でした。厳しい現実を前に、ヘーゲルは気がつきます。みなが完全に同意して調和を生み出すような価値観や判断は存在せず、意見のすれ違い、ぶつかり合いは、この世から決してなくならない、と。
それでも、私たちは一人で生きていくことはできません。だから、ヘーゲルはこう問います。完全にはわかり合えない他者と、共に生きていくためには何が必要か。どうすれば分断を乗り越えて、自分や相手の自由や価値観を押しつぶすことなく、社会の共同性や普遍的な知やルールを構築することが可能なのか──そういった重要なテーマが「承認論」として論じられているのが、『精神現象学』なのです。
実際、ドイツにおけるヘーゲル承認論の展開は、世界的にも『精神現象学』への注目を高めることにつながっています。特に、アメリカではヘーゲル・ルネッサンスともいうべき盛り上がりを見せています。また、日本でも有名なマルクス・ガブリエルも、ヘーゲルの「精神」を引き継ぐ形で、「新しい実在論」を展開しています。そうした最新の知見からも学びながら、今回は「精神」と「承認」を主たるキーワードに『精神現象学』を読み解いていきたいと思います。
ところで、私の専門はマルクスです。ですが、修士論文はヘーゲルで書きましたし、当初は博士論文も『精神現象学』をテーマに書こうとしていました。マルクスの思想を読み解くには、彼に多大なる影響を与えたヘーゲルは避けて通れないものだったからです。
マルクスは『資本論』第一巻「第二版後記」に、「私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め、また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚を呈しさえした」(岡崎次郎訳、大月書店)と書いています。マルクスが書く「偉大な思想家」──その人こそがヘーゲルです。
続けてマルクスは「弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。(中略)それをひっくり返さなければならない」とも書いています。ヘーゲルの弁証法が「頭で立っている」とはいったいどういうことか。それをマルクスはどのようにひっくり返したのか。これは『資本論』を研究するうえで、必ず考えなくてはならない問題です。マルクスを深く読んでいくためには、ヘーゲル哲学と対峙する必要があるのです。
とはいえ、マルクスの視点を持ち込みすぎると、ヘーゲル自身が『精神現象学』でやろうとしていたことが見えにくくなってしまいます。そこで今回は、ヘーゲルはヘーゲルとして、ストレートに読んでいこうと思います。
第1回はヘーゲルの代名詞ともいえる「弁証法」、そして、今回のキーワードである「承認」について解説します。それを踏まえて、第2回以降では、「精神」章を読んでいきます。第2回のキーワードは「疎外」と「教養」、第3回は「啓蒙」と「信仰」です。そして第4回は「告白」と「赦し」をめぐるストーリーを入り口として、自由な共同性を実現する「相互承認」と「絶対的な知」のあり方を考えていきます。
難解な本だと繰り返してしまいましたが、できるだけ嚙み砕いて説明するように努めました。ここから先、かなりの難路が待ち構えていますが、ヘーゲル哲学のエッセンスを学びながら、現代社会の分断や身近にある対立を乗り越えていく道を共に探していきましょう。
NHK「100分de名著」テキストでは、「奴隷の絶望の先に」「論破がもたらすもの」「理性は薔薇で踊りだす」「それでも共に生きていく」という全4回のテーマで本書を読み解き、さらにもう一冊の名著としてカール・マルクス『経済学・哲学草稿』を紹介しています。
講師
斎藤幸平(さいとう・こうへい)
東京大学准教授
1987年、東京都生まれ。ウェズリアン大学卒業、ベルリン自由大学哲学科修士課程・フンボルト大学哲学科博士課程修了。大阪市立大学准教授を経て現職。著書に『大洪水の前に─マルクスと惑星の物質代謝』(角川ソフィア文庫)、『人新世の「資本論」』(集英社新書)、『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』(KADOKAWA)など。「NHK100分de名著 カール・マルクス『資本論』」(2021年1月)の番組テキストに大量加筆した『ゼロからの『資本論』』(NHK出版新書)がベストセラーに。
(撮影:丸山光)※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 ヘーゲル『精神現象学』2025年3月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における『精神現象学』の引用はちくま学芸文庫版(上下巻、熊野純彦訳、2018)に拠りますが、引用者が一部改訳した部分があります。