「あそこに近寄ってはいけない!」京都の禁忌の場所『五条楽園』に行ってみた 〜その歴史とは
日本はもちろん、世界有数の観光地として知られる京都。
約1,100年間にわたり、日本の首都として君臨してきただけに、この地は実に“奥深いもの”を懐に抱いている。
その“奥深いもの”とは、古都ならではの歴史的な“奥深さ”ではない。
それは、神社・寺院・名所・史跡といった京都の伝統的な魅力とは正反対の、異端とも呼べるものだ。
そこは、京都人から「足を踏み入れたり、近寄ったりしてはいけない」と囁かれていた禁忌の領域であり、そうした禁じられた場所は京都府内に数多く存在していた。
今回はそのような秘められた場所の一つ、かつての遊郭地帯・五条楽園の誕生から終焉に至るまでの歴史を、筆者自身の体験を織り交ぜながら紐解いていこう。
筆者と五條楽園との出会い
五条楽園(ごじょうらくえん)は、京都市下京区の五条通りと七条通りの間、高瀬川沿いの木屋町通りに面した一帯に存在した旧遊廓・赤線地帯である。
筆者が初めて五条楽園を訪れたのは、30年以上前になる。
きっかけは編集責任者を任されていた京都関係ムックの取材で、茶筒を製造する「開花堂」へ訪れた時のことだ。
当時の「開花堂」は、今のような多岐にわたる経営を展開しておらず、知る人ぞ知るという存在だった。
そのこぢんまりとした工房で、匠たちが織りなす至高の技に心を奪われた記憶がある。
実は「開花堂」は、五条楽園のエリアに近い一画にある。
取材を終えたときにはすでに夕暮れ時を迎えていたが、以前から興味があった五条楽園に潜入してみようという思いが湧いた。
禁断の園に足を踏み入れるという期待感にワクワク感を押さえられない筆者と、チーフカメラマンのYをよそに、京都で生まれ育ったカメラマンのMは、「あそこは入ってはいけない場所なんです。」と早々に引き上げていった。
今思えば、彼は遊郭跡という場所そのものではなく、後述する広域暴力団の存在を恐れていたようだ。
筆者とYが「五条楽園」と記された丸い電灯看板を潜る頃には、辺りは闇に包まれていた。
世界各地の歓楽街を制覇してきた怖いもの知らずのYは、“突撃取材”と称して、闇の中に明るい提灯を掲げる一軒の茶屋風の建物に入っていった。
筆者は、こうした場所での軽率な行動でトラブルが生じないように、Yの戻りを高瀬川のほとりで静かに待つことにした。
この時、Yから聞いた花代などの値段は、なぜかあまり記憶に残っていないが、確か30分で2万円ほどだった気がする。
ただ、「女の子の平均年齢は30歳って言ってたけど、まあそこに10~20歳足したくらいが実情だな。」と言っていたことには妙に納得してしまった。
やはり五条楽園は、京都の深淵に相応しい禁じられた園だった。
その闇の奥には、法の秩序が及ばぬような得体の知れない妖しさが渦巻いている。
だが男たちは納得のうえで、女との一夜限りの情愛に身を委ね、刹那の幻夢に酔いしれる場所であったのだ。
五條楽園の歴史とそのシステム
五条楽園の起源は、江戸時代中〜後期に遡るとされている。
この地域にはかつて五条新地、六条新地、七条新地といった複数の歓楽街が存在し、大正時代にそれらが統合されて七条新地という遊廓が誕生し、その後、五条楽園として知られるようになった。
ただし、詳細な記録が乏しいため、その具体的な姿は今も判然としない。
このエリアの北側には鴨川を挟んで、宮川町や祇園といった花街がある。
これらの花街は当初、芸妓と遊女が混在する場所だったが、次第に芸事や文化を重んじる花街としての性格が勝っていった。
そうなると五条通りを境に、その南側に宮川町や祇園とは対照的な遊郭、すなわち色街が発展したとしても不思議ではない。
周知の通り京都といえば、西陣織、京友禅、清水焼といった伝統工芸が古くから栄えてきた土地だ。
市内にはこれらの産業を支える多くの職人たちが暮らし、庶民である彼らの息抜きの場として遊郭が機能していた。
五条通りの北側には清水寺があり、その参道である五条坂や清水坂には、中世から近世にかけ清水焼の登り窯が立ち並び、そこで働く職人たちが暮らしていた。
さらに、五条楽園を流れる高瀬川には船廻し場があり、川の両側から高瀬舟を曳く多くの人夫たちが集まっていた。
こうした職人や人夫たちの憩いの場として、五条楽園は色街としての色合いを強く帯びて、江戸時代から発展したのだろう。
そして、花街の祇園や宮川町とは異なる意味で、夜ごと妖しい魅力で輝きを放っていたのだ。
江戸幕府が公認した遊郭は、江戸の吉原、大坂の新町、京都の島原の3カ所だけだった。
中でも島原は、江戸時代において吉野大夫・夕霧太夫・高尾大夫などの名妓を輩出し、和歌、音曲、書道、茶道といった遊郭文化を花開かせた。
島原は、明治・大正・昭和と遊郭としての姿をなんとか維持してきたが、1958年の売春防止法の施行によって、色里としての歴史に幕を閉じた。
ただ一軒のみ残る置屋・輪違屋には、今も二人の太夫がその伝統を継いでいる。
一方、五条楽園は、売春防止法施行後で赤線が廃止された後も、色街としての命脈を保ち続けた。
つまり、法の網目をすり抜け、わずか15年前まで性風俗の街として存在していたのである。
そんな闇を抱えたこの一帯は、京都の街に暮らす人々にとって、どこか触れてはならないような空気をまとった場所であった。
年頃の娘を持つ親たちは、「あそこに行ったら嫁に行かれへんで」と言い聞かせ、足を踏み入れることすら禁じたのである。
五条楽園は、男たちの享楽の場ではあっても、一般の人には近寄りがたく、後ろめたさを感じさせる禁断の領域だったといえよう。
さらに五条楽園のもう一つの闇として、某広域暴力団の存在が挙げられる。
この組織は明治初期に生まれた任侠団体で、五条楽園のほぼ中心、サウナの梅湯の隣に事務所を構えていた。
赤線廃止後も色街として独特の存在感を放った五条楽園は、表向きは花街としての形態をとっていた。
そのため、娼婦たちは芸者という肩書で置屋組合に所属し、そこからお茶屋やカフェーに派遣され、客と遊ぶというシステムがとられていたのである。
京都最後の色里・五条楽園の終焉
1958年以降も色街として息づいていた五条楽園に、突如として終幕のときが訪れた。
2010年、10月28日と11月18日の両日、京都府警による摘発が行われ、お茶屋と置屋の責任者・経営者ら5人が、売春防止法違反の容疑で逮捕されたのだ。
この結果、10月28日から、お茶屋と置屋は一斉に休業を余儀なくされ、11月17日には五條楽園の象徴であった看板も降ろされた。
そして2011年3月、置屋組合が解散し、色里としての五条楽園は名実ともにその歴史に終止符を打ったのである。
五条楽園の終焉後も、某広域暴力団の事務所は健在していた。
だが、対立組織を巻き込んだ抗争の末に、組は2017年に分裂。組事務所も京都地方裁判所の裁定により使用が禁じられ、五条楽園から姿を消した。
ある意味、五条楽園が誰しもが臆せず足を踏み入れられる場所になったのは、この時からであったと言えるのかもしれない。
その後の五条楽園は、わずか10年にも満たない期間で大きな変貌を遂げた。
次回の記事では、その現在の姿をかつての懐かしい情景と織り交ぜながら綴っていこうと思う。
ぜひとも、お読みください。
文/写真 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部