松原みきを発掘した菊地哲榮が語る「真夜中のドア」世界的ヒットは45年前から始まっていた?
今も止まない「真夜中のドア」への賞賛
今日(2024年11月28日)、松原みきが65 回目の誕生日を迎えた。
発売から45年を経て、世界的規模の大ヒットになり、今も止まない賞賛の声。松原みきの「真夜中のドア〜stay with me」を取り巻く状況は、より一層ワールドワイドに拡大する傾向にある。今回、松原みきのデビュー当時にマネジメントを手掛けていた菊地哲榮氏にインタビューを敢行。彼女のデビュー前から「真夜中のドア」の時期、その後の展開に至るまで、詳細なエピソードを伺うことができた。
菊地哲榮氏は早稲田大学卒業後、渡辺プロダクションに入社し、数多くのアーティストのマネジメントを担当。同時に新人発掘も手掛けており、まだアマチュアだった天地真理を見出し世に送り出した人物でもある。1978年に渡辺プロから独立してポケットパークという会社を設立、ここの第1号アーティストが松原みきだった。菊地氏は1981年に、コンサート制作 / プロデュースを手掛ける株式会社ハンズ(現:株式会社ハンズオン・エンタテインメント)の代表に就任、現在も同社の代表取締役社長である。
「松原みきは、もともと私が渡辺プロで新人発掘を手がけていた頃に、同社系列の東京音楽学院の大阪校にいたんです。学院は全国にあり、各地区から有望な新人を集め、渡邊晋社長に見ていただくのが私の仕事でした」
これが1978年のこと。ちょうどこの時期、菊地氏は渡辺プロを退職する予定で、最後に発掘したアーティストが松原みきだった。彼女は当初、渡辺プロで育成される予定の新人だったのである。
その後、同社を退社した菊地氏は、アリスなどが所属していたヤングジャパンの細川健氏、渡辺プロの後輩と共に、ポケットパーク設立の準備を始めた。すると松原の実父が “娘が、どうしても菊地さんにマネジメントをお願いしたいと言っている” と話を持ってきた。
「独立したばかりで金も力もプロモーション力もないので難しいと、いったんは帰ってもらったのですが、“どうしてもお願いしたい” と再度相談に来られた。そこで、“それならお父さんが渡辺プロの了解を取っていただけますか” と。それで諦めるだろうと思ったら、本当に渡辺プロの承諾を得てきたんです。これには驚きました。それで松原みきのマネジメントをやることになったんです」
“洋楽を書いてほしい” そして「真夜中のドア」が完成
ところで、松原みきの母親がジャズシンガーで、本人も幼少期からジャズに親しんでいたことは、今では有名な話である。
「小さい時からジュリー・ロンドンとかビリー・ホリデイなどを自然に聴いているから、それならとデビュー前にピアニストの世良譲さんに会わせたり、いろいろな場所に連れて行きました」
歌手デビューに際しては、いい新人がいると業界内でも噂になっていたようで、キャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)の金子陽彦氏が手を挙げ、金子氏から林哲司に作曲を依頼。この時に “洋楽を書いてほしい” と言ったことで「真夜中のドア」が完成するのである。
「最初は “stay with me” というタイトルだったんです。でも、堺正章さんが同じタイトルの曲を6月に発売されていて、それなら “真夜中のドア” を前にくっつけようとなった。実はデビュー曲の候補はもう1曲あって、それはファーストアルバム『POCKET PARK』に収録されている、そんなに派手な曲ではないけれどジャジーに感じた「Manhattan Wind」でした。「真夜中のドア」は、アーティストのキャラクターも考えて、こっちの方が将来的にいいだろうということで決定したんです」
デビューシングル「真夜中のドア〜stay with me」は1979年11月5日に発売。驚くべきはホールでのファーストコンサートが行われたのがその翌月、12月2日である。東京・芝の郵便貯金ホールで行われたこのステージは、ギターに今剛と松原正樹、ドラムが林立夫、ベースにMike Dunn、キーボード安藤芳彦、パーカッション斉藤ノブと、パラシュートのメンバーが参加。さらに小林泉美もキーボードに加わっている。つまり、最初から音楽的に高水準の破格のメンバーで世に送り出されたのだ。
デビュー当時出演していた「日立サウンドブレイク」
そして、テレビでの露出も同時期に行われる。
「テレビは、渡辺プロの頃から知り合いだった、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』プロデューサーの疋田拓さんが、みきを気に入ってくれて、月1回、出演させてくれたんです」
その効果もあり、「真夜中のドア〜stay with me」はヒットに結びついた。テレビでは専属のバックバンド “カステラムーン” と共に出演。バンドリーダーが伊藤銀次であったことは、本サイトの伊藤銀次氏本人の記事でも承知の通りだが、同時にライブ活動も精力的に行なった。初期は新宿ルイードへの出演が多く、他にも渋谷テイクオフセブン、渋谷ライブインなどを中心に活動。菊地氏曰く、ステージでは必ず、セルジオ・メンデスで有名になったボサノバの「マシュ・ケ・ナダ」をレパートリーに入れていたそうである。ジャズが好きだった松原みきは、ポップスでのデビューに何か思うところはあったのだろうか。
「本人は、ジャズかポップスか、というこだわりはあまりなかったですね。素直でいい子でしたから言われた通りにやっていたというか、レコード業界ってどうなっているのかな? という感じで、様子を伺っていた感じもあったかな。その後、自分で曲を作るようになるから、アーティスト指向は最初から持ち合わせていました」
松原みきのデビュー当時、東京12チャンネル(現:テレビ東京)深夜の音楽番組『日立サウンドブレイク』で、当時では珍しいミュージックビデオがオンエアされていた、これも菊地氏の仕掛け。
「映像作家の佐藤輝さんが番組の演出を務めていて、彼とは親しかったので、松原みきのプロモーションビデオを作って欲しいとお願いしたんです。予算がなかったのですが、輝さんが “それならちょうどいい番組があるよ” と、『日立サウンドブレイク』のフォーマットに合わせて、映像を作ってオンエアしてくれたんです」
佐藤輝は、キャロルの解散ライブの中継『グッバイ・キャロル』(TBS)を皮切りに、矢沢永吉と松任谷由実を海岸で対談させたり、美空ひばりと岡林信康の共演番組を作ったり、沢田研二を番組内でヌードにしたり、そのほか尾崎豊のプロモーションビデオなどなど、アーティストの映像作品を多数演出した映像作家で、アバンギャルドで大胆な演出で知られる。この番組でオンエアされた松原みき「真夜中のドア〜stay with me」は佐藤輝が再編集し、公式ミュージックビデオとしてYouTubeにアップされている
「Myself」のバックを手がけたDr.Strut
1980年4月21日にリリースされたアルバム3作目『Cupid』のアナログ片面と、1981年3月21日発売の4作目『Myself』の全曲のバックを手がけているのは、アメリカのフュージョンバンド、Dr.Strut(ドクター・ストラット)である。この起用についても、菊地氏は面白い話を聞かせてくれた。
「松原みきはそのうち世界に出ていくんだという考えが、デビュー時のディレクターの金子さんはじめ、スタッフの間にはあったんです。当時、事務所と同じビルの中に大洋音楽という洋楽専門の著作権管理会社が入っていて、誰か彼女のバックをやってくれる外国のバンドはいないかと相談に行ったんです。大洋音楽の社長は私の恩人であり、“ビートルズを呼んだ男” として知られる世界的なプロモーターである永島達司さん。そこでDr.Strutをマネジメント / コーディネートしていたので紹介されました。4枚目のアルバム『Myself』は、彼らが来日して日本でレコーディングを行い、東京と大阪でコンサートも開催したんです」
他にも、東京音楽祭の世界大会にスティーヴィー・ワンダーがゲストで来日した際、レセプションに松原みきを同席させスティーヴィーに会わせるなど、積極的に洋楽アーティストとコミットすることを行っていたという。
前述の『Myself』を経て、5作目のアルバム『彩』以降は、キャニオンの担当はエースディレクターだった渡邊有三氏がプロデューサーとなり、元甲斐バンドのベーシストだった長岡和弘氏がディレクターとなる。菊地氏はハンズの代表に専念することとなり、1984年発売の6作目『Cool Cut』から、松原を別の事務所に移籍させる決断をした。そこは菊地氏が信頼するキャニオンの元宣伝担当が作ったオフィスであった。
発売から45年、世界的ヒットの実感
それにしても、発売から45年が経過した「真夜中のドア〜stay with me」の現在の状況、海外での人気について、菊地氏はどのように思っているのだろう。
「未だに聴かれているというのがすごいことで、本当に、何がどうなるのか運命はわからない。今年、Adoが初めての世界ツアー(Ado THE FIRST WORLD TOUR "Wish”)を開催した際、本編ラストの1曲前で「真夜中のドア」を歌ったんです。ツアー初日のタイからお客さんはすごいノリで、ツアーラストのL.A.までセットリストに入っていたとのことです」
「実際、「真夜中のドア」はタイの繁華街でも普通にかかっていて、今年フェス視察でタイを訪れた際、連れて行ってくれたタイ在住の知人も “普段はここで日本語の曲なんかかからないけど、この曲だけはたまにかかるよ” と言ってました。プールバーに行ったら現地のDJが「真夜中のドア」をかけていて、この曲大好きなんだと言っていた。もう現地でそんな体験をしたものだから、世界的ヒットの実感が湧いてきました。言語の壁などなく、逆に日本語で歌っていることに感動するらしい。どういう意味なのか知りたくなるんだそうです」
そして、松原みきのシンガーとしての魅力、「真夜中のドア〜stay with me」のヒットの要因についても、次のように語ってくれた。
「彼女が最初に登場してきた時に、バンド編成でテレビに出演したり、ライブをやっていた。“バンドで” という出方は、もう最初から歌謡曲とは違っていたんです。加えてあの時代の空気感が「真夜中のドア」には入っている。ウォークマンが出てきて、リスナーが自分の手元で音楽を聴く、というライフスタイルに変わってきた。その時代にフィットする楽曲だったんです」
さらなるワールドワイドな展開が期待される「真夜中のドア」の魅力
現在、Spotifyの日本の楽曲再生回数チャートで、70年代の楽曲は上位100曲中、唯一「真夜中のドア〜stay with me」だけである。20世紀の曲も、他には宇多田ヒカルの「First Love」が入っているだけ。他の98曲は全て2000年代以降の楽曲で占められている。なぜそこに「真夜中のドア」がいるのか。その魅力は松原みきの声にある、と菊地氏は語る。
「実際、「真夜中のドア」は何十人ものアーティストがカバーしているけど、バズっているのがどうして松原みきの「真夜中のドア」だけなのか。オリジナルであるということを踏まえても、やはり決め手はあの声にあるんだと思います。この曲にはいろんな要素があって、例えば英語が入っている、というのも世界的ヒットの1つの要因かもしれないけど、それ以上に声の魅力はすごくあると思う。松原みきの声はカラッとしているんだけど、その中に少しだけ潤いがあるんだよね。それでいて綺麗洗練されている。そのバランスが絶妙なんです。この曲はもう数え切れないぐらい聴いているけれど、何度聴いても飽きません」
今回、「真夜中のドア〜stay with me」の林哲司による最新バージョンがデジタルリリースされたが、林はボーカルトラックだけをずっと聴き続け、やはりこのトラックは素晴らしいと語ったそうだ。
そして、松原みきの秘蔵音源として、デビュー前に彼女が歌った音源にインスパイアされ、渡邊 / 長岡チームでレコーディングされたトラックが残されているという。それはハイ・ファイ・セットの名曲「スカイレストラン」。この曲もまた、アメリカのラップスター、J.コールの「January 28th」にサンプリング使用され近年注目を集め、今年アナログ盤のシングルが再発された。偶然にもシティポップのムーブメントが、45年前に松原みきを介して繋がっていたのである。この、松原みきの「スカイレストラン」もついに解禁、12月5日に配信リリースされる運びとなった。
「ディレクターの金子さんが、世界を目指そうとした。そこから始まって現在に至っている。感慨深いことですね」
「真夜中のドア〜stay with me」は国境も時間も飛び越えた名曲として、さらなるワールドワイドな展開が期待される。そしてシンガー松原みきの魅力も改めて注目されることだろう。
菊地 哲榮(きくち・あきひで)
株式会社ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長
1946年1月9日北海道函館生まれ。1968年早稲田大学理工学部電気通信学科及び早稲田大学体育局応援部卒業後、渡辺プロダクションにてザ・タイガース、沢田研二、木の実ナナ、天地真理のマネージメントを担当。1978年独立後、(株)ポケットパークを設立し松原みき、遠藤賢司をマネージメント。1981年松任谷由実、サザンオールスターズ、ケツメイシ、森山直太朗などコンサートの企画制作会社、ハンズ代表取締役(現:ハンズオン・エンタテインメント)に就任。他に2000年さいたまスーパーアリーナこけら落とし「NINAGAWA 火の鳥」、第19回福岡国民文化祭2004、2007年7月1日千葉市美浜文化ホールこけら落とし「美浜に吹く風」、2011年5月14日東日本大震災支援チャリティコンサート等プロデュースを担当。現在、(株)ハンズオン・エンタテインメント代表取締役社長、(株)幽玄屋代表取締役社長(所属:Reol)
趣味:スキューバダイビング、麻雀、温泉巡り
現在、(一社)日本音楽制作者連盟常務理事、(公社)日本芸能実演家団体協議会理事、千葉市美浜文化ホール芸術監督(初代館長)、早稲田大学校歌研究会座長、早稲田大学応援部稲門会会長