戦後80年 戦禍の記憶【3】 中原区在住 吉田 恵美子さん(86) 6歳で感じた「死」の恐怖 「今でもサツマイモが嫌い」
元住吉は田んぼや畑が広がり、春には菜の花が一面に咲き渡る、のどかな場所だった。幸いにも焼け野原になることはなく、死線を越えるような経験はない。それでも戦争は、当時6歳の少女に今もなお消えることのない傷痕を残している。
まず食べるものがなかった。セリやナズナといった野草を摘んで、食事の足しにした。ご飯の中には、サツマイモの種芋が入っていたこともあった。「子どもながらに状況を理解して、我慢して食べた。でも種芋がまずくてね、今でもサツマイモが嫌いで食べないんです」
小学1年生だった、1945年。空襲警報のサイレンが鳴り響くと、学校から夢中で走って帰った。低空飛行をしている飛行機の羽に「B29」と書いてあるのが見えたことも。電球に黒い布がかぶせてあったせいで、家の中はいつも薄暗かった。庭には父が作った地下防空壕があり、サイレンが鳴ると近所の家族と一緒に入った。
隣のおばさんと、その息子のお兄さんにはよく可愛がってもらった。だが戦争が激しくなってきたある日、お兄さんは出征することになった。日の丸の小旗を持って記念写真を撮ったのもつかの間、お兄さんは国防色(カーキ色)の軍服に帽子をかぶり、肩から名前の書かれたたすきをかけて、元気に出征していった。「それが最後の姿。今もお兄さんは帰ってきていない」と声を震わせる。おばさんは生前、事あるごとに「もし生きていたら」と口にし、息子のいる生活を想像していたという。
一度、夜中に綱島街道の方に焼夷弾が落ちたらしく、夜空が真っ赤に染まったことがあった。家の前の道は大勢の人々でごった返しており、みな頭には防空頭巾、手にはいろいろなものを持って、井田山の方へ逃げていた。母としっかり手をつないで、農家の竹やぶに逃げたが、目の前の井田山はすさまじい勢いで燃えている。その時、子ども心に死を感じ、母のそばで「お母さん死んじゃいやー」と震えながら叫んだ。
あれから80年。これほどの月日が流れても、人間が戦争を止める兆しはない。「一番かわいそうなのは子どもたち。戦争ほど愚かなことはない」と涙し、遠い海の向こうに思いをはせた。
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今年で戦後80年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。