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特集:筒美京平 生誕85周年企画 作曲家と編曲家の二刀流で大ヒット曲をかっ飛ばし続けた歌謡界の大谷翔平!

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特集:筒美京平 生誕85周年企画 作曲家と編曲家の二刀流で大ヒット曲をかっ飛ばし続けた歌謡界の大谷翔平!

本年は作曲家・編曲家筒美京平さんの生誕85年という記念の年であり、没後5年の年でもある。
作曲家として、編曲家として筒美京平は、その名を知られる日本歌謡史の筆頭だろう。
それほど、筒美京平が手がけた曲は、あの曲も、この曲も、と多くの人々にその死後も愛され続けている
今回の特集で紹介するのはごく一部で、筒美京平のプロフィール代わりにそのほかの楽曲も、すべてを紹介できないのは承知で記してみる。
ヒデとロザンナ「粋なうわさ」、野口五郎「青いリンゴ」「甘い生活」、井上順之(現・井上順)「お世話になりました」、渚ゆう子「さいはて慕情」、欧陽菲菲「雨のエアポート」、チェリッシュ「ひまわりの小径」、浅田美代子「赤い風船」、岩崎宏美「ロマンス」「センチメンタル」、桜田淳子「リップスティック」、中村雅俊「時代遅れの恋人たち」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、梓みちよ「よろしかったら」、沖田浩之「E気持」、松本伊代「センチメンタル・ジャーニー」、柏原よしえ(現・芳恵)「あの場所から」、早見優「夏色のナンシー」、河合奈保子「エスカレーション」、C—C—B「Romanticが止まらない」、少年隊「仮面舞踏会」、本田美奈子「1986年のマリリン」、中山美穂「ツイてるねノッてるね」、荻野目洋子「さよならの果実たち」、NOKKO「人魚」、小沢健二「強い気持ち・強い愛」、KinKi Kids「やめないで,PURE」、TOKIO「AMBITIOUS JAPAN」、さらにアニメ「サザエさん」のオープニング&エンディング曲……。
イラストレーター山﨑杉夫さんのイラストギャラリーと一緒にお楽しみいただきたい。

筒美京平(1940-2020)
昭和後期から平成の日本歌謡界を代表する作曲家であり、編曲家。1966年に、藤浩一、望月浩らによる競作の「黄色いレモン」で作曲家デビューする。作曲作品の総売上枚数は7560万枚以上を数え、歴代作曲家の1位である。また、編曲家としても3747万枚以上の総売上枚数を数え、編曲家歴代4位を誇る(いずれも2020年10月12日付現在)。また、日本の作曲家別レコード売上年間1位を10回記録し、60年代、70年代、80年代、90年代、2000年代と5年代連続でチャート1位を獲得している。NHK紅白歌合戦では作曲作品が69曲歌唱されているが、紅白に最初に登場した筒美作品は、67年に弘田三枝子が歌った「渚のうわさ」だった。

二度と現れない史上最強の職業作曲家

文=田家秀樹

編曲の重要さを証明した歴史を変えた一曲

 

「筒美京平」という名前を初めて意識したのは1968年だった。

 そう、グループ・サウンズ、GSである。

 66年のビートルズ来日が火をつけた、日本最初のバンドブーム。ザ・スパイダーズ、ザ・テンプターズ、ザ・ゴールデン・カップスなどが果敢に切り開いた新しい流れはバンドだけでなく新しい作家の登竜門にもなっていた。

 たとえば、ザ・タイガーズを書いていたすぎやまこういちや村井邦彦、ゴールデン・カップスのシングル曲で名をあげた鈴木邦彦などである。筒美京平もそういう中で知った。

 ただ、彼の最初のヒットとなった1967年のヴィレッジ・シンガーズ「バラ色の雲」は瑞々しくさわやかな曲だなあと思ったもののバンド自体はどこか健康的過ぎてさほど好きにはならなかった。

 時代は激変していた。

 1968年は学生運動が最も激しかった年だ。古い世代と新しい世代が世界中でせめぎあっていた。当時はカウンターカルチャーと呼ばれていた。と言っても大人たちから見れば「今時の若い者は」というしょうもない不良たちの遊びにしか見えなかっただろう。

 ヴィレッジ・シンガースにはそうした時代性が薄かった。オックスはそこを超えたフィクションのファンタジーのようだった。

 中世の王子様のようないで立ちでの5人組。それでいて歌っていたボーカルや演奏中のオルガンが失神してしまう。ロックコンサートだったら過激なロックバンドとして目をつけられそうな彼らが歌っていたのが「ガール・フレンド」や「ダンシング・セブンティーン」「スワンの涙」だった。

 オルガンを効果的に使った少女趣味な言葉と上品なメロデイーのロマンティシズム。泥臭さとは無縁な夢見心地のカタルシスは飽和状態でマンネリになっていたGSシーンに咲いた最後の花のようだった。

 GSは歌謡曲の形を変えた。

 ギターだけではなくドラムとベースが前面に出る。「ひとりGS」という言葉も生まれた。68年12月に出て筒美京平の最初のナンバーワンヒットとなったいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」は代表的な曲だ。足取りが軽くなるような跳ねた8ビートと一体になった言葉の吹っ切れた心地よさはオックスにもなかった。

▲1968年12月25日リリースのいしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」。作詞は橋本淳で、橋本とのコンビ作は約550を数える。筒美京平の作曲では自身初のオリコンシングルチャート週間1位を獲得している。69年の日本レコード大賞で作曲賞を受賞。筒美作品ではシングル売上3位を記録。

 時代の変化を決定づけたのが71年に尾崎紀世彦が歌った「また逢う日まで」だったことは言うまでもない。

 何が決定的だったか。

 あのイントロである。

 それまでの歌謡曲の中で認知度が一番低かったのが「編曲」だろう。高らかに突き抜けてゆくホーンセクションが全てを変えた。「編曲」の重要さを証明したという意味でも歴史を変えた一曲だった。

▲1971年3月5日リリースの尾崎紀世彦「また逢う日まで」。作詞は阿久悠で、阿久とのコンビ作は約120曲で、作詞家として橋本淳、松本隆に次いで多い。筒美にとって初のレコード大賞受賞曲となった。71年のレコード大賞関連受賞曲関連では、新人賞南沙織「17才」(作詞は有馬三恵子)、作曲賞平山三紀「真夏の出来事」(作詞は橋本淳)、朝丘雪路「雨がやんだら」(作詞はなかにし礼)、歌唱賞渚ゆう子「さいはて慕情」(作詞は林春生)、大衆賞堺正章「さらば恋人」(作詞は北山修)と6曲が受賞曲となった。6曲すべて作詞家が異なるのも興味深い。6曲すべて編曲も担当している。オリコンシングルチャート1位で、筒美作品の売上でも4位に入る。

 筒美京平は作曲家でありアレンジャー、そしてサウンドプロデユーサーだった。

 ホーンセクションやストリングス、ドラムやベースがもたらすリズム感がメロデイーと一体になって生まれる「心地よさ」や「カッコ良さ」。朝丘雪路が歌った70年の「雨がやんだら」や71年の平山三紀の「真夏の出来事」はそんな曲たちだった。

▲(左)1970年10月21日リリースの朝丘雪路「雨がやんだら」(作詞:なかにし礼)は、オリコンシングルチャート5位という朝丘雪路最大のヒット曲となり、5年ぶり10回目のNHK紅白歌合戦出場をもたらした。平山三紀の「真夏の出来事」とあわせて筒美は71年日本レコード大賞・作曲賞を受賞した。(右)1971年5月25日リリースの平山三紀(現・平山ミキ)「真夏の出来事」(作詞:橋本淳)。オリコンシングルチャートでは5位。

 当時と今との音楽を取り巻く環境は天と地ほどの違いがある。

 筒美京平がレコード会社の洋楽デイレクターだったことはもはや知らない人はいないだろう。それだけではない。僕らが高校生の頃に聞いていたガス・バッカスの「恋はスバヤク」や坂本九が歌っていた「涙くんさよなら」をアメリカの人気歌手、ジョニー・ティロットソンに歌わせた時のデイレクターが彼だったことを知るのは遥かに後のことだ。

 音楽雑誌と呼ばれるのはクラシックにジャズや洋楽ロック。テレビから流れるのは歌謡曲ばかりでGSも芸能誌でしか扱われない。「歌手」に話題性はあっても「作曲家」を語る媒体など存在しない。それが70年代初めの状況だった。

▲1973年7月5日リリースの麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」(作詞:千家和也)はオリコンシングルチャート1位の大ヒットとなり、麻丘めぐみは73年日本レコード大賞・大衆賞を受賞した。筒美は麻丘めぐみのデビュー曲「芽生え」(作詞:千家和也、編曲:高田弘)も手がけており、麻丘めぐみは郷ひろみや森昌子を抑えて72年日本レコード大賞で最優秀新人賞を受賞している。

「こっち側」に好意的な「あっち側」の象徴のような作曲家

 2013年に出た『筒美京平ボックス』のブックレットのインタビューで山下達郎はこんな話をしている。

「我々日本のフォーク/ロックと言われる人間にとってはずいぶん長いこと一種の「仮想敵」という存在としてあったと思うんです」

 そんな発言こそ筒美京平の影響の大きさを表しているのではないだろうか。仮想敵。つまり本来的な意味では敵でないとしても倒さなければいけない相手である。

 70年代に入って音楽は大きく変わった。

 GSが「バンド」という形態を変えたとしたら拓郎・陽水に代表される「シンガーソングライター」という存在が力を持つようになった。

 自分で書いた曲を自分で歌う。

 そこに「職業作家」は介在しない。

 シンガーソングライターとしてオリジナルを歌う人たちにとっては「職業作家」に書けないものを書かないと独自性を手にすることはできない。

 つまり対立した関係になる。

 おまけに業界は圧倒的に「職業作家」の力が強かった。オリジナルのフォークやロックを歌う髪の毛の長い若者たちは自分たちの手に負えない厄介な連中だった。70年代のことを語る時に使われる「あっち側・こっち側」というのはそんな関係のことだ。

▲(左)1978年4月1日リリースの庄野真代「飛んでイスタンブール」(作詞:ちあき哲也、編曲:船山基紀)はオリコンシングルチャート3位のヒット曲。続く同年の同じくちあき哲也作詞「モンテカルロで乾杯」では編曲も担当し、オリコンシングルチャート5位にランクされている。筒美は日本レコード大賞・作曲賞を受賞。(右)1978年8月5日リリースの大橋純子「たそがれマイ・ラブ」(作詞:阿久悠)はオリコンシングルチャート2位のヒット曲となり、大橋純子は78年日本レコード大賞・金賞に輝いた。同じく金賞受賞の野口五郎「グッド・ラック」(作詞:山川啓介、編曲:高田弘)、岩崎宏美「シンデレラ・ハネムーン」(作詞:阿久悠)の作曲も筒美京平だった。

 筒美京平は「あっち側」の象徴のような存在だった。それでいて「こっち側」に対して好意的な作曲家だった。

 尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を書いた作詞家、阿久悠はデビュー6年目の若手だった。筒美京平がその後に誰よりも密な関係を続けたのが松本隆だ。

 言うまでもなく日本語のロックの「元祖」となったバンド、はっぴいえんどのドラマー兼作詞家。73年にバンド解散後、作詞家の道を選んだ彼の最初のヒット曲、チューリップの「夏色のおもいで」を評価していたのが筒美京平だった。

 ただ、「こっち側」の人間にとってじは筒美京平がそうであるように作詞家という存在も「仮想敵」だった。当時、松本隆は「裏切者」扱いされたこともあった。

▲1978年3月21日リリースの中原理恵「東京ららばい」。筒美とのコンビ作が作詞家別では橋本淳に続き約380曲を数える松本隆が作詞を手がけ、オリコンシングルチャート9位のヒット曲となり、中原理恵は日本レコード大賞・新人賞を、筒美は作曲賞を受賞した。

 71年、72年、73年と売り上げランキングが一位になり飛ぶ鳥を落とし勢いだった筒美京平が74年に新たにデビューする新人、太田裕美の作詞に選んだのが松本隆だ。デビューアルバム『雨だれ』は全曲の作詞と作曲が二人の手によるものだった。

 70年代にあった「あっち側・こっち側」の壁を崩した作詞家が松本隆で作曲家が筒美京平だ。二人の手による新しいスタイルの歌が75年の「木綿のハンカチーフ」である。

▲1977年9月1日リリースの太田裕美「九月の雨」(作詞:松本隆)。筒美と松本隆、太田裕美の組み合わせによる代表作といえば、75年にリリースされ、筒美のシングル売上6位に記録される「木綿のハンカチーフ」(編曲は筒美と萩田光雄の共同による)であることに異論を唱える人はいないだろう。筒美は太田裕美の74年のデビュー曲「雨だれ」(作詞:松本隆、編曲:萩田光雄)をはじめ、「赤いハイヒール」「しあわせ未満」など数々の楽曲を提供しており、「九月の雨」もオリコンシングルチャート7位のヒット曲となった。

 
 あの詞を受け取った筒美京平が「長すぎて曲がつけられない」と難色を示したエピソードは有名だ。AメロBメロ、サビという普通の歌謡曲のような形に収まらない。しかも一曲の中に男性と女性両方の言葉が歌いこまれているというストーリーソング。でもデイレクターと連絡がつかずに仕方なく作って見たら自分でも思っていなかった新しいスタイルの曲になった。もし、携帯があったら生まれていなかった名曲として語られている。歌謡曲でもニューミュージックでもない新しいポップス。太田裕美は二人のそんな実験の場だった。

▲(左)1973年8月21日リリースの南沙織「色づく街」。南沙織には71年のデビュー曲「17才」から、作詞家の有馬三恵子と組んで「潮風のメロディ」「ともだち」「純潔」「哀愁のページ」「早春の港」「傷つく世代」「ひとかけらの純情」など多くの楽曲を提供している。有馬三恵子とのコンビ作も約100曲にのぼる。「色づく街」はオリコンシングルチャート4位を記録している。(右)1976年8月1日リリースの郷ひろみ「あなたがいたから僕がいた」(作詞:橋本淳)。郷ひろみにも日本レコード大賞新人賞受賞の72年のデビュー曲「男の子女の子」(作詞:岩谷時子)以来、岩谷時子とのコンビでは「裸のビーナス」「花とみつばち」など、安井かずみ作詞「よろしく哀愁」(編曲:森岡賢一郎)、橋本淳作詞「20才の微熱」など多くの楽曲を提供している。「あなたがいたから僕がいた」は、オリコンシングルチャート2位を記録し、日本レコード大賞新人賞以来賞に縁のなかった郷ひろみに日本レコード大賞・大衆賞をもたらした。

シングルチャート一位を獲得した曲は生涯で39曲

 
 今思えば70年代は音楽が「敵味方」にならざるを得ない不幸な時代でもあった。

 僕はどっぷり「こっち側」だった。

 80年代の終わりにたった一度だけ実現したインタビューで吉田拓郎のことを訊いた時、彼は「自分には書けない曲だったので怖いと思った」と言った。

 あの時のうれしさと申しわけなさは今も忘れられない。

 シングルチャート一位を獲得した曲は69年に一位になった「ブルー・ライト・ヨコハマ」を皮切りに03年のTOKIOの「AMBITIOUS JAPAN」まで39曲。近藤真彦の11曲が最も多い。編曲のゴージャスさが今でも語り草になっているジュデイ・オングの「魅せられて」、5曲を送り込んでいる小泉今日子には永遠のアイドルソング「なんてったってアイドル」もある。

▲(左)1979年2月25日リリースのジュディ・オング「魅せられて」(作詞:阿木燿子)。オリコンシングルチャート1位の売れ行きで、筒美作曲のシングル売上でも1位を誇る大ヒット曲。79年の日本レコード大賞・大賞に輝き、筒美は2度目の大賞を受賞した。また、2年連続5度目となる作曲賞も受賞している。筒美は自身の曲の編曲もほとんどと言っていいほど手がけており、この曲もまた、編曲家としての筒美の才能が際立つ曲としても語られる。そしてレコード大賞を競った西城秀樹の「勇気があれば」も筒美の作曲だった。(右)1982年10月21日リリースの稲垣潤一「ドラマティック・レイン」(作詞:秋元康、編曲:船山基紀)は、オリコンシングルチャート8位のヒットだった。その後も稲垣潤一には「エスケイプ」「夏のクラクション」などの楽曲を提供している。80年代の筒美は81年、82年、83年、85年、87年に作曲家年間売上トップ1に輝いている。

 

 ちなみに筒美京平に代わって山下達郎が作曲した82年の近藤真彦の「ハイテイーン・ブギ」も一位になっている。彼が97年にデビューしたKinKi Kidsの「硝子の少年」を手掛ける時に「筒美さんだったらどういう曲を書くのか考えた」という発言が物語っていないだろうか。

▲1981年9月30日リリースの近藤真彦「ギンギラギンにさりげなく」(作詞:伊達歩、編曲:馬飼野康二)。マッチこと近藤真彦には80年のデビュー曲「スニーカーぶる~す」(作詞:松本隆、編曲:馬飼野康二、筒美のシングル売上第2位)はじめ、「ブルージーンズ メモリー」(作詞:松本隆、編曲:馬飼野康二)、「情熱✩熱風☽せれなーで」(作詞:伊達歩、編曲:大谷和夫)、「ふられてBANZAI」(作詞:松本隆、編曲:後藤次利)、「ホレたぜ!乾杯」(作詞:松本隆、編曲:後藤次利)などデビュー当時の多くの楽曲を提供し、ことごとくオリコンシングルチャート1位を獲得している。マッチは「ギンギラギンにさりげなく」で、81年日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たした。同時期にはマッチと同じたのきんトリオの田原俊彦にも「君に薔薇薔薇…という感じ」「原宿キッス」などの楽曲を提供している。

 橋本淳、阿久悠、安井かずみ、千家和也、山上路夫、阿木燿子、松本隆、伊達歩、宮下智、三浦徳子、売野雅勇、康珍化、秋元康、ちあき哲也、森浩美、広瀬香美、川咲空、なかにし礼――。筒美京平作曲でシングルチャート一位を獲得した曲の作詞家である。

▲(左)1985年2月21日リリースの斉藤由貴の歌手デビュー曲「卒業」(作詞:松本隆、編曲:武部聡志)はオリコンシングルチャートでファースト・シングルながら6位にチャートインした。ちなみに、松田聖子も中森明菜もチャートインしたのはセカンド・シングルからだった。「卒業」は、斉藤由貴にとっても歌手としての代表曲であり、筒美や、松本隆の特集番組などが企画される折には、必ずと言っていいほど紹介される曲である。その後筒美、松本、武部により「初恋」「情熱」がリリースされている。(右)1985年11月21日リリースの小泉今日子「なんてったってアイドル」(作詞:秋元康、編曲:鷲巣詩郎)。数々のアイドルたちに楽曲を提供し、スターへと導いた筒美京平は、小泉今日子にも「真っ赤な女の子」「迷宮のアンドローラ」「ヤマトナデシコ七変化」「魔女」「夜明けのMEW」など小泉今日子の代表作ともいえる多くの楽曲を提供している。「なんてったってアイドル」もまた、オリコンシングルチャート1位を獲得している。

 曲が先であろうと詞が先にあろうとこれだけの作詞家と組んだ曲で一位を獲得する。

 二度と現れない史上最強の職業作曲家という以外に相応しい表現があるだろうか。

たけ ひでき
1946年、千葉県船橋市生まれ。69年、タウン誌のはしりだった「新宿 プレイマップ」創刊編集者を皮切りに「セイ!ヤン グ」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクショ ン作家、音楽番組パーソナリティとして活動中。『読むJ‐POP・1945~2004』『70年代ノート』『陽の当たる場所~浜田省吾ストーリー』『ラブソングス ユーミンとみゆきの愛のかたち』『いつも見ていた広島 小説吉田拓郎 ダウンタウンズ物語』『みんなCM音楽を歌っていた 大森昭男ともう一つのJ‐POP』『歌に恋して―評伝・岩谷時子物語』『風街とデラシネ・作詞家松本隆の50年』など多数の著書がある。日本のロックポップスを創成期から見続けている一人。

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