#5 「復活の神話」が写すものは、希望ではなく絶望──? 亀山郁夫さんと読む『ドストエフスキー』【NHK別冊100分de名著】
亀山郁夫さんによるドストエフスキー『罪と罰』読み解き #5
19世紀、急激な近代化が進んだ過渡期のロシアで、人間の内面に深く迫った大作家ドストエフスキー。その作品は、時代を超えて私たちの心を強く揺さぶります。
『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』は、「100分de名著」で取り上げた『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』に『悪霊』『白痴』『未成年』の三作品の書き下ろし解説を加えた一冊。この五大長編を解説するのは、ドストエフスキー作品の新訳も手掛けたロシア文学者・亀山郁夫さんです。
重層的でミステリアスな作品に込められた作者の意図を、クリアに解読していく本書より、第1講「『罪と罰』──なぜ、人を殺めてはいけないのか?」全文を、特別公開します。(第5回/全8回)
Ⅲ 大地にひざまずきなさい
「同じ畑のイチゴ」
第4部は、第3部にひきつづき九日目の夕刻から、翌十日目午前中までの物語です。
ラスコーリニコフの部屋に突然姿を現したスヴィドリガイロフは、君の助けが必要だと言い、ドゥーニャとの面会の仲立ちになってくれと頼みます。ラスコーリニコフが、母から聞いた妻マルファ殺害の嫌疑を口にすると、彼は、妻の死因は飲酒後の水浴による脳溢血で、自分はたった二度鞭打っただけだと弁解し、妻マルファとの経緯をくわしく語りはじめます。
かつてこの首都でいかさまカード師をしていたころに、莫大な借金を負って窮地に追い込まれた自分は、彼女がその肩代わりをしてくれたおかげで助かり、そのまま彼女の領地で結婚したこと。結婚の際に、その借用証書に縛られていたこと、そして先ごろ死んだその妻が幽霊になって、もうすでに三度も現れたこと……。
ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフの異常な話に狂気の影を感じつつも、その意外な人あたりのよさに目を瞠ります。
スヴィドリガイロフはラスコーリニコフに「われわれは同じ畑のイチゴだ」などと言い、ドゥーニャがルージンとの婚約を解消するなら、その埋めあわせに一万ルーブルの大金を用意するとまで言います。それはドゥーニャのためだが、もはや彼女への下心はなく、もうすぐ自分は旅に出るか、ある若い女性と結婚するかもしれないと語り、帰り際に、妻マルファもドゥーニャに三千ルーブルを寄贈すると遺言していたことを告げました。
夜の八時近く、ルージンとの会合のため、ラスコーリニコフはラズミーヒンとともに母と妹の宿へ行きます。気まずい雰囲気の中、ルージンは尊大な態度を崩さず、スヴィドリガイロフがこの街に来ていることを知らせ、その堕落ぶりと残虐さを強調し、過去に少女を凌辱して自殺に追い込んだことがあるなどといった噂を口にします。そこでラスコーリニコフが、当のスヴィドリガイロフとすでに会ったことを話し、驚く一同に向かって、スヴィドリガイロフの妻マルファの遺言を伝えます。
「たしかに、わたしは女好きですし、ひま人です」と自ら認めるスヴィドリガイロフですが、彼をめぐるエピソードのすべてが常軌を逸しています。いきなり気球に乗りたいと言い出したり、死んだ妻や下男の幽霊の話をはじめたりするのですが、とくに幽霊の話は妙にリアルで不気味ですし、彼が思い描く来世の光景(「田舎風の煤けた風呂場みたいなところで、隅から隅まで蜘蛛の巣が張っている」)も、彼の病的な感性を物語るものです。
そのスヴィドリガイロフがなぜ、ラスコーリニコフに、「同じ畑のイチゴ」と仲間意識を仄めかし、「あなたのなかに、何かわたしと似ているところがあるような気がしてましてね」などと言うのでしょうか。わたしたち読者が思わず首を傾げたくなる場面です。スヴィドリガイロフは、自らの「罪」に似たものを、ラスコーリニコフの中に嗅ぎあてているのでしょうか。なぜなら少なくともこの時点で、彼はラスコーリニコフが犯罪者であることを知りませんし、彼自身が犯罪者であると断定することもできません。彼は「悪」の化身とも言うべき印象を放ち、周囲の人々にもそう噂されていますが、真実は曖昧なままです。
スヴィドリガイロフは、キリスト教的な倫理観とはおよそ無縁な、デカダン的な存在感を湛えた人物であり、つねに不吉な死の匂いをまき散らしています。善と悪の境界を自由に行き来できる人間、もしくは「善悪の彼岸」に立つ人間と言うこともできるでしょう。物語が終盤に向かうにつれて、その存在感を強めていき、「新しいエルサレム」の理想も潰えて、もはや「此岸」の地上をさまようしかないラスコーリニコフにとって、ネガティヴな導きの星ならぬ、導きの月のような役割を担っていくのです。
「呪われた者同士」
ラスコーリニコフの同席に苛立ったルージンは、夫すなわち自分への愛は、兄に対する愛よりも優先されるべきだなどと主張しますが、その恩着せがましい横柄な態度が母プリヘーリヤ、ドゥーニャの憤激を買い、ラスコーリニコフからは、ソーニャの小指にも値しないと罵倒されます。会合は決裂に終わり、二人の婚約は破談となって、ルージンは部屋を追い出されます。
一同が喜びに沸くなか、ラズミーヒンが新しいプランを提案します。それは伯父が投資してくれる千ルーブルと、マルファが遺してくれた三千ルーブルのうち千ルーブルを資金に当て出版事業を起こそうというものでした。ドゥーニャの同意とラスコーリニコフのお墨付きを得たラズミーヒンは、さっそく部屋を借りようと張り切りますが、ラスコーリニコフはふいに気が変わったかのように、その場を出ていこうとします。
「いまは、ぼくを愛してくれるなら、捨ててください……」と母に突然の別れを告げ、部屋を出た彼は、後を追ってきたラズミーヒンに「これが最後だ。(略)ぼくをひとりにしてくれ、でも、あのふたりは……見捨てないでくれ」と言い残して去ります。ラズミーヒンはそんなラスコーリニコフの鬱屈した暗いまなざしの前で、彼に代わって自分が一家の息子となり、兄ともなることを決意するのでした。
ラスコーリニコフが向かったのは、ソーニャが独り住まいをするアパートでした。ソーニャとのやりとりは、彼女の一家の不幸をめぐる話題からはじまりますが、ラスコーリニコフは「(妹の)ポーレンカも、きっと(あなたと)同じ道をたどるんですね」と冷たく言い放ち、「神さまが守ってくださいます、神さまが!」と必死で反駁するソーニャに、「神さまなんて、まるで存在してないかもしれないんですよ」と言って突き放します。
ところが、ラスコーリニコフはそこで突然、泣き出したソーニャの足元にくずれ落ち、彼女の足に口づけしながら驚く彼女にこう言い放ちます。「きみにひざまずいたんじゃない、人間のすべての苦しみにひざまずいたんだ」。それに対してソーニャは、自分は「恥知らず」で「罪深い女」だと告白します。
彼女がたどる道は自殺か、狂気に陥るか、それとも性の快楽に身をゆだねるか……とラスコーリニコフは残酷に考えますが、「そうじゃない、これまで運河に飛びこむのを押しとどめてきたのは、罪の観念なんだ」と思い直し、繰り返し神を称える彼女の目の輝きや身を震わせる様子に、「神がかり」としての資質を見てとります。
聖書を手にとったラスコーリニコフに対して、その聖書は殺されたリザヴェータからもらったものだと言い、「あの人、神を見るお方なんですよ」と告げるソーニャに、ラスコーリニコフは「ラザロの復活」の章を読んでくれと迫ります。彼女はそれに応え、朗読を始めますが、その声はしだいに熱を帯びてきます。
「ぼくは今日、肉親を捨てた」と言うラスコーリニコフは、「ぼくにはもう、きみひとりしかいない」「ぼくらはふたりとも呪われた者同士だ、だからいっしょに行こう!」とソーニャに呼びかけます。
「きみも越えてしまった……踏み越えられたんだ。きみは、自分で自分に手をかけ、ひとつの命をほろぼした……自分のね」
そして彼はリザヴェータを殺した犯人を知っていると言い、明日、彼女だけに教えると言って部屋を出ていきます。他方、ソーニャは、肉親との縁を切ったという彼の不幸に思いをめぐらせ、動揺しますが、空き部屋の隣室に通じるドアの向こうでは、スヴィドリガイロフがその一部始終を盗み聞きしていたのでした。
「神がかり」(男性はユロージヴィ、女性はユロージヴァヤと言います)とは、ロシアの民衆に広がる一種の愚者崇拝です。非理性的であるがゆえに純粋で、理屈抜きで神に近い、「聖なる存在」として崇められる愚者をこのように呼ぶならわしです。リザヴェータもそのような存在として仲間から一目置かれていました。「神を見るお方」とは、「神がかり」であることの暗示であり、リザヴェータは、高利貸しを営む義理の姉とはちがい、だれよりも熱烈に神を信仰する女性でした。ラスコーリニコフは、そのような女性を殺してしまったのです。
ラスコーリニコフは、リザヴェータと等しくソーニャもまた「聖なる存在」であると感じていました。しかし、貧しい家族を思い、とりわけ幼い子どもたちのために、神が与えた肉体を売る娼婦となり、「恥や罪」にまみれた彼女は、ラスコーリニコフと同じく一線を越えた人間でした。端的に言うなら、「新しいエルサレム」への入城を拒まれた存在です。「だから、ぼくたち、いっしょに行くのさ、同じ道をね!」と彼は言います。
片やソーニャにとって、苦しみあえぐ自分の目の前に突如として現れたラスコーリニコフは、イエス・キリストのような救い主と重なって見えたにちがいありません。
「ラザロの復活」
ポルフィーリーの問いかけが心のどこかに引っかかっていたのか、昔「学校にいたころ」にしか聖書を読んだことがなく、教会にも行ったことがないというラスコーリニコフは、「ヨハネによる福音書」第十一章の「ラザロの復活」をソーニャに朗読してもらいます。
ラザロという病人は、イエスに香油を塗り、髪の毛でイエスの足をふいたマリアの弟でした。マリアとその姉マルタはイエスのもとに人を遣わしてラザロの病状を知らせますが、イエスは「この病気は死で終わるものではない」と言って、来てくれません。しかしラザロは死に──ここにも、「黙過」という重要な主題があります──、その後やってきたイエスは「わたしは復活であり、命である」と言って、墓に行きます。「イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った」。やがてイエスが「ラザロ、出て来なさい」と叫ぶと、奇跡が起きて、ラザロは甦ります。
腐臭すらただよう死者とは、ラスコーリニコフの象徴でしょうか。だとすればソーニャがキリストとして、彼を甦らせるのでしょうか。しかしソーニャにとっては逆に、死者は自分で、ラスコーリニコフがキリストだったのかもしれません。また、イエスに香油を塗ったマリアは、時に「マグダラのマリア」と同一視され、同じく「罪深い女」である娼婦ソーニャとも重なりあいます。マグダラのマリアは悔悛し、イエスの磔刑と埋葬を見届け、その復活に立ち会った人物でもあるのです。そのように、「ラザロの復活」は、両義的に解釈できる復活の神話として、物語のほぼ中央部に置かれたのでした。
しかし、思えば、ラザロのみならずイエス・キリストもまた、神に「黙過」され、死して復活を遂げたのでした。そんなイエスの死をきわめてリアルに描いた一枚の絵があります。ハンス・ホルバインの『墓の中の死せるキリスト』です。棺に見立てた異様に横長のカンヴァスに、十字架から引き下ろされたばかりのイエスの死体を真横から描いたものです。私は、どうしてもこのカンヴァスに描かれたイエスとラスコーリニコフとが二重写しに見えて仕方ないのです。それは、なぜなのでしょうか。ドストエフスキーは『罪と罰』執筆の時点で、この絵の存在を知っていたと思われます。のちにスイスのバーゼル美術館でこの絵の実物を見た彼は、描かれたイエスのあまりの無惨さに「復活の信仰なんて消えてしまうかもしれない」と語ったとされています。先述しましたが、ラスコーリニコフの屋根裏部屋を「戸棚」に喩え、「棺桶ですよ」と言わせたとき、作者は、「ラザロの復活」のみならず、ホルバインのこの絵もまた想起していたのではないか、と思えるのです。この棺は戸棚のようにも見えます。かりに私の想像が正しいとするなら、ドストエフスキーは、ラスコーリニコフを復活する死者ラザロと重ねただけでなく、その甦りが困難で絶望的であることも示そうとしていたことになります。
第二の対決
ソーニャの部屋を訪ねた翌朝十一時、ラスコーリニコフは区の警察署の中にあるポルフィーリーの執務室にやってきます。当時のロシアはまだ司法改革の途中で、裁判官であるはずの予審判事(本来は捜査担当官と訳すのが正しい)が曖昧な形で警察署内にいたのです。
ポルフィーリーは愛想よくラスコーリニコフを迎えますが、質草についての書類を提示したラスコーリニコフが事件について問い質すと、のらりくらりと話題をそらし、時間を引き延ばしにかかります。ラスコーリニコフの苛立ちを尻目に、剽軽(ひょうきん)かつ変幻自在な話術によって、その手の内を明かしていきます。犯人はできるだけ泳がせておき、心理的に追い詰めて向こうから自白するように仕向けるほうが有効である、等々……。
ポルフィーリーを介して体制とじかに向き合うことで、ラスコーリニコフの自己正当化はむしろ強まり、闘争心に火がつきます。しかしポルフィーリーも負けてはいません。その挑発的言辞に愚弄されていると感じたラスコーリニコフは、逆上して叫びます。「ぼくを、なぶりものにはさせませんよ!」。するとポルフィーリーは「ちょっとしたプレゼント」がドアの向こうに用意してある、と答えます。「陪審員だろうが、証人だろうが、好きなだけ……出しやがれ!」とラスコーリニコフが声を荒げた瞬間、意外な騒ぎが起こります。
ドアから押し入ってきたペンキ職人のミコライが、唐突に罪を自白したのです。「おれが犯人です!」「おれが……斧で……殺しました」。用意していた「プレゼント」とはちがう予想外の展開に、ポルフィーリーは狼狽します。
ミコライの乱入でひとまず解放されたラスコーリニコフは、自分の部屋に戻りますが、しばらくすると、前日彼に「人殺し!」とささやいたあの町人が姿を現します。ポルフィーリーの「プレゼント」は、二重底になっていました。男は、ラスコーリニコフが改装中の殺人現場に行き、職人や庭番と揉めたときその場にいたと言い、「告げ口しましたこと、悪い考えを起こしましたこと、お許しください」とラスコーリニコフに深くお辞儀し、謝るのでした……。
はて、ペンキ職人のミコライはなぜ虚偽の自白をしたのでしょうか。それは小説の第6部で明らかになりますが、ここでは、ロシアの分離派や終末論と関係があるようだ、とだけ述べておきましょう。
本書『別冊 NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』では、・第1講 『罪と罰』──なぜ、人を殺あやめてはいけないのか?
・第2講 『白痴』『悪霊』『未成年』──ロシアの闇、復活の祈り
・第3講 『カラマーゾフの兄弟』──父殺し、または人間という解きがたい謎
という全3回の講義を通して、重層的な作品の意図を明瞭かつ大胆に解読していきます。
■『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』(亀山郁夫 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書におけるドストエフスキー作品の引用は、著者訳の光文社古典新訳文庫版に拠りますが、一部著者が訳し直している箇所があります。
著者
亀山郁夫(かめやま・いくお)
ロシア文学者、名古屋外国語大学学長
1949年栃木県生まれ。東京外国語大学外国語学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。天理大学、同志社大学を経て1990年より東京外国語大学外国語学部助教授、教授、同大学学長を歴任。2013年より現職。専門はロシア文学、ロシア文化論。著書に、『ドストエフスキー父殺しの文学』(NHKブックス)、『新カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社)『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』、『ドストエフスキー黒い言葉』(集英社新書)などが、訳書にドストエフスキー『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』(刊行中)、『カラマーゾフの兄弟』(いずれも光文社古典新訳文庫)などがある。2021年より世田谷文学館館長。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。