犠牲者の誇り、伝え守る 梅が丘在住 小久保紀美枝さん
「敗れしは彼の日にあらずわが命の生き終わるまで敗れ行くなり。」
宮内庁御用掛も務めた歌人、岡野弘彦氏の言葉だ。すべてはこの一言に尽きると小久保紀美枝さん(88)は語る。中国・天津で終戦を迎え、幼いながらに凄惨な光景を見てきた。父はシベリア抑留の末、日本に帰ることは叶わなかった。どれほどの時間を過ごしても受けた苦しみは変わらず、「私の人生に死ぬまでつながっていく」
少女が目にした現実
小久保さんは1936年、東京に生まれた。当時は両親と3歳年上の兄との4人家族。父の転勤で、6歳頃に家族で天津租界(行政自治権と治外法権を設定した外国の租借地区)へ渡り、戦時下の約2年間をそこで過ごし、終戦を迎えた。
終戦の2週間ほど前、旧ソ連の現地招集を受け、父はシベリアへ送られた。一方、小久保さんたちは日本に向かう旧ソ連の上陸用舟艇へ。船がある場所までの寒く過酷な道中、亡くなった赤ん坊のために凍った土を掘る母親たち。それでも、ただ「帰りたい」という切実な思いで進んだ。乗船前には持ち物を改められ、そのまま別室へ連れ込まれる若い女性を見た。「当時8歳。幼い少女がそんな光景を見なければならなかった」と小久保さんは当時を語る。
9月頃、日本に帰国した小久保さんは兄と共に、母方の伯母夫婦のもとに身を寄せた。消息不明の父の帰りを、とにかく希望を持って待った。結核を患った母は天津で亡くなっており、兄妹二人きり「いつも孤独で寂しかった」と話す。父の死を知らされたのは14、15歳頃のこと。最期の言葉は「幼い子どもがいるのにな」だったと伝えられた。「信じられなかった。父が自分たちを残していくはずがないと思った」。現地に埋葬記録はあれど遺骨はなく、写真のほかには大学時代の名簿が唯一の生きた証だという。
決して忘れてはいけない
「無関心が一番よくない」と、小久保さんは現在、3カ月に1回ほど自宅で勉強会を開いている。「亡き人たちの思い、残された方の悲惨な生活。今の平和な生活は、多くの犠牲の上に成り立っているんです」と声を震わせ、「私の人生最後の仕事は、亡き人たちの誇りを伝え、守ること」と、繰り返し語る。
戦争に関する書籍などに触れるたびに思い起こされる、幼い頃に見た光景。「私たちの記憶も、苦しみも、軽々しいものではない。一生引きずって生きるのです」