爽やかで熱い舞台に喝采! 仁左衛門の六助、右近の鏡獅子、松緑×松鯉の『無筆の出世』~歌舞伎座『四月大歌舞伎』夜の部観劇レポート
2025年4月3日(木)に、「四月大歌舞伎」が歌舞伎座で開幕した。16時15分開演の夜の部では、片岡仁左衛門の『彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち)』、尾上右近の『春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)』、尾上松緑が講談師の神田松鯉を迎える新作歌舞伎『無筆の出世(むひつのしゅっせ)』の3本が上演されている。
一、『彦山権現誓助剱』
杉坂墓所
毛谷村
片岡仁左衛門(奇数日)と松本幸四郎(偶数日)が、Wキャストで演じる毛谷村六助。この日は、仁左衛門の出演。「毛谷村」がとくに有名な場面だが、「杉坂墓所」からの上演により、登場人物の関係性が分かりやすくなっている。
「杉坂墓所」
毛谷村の六助(片岡仁左衛門)が、母親の四十九日のお墓参りをしていたところ、浪人・微塵弾正(中村歌六)と出会う。六助は実は優れた剣の達人で、翌日には領主の前で剣術の試合を控えている。弾正は、自分がその相手だと名乗り、老母への孝行のために試合の勝ちを譲ってほしいと打ち明ける。心優しい六助は快く応じた。その直後、山賊に追われた旅人の佐五平(片岡松之助)と幼子の弥三松(中村秀乃介)を助ける。しかし佐五平は幼子を六助に託して息絶えてしまう。
六助は母思いで子どもにも優しく純朴で気取ることのない、武芸に優れた好青年。仁左衛門が勤めるので説明不要の美男だ。いい人過ぎて心配になるが、腕があるからこその余裕なのだろう。
「毛谷村」
明くる日の六助の家の庭先。幕が開くと、六助と弾正の試合が始まる。弾正からは“やらせ感”が、六助からは隠しきれない強さが現れていて、出来レースでも力の差は歴然。弾正は約束通り勝たせてもらい、六助の眉間に傷までつけて悠々と帰っていった。花道での不敵な笑いが波乱を予感させた。歌舞伎の登場人物が、眉間を傷つけられると穏やかではない展開になりがちだが、六助は「あんなに気合を入れちゃって(笑)」とニコニコするばかり。いい人過ぎて、ますます心配になる。
この日、六助の家に2人の来訪者がある。まずは、旅の老女のお幸(中村東蔵)。芯のある、かわいらしいおばあちゃんだ。「私を親御に」という唐突な立候補が楽しく、客席にも和やかな笑いが広がった。六助と弥三松の可愛いやり取りでは、秀乃介のお行儀のよい愛らしさと、仁左衛門のとろけるような困り顔にとても癒された。
義太夫で空気が変わり、花道に虚無僧が現れる。六助に偽の虚無僧だと見破られ、顔をみせたのは、見知らぬ女(片岡孝太郎)だった。六助を仇だと言い懐剣で切りかかる。六助と女が互角にやりあっていたところに、弥三松が起きてきて……。女はお園。六助の師匠の娘であり、六助の許嫁だったのだ。
お園は、一転しておしとやかな娘になる。臼を持ち上げる怪力も、尺八と火吹き竹を間違えるおっちょこちょいも、何をしてもチャーミング。義太夫にのって忍をあしらえば、腕力を発揮しながらも踊りのような艶やかさ。嘆いているのに華があり、そのギャップに可笑しみもあった。杣斧右衛門(中村歌昇)の登場で事実が明らかになると、ずっとお人好しだった六助が怒りをあらわにする。得も言われぬ解放感とともに、ボルテージが上がり、最強の夫婦の睦まじい姿は、多幸感と頼もしさに満ちていた。晴れやかで心地よいお芝居は、敵討ちに向かう六助への喝采で結ばれた。
二、新歌舞伎十八番の内 『春興鏡獅子』
長唄舞踊の大曲だ。尾上右近が、前半は小姓弥生、後半は獅子の精としての踊りをみせる。
作品の舞台は、江戸城の大奥。お鏡曵きというお正月の行事の余興として、将軍のリクエストで小姓の弥生が踊ることになった。家老の渋井五左衛門(市村橘太郎)、用人関口十太夫(市川青虎)たちが弥生の登場を待っている。恥ずかしがる弥生を、老女飛鳥井(中村梅花)、局吉野(中村京妙)が手を引いて連れてくるが、すぐにまた戻ってしまう。ようやく舞台の真ん中へきた弥生の目に、将軍が映ったのだろう。ハッと居直り小さく座り深々と頭を下げた。本作は「新歌舞伎十八番」の1作。舞台正面には、成田屋の柿色の裃の演奏家たちが列座する。
弥生は可憐に真摯に踊った。何ものにも縛られないような柔らかさで、空間をいっぱいにする。指先、衣裳、扇、目線、どんな線にも曖昧さはなく、一瞬一瞬が近代日本画の美人画の、美しい女性の最良の瞬間を見るようだった。牡丹の花が散ったときは、右近でも弥生でもなく、舞い散る花びらそのものを見たような気がした。胡蝶の精に、坂東亀三郎と尾上眞秀。亀三郎は頼もしくしっかりと、眞秀は柔らかく伸びやかに、この一幕を支える。
笛、鼓の音が場内を清めるように響き渡ると、獅子の精が花道に登場。後半は、獅子の勇壮な踊りだ。長い毛を振り上げた時、荒々しさとともに新しい風が吹き抜けるような爽快な熱さを浴びた。
右近は、3歳の時、曾祖父・六代目尾上菊五郎の『鏡獅子』を映像で見て以来、この作品に憧れ続けてきた。過去の会見では「生きる意味」とまで語っていた。夢の舞台の上で今、どんな気持ちでいるのだろう。舞台上の右近から、それを推し量ることはできなかった。そこにいたのは、踊りが上手で、きっと踊りが好きにちがいない小姓の弥生であり、長い白い毛の獅子の精だったからだ。右近が曾祖父の『鏡獅子』に憧れたように、いつか右近のひ孫もこの舞台の映像に心を奪われるにちがいない。同時代の俳優の、“そういう”舞台を観られることは、一観劇ファンとして、やはりうれしい体験だ。万雷の拍手で結ばれた『鏡獅子』。胸に熱い余韻が残った。
三、『無筆の出世』
「新しい刀の試し斬りに、どうぞこの男をお使いください」。そんな手紙を、文字の読めない男が持っていたら……。
尾上松緑による講談シリーズの新作歌舞伎、第3弾。演出は西森英行、脚本は竹柴潤一。講談師で人間国宝の神田松鯉による口演から作られた作品で、松鯉は出演もする。
松鯉の出囃子『のっと』とともに開演。舞台中央に松鯉が登場し、大ホールの独演会のようにはじまった。松鯉の語りは観客を歌舞伎座から墨田川へと誘う。御厩(おんまや)の渡しについたところで、松鯉の向こうに墨田川のイメージが広がった。
たった今、渡し船に飛び乗ったのは中間の治助(じすけ、尾上松緑)。勢いあまって、主に使いを頼まれた文箱を川に落としてしまう。幸い拾い上げられるが、中の手紙が濡れていたため、紺屋職人久蔵(坂東亀蔵)の手を借りて天日干しにする。大徳寺の住職、日栄(中村吉之丞)は、偶然にもその手紙を目にし、治助に声をかけ、治助を試し斬りから救ってやるのだった。
治助は、手紙を少しでも早く届けようと、船に飛び乗るような律儀な男だ。にもかかわらず非情な扱いを受けた。胸が締め付けられるような思いがしたが、観劇した日、その場面で客席に笑いもあった。はじめは意外に感じたが、思えば治助の災難は、演芸の世界ならば、落語の“与太郎さん”が請け負うところ。失敗はするけれど純粋で憎めないキャラクターでもある。滑稽にも哀れにも愛おしくもなりうる人物で、観客がどう受け取ろうとも成立する、物語の強度に気づかされた。松緑は、古典歌舞伎で義太夫にのり芝居をするかのように、松鯉の口演にのり役を体現する。本作は、あたかも古典の世話物や新歌舞伎のようなしつらえで、講談と歌舞伎が真正面から組み合っていた。初めてみるコラボレーションに興奮した。
日栄のもとに身を寄せた治助だが、その機転と働き者の性分を買われ、幕府勘定方の夏目左内(市川中車)への奉公が決まり、日栄にも日念(市川青虎)にも祝福される。季節は秋から冬へ。ある夜、左内の屋敷で左内妻・藤(市川笑三郎)は不思議な音を聞く。そして左内と藤は、治助の心の内を知ることになる。文字が読めないことは切ないこと。そう訴える治助は、学ぶ機会に恵まれなかっただけで、決して愚かなわけではない。むしろ聡明さ、芯の強さを感じさせた。左内が“いろは”の“い”を、がっしりと手渡すかのように一筆ずつ教えると、その一筆ごとに治助の大きな目に光がさしていく。美しい夜だった。藤は武家の女房らしい佇まい。凛とした色気は、冬の月の光をまとっているかのようだった。
予想外を重ね展開する物語。その中でも、ある春の日の、佐々与左衛門(中村鴈治郎)との対面は想像のつかないものだった。治助の妻・弥生(坂東玉朗)や息子・治一郎(尾上左近)の清廉な佇まいからも感じられるように、治助の生き方はあまりにも高潔で美しい。心温まる、現実離れしたファンタジーと割り切ることもできる。しかし4月という新たな始まりの季節、襟を正してその美学に向きあいたくなる気持ちになった。思い返すほどにすべてを松鯉の講談で聞いたような、一部始終を松緑の歌舞伎で観たような、かつて体験したことのない満足感。4月9日、16日、23日(いずれも水曜日)は一部配役が変更され、治助に亀蔵、左内に松緑、久蔵に中車となる。ぜひチェックしてほしい。
『四月大歌舞伎』は、歌舞伎座にて4月25日(金)千穐楽までの上演。
取材・文=塚田史香