Yahoo! JAPAN

さむないよ。家はない ホームレス/ハウスレス~札幌発・生活困窮者の今と支援(第1話)ホームレスもハウスレスも経て…(1)

Sitakke

Sitakke

路上生活者はこの十数年で減り、街角でも見かけることが少なくなりました。そ の一方で、車の中やインターネットカフェを転々としながら暮らす人が増え、生活困窮者の実態が見えにくくなっています。ハウスレスという言葉をご存知でしょうか?ホームレスとハウスレスの違いは何でしょうか?

生活困窮者がそうした暮らしを続ける理由は多様です。経済的な問題だけではなく、家族や職場とのトラブルから居場所をなくして孤立する人、障害や精神疾患があって社会への適応が難しい人、依存症になって治療を要しながらもその伝手を得ることができない人、一旦は生活保護の受給を得てもまた路上に戻る人など様々です。

冬には-10℃を下回る厳しい環境の札幌で、ホームレスの人、ハウスレスの人、彼らを支援する人…。この連載企画では、それぞれの暮らしと活動に向き合って、私たちのすぐそばで起きている貧困と格差の今を考えます。

「さむないよ。家はない」

札幌市内・去年10月7日

その高齢の男性と初めて会ったのは、去年10月7日午後8時過ぎのことでした。札幌市内のある施設の軒先にいました。ベンチの傍らには、キャリーバッグ1つと大きなボストンバッグが2つあり、いずれも衣類などが詰められてパンパンでした。

路上生活者ら生活困窮者の支援をしている任意のボランティア団体「北海道の労働と福祉を考える会(通称・労福会)」(*注1)が、毎週土曜日夜に行なっている「夜回り(*注2)」に同行していた時のことです。

男性(中央)と労福会のメンバー(札幌市内・去年10月7日)

(労福会のメンバー)「○○さん、どうですか?お元気でしたか?」
(男性)「ボチボチや」
(労福会のメンバー)「パンを持って来ました。2つ選んでください」
(男性)「う~んと…じゃあ、これとこれ、いただきます」
(私)「取材で同行しています」
(男性)「あ~、何か?」
(私)「どうしていらっしゃるんですか?」
(男性)「ホームレス、続けてんねん」
(私)「どうしてですか?」
(男性)「・・・」
(私)「寒くないですか?」
(男性)「さむないよ。家はない」
(労福会のメンバー)「次の場所へ行きましょうか」
(私)「また、ゆっくり話を聴かせてください」
(男性)「・・・」

やわらかい関西弁を話すその男性が、この8日後、事件に巻き込まれて、それまで20年余り続けてきた路上での生活を止めることになるとは、この時、誰も、本人すら、思っていませんでした…。

「これでも大学出てるんや」

(イメージ)

男性はなぜ、路上生活を送るようになったのか?私は後に、彼の半生を、生い立ちから聞くことになりました。

「おれは三浦友和と同学年なんや。いや、一緒の学校と言う意味でなくて、同じ学年の生まれと言うことや。だから、あの人のドラマは、よう観たで。百恵ちゃんと出てた『赤いシリーズ』、映画も観たな…」

昭和のテレビドラマの記憶から始まった男性の話は、ゆっくりとした、私を包み込むような口調で、飄々(ひょうひょう)と続きます。

1951年(昭和26年)に大阪市で生まれ、名前はH.Yさん(イニシャル)と言います。今年5月に73歳になります。一見、苦境に陥っているような様子はなく、親戚の優しいおじさんが昔話をしてくれるような印象で、私は耳を傾けました。

「これでも大学出てるんや。経営学」

大阪万博の太陽の塔(大阪・1970年)

地元の大学に通っていた1970年(昭和45年)には、大阪で万国博覧会が開かれ、昭和の高度経済成長を実感しました。その余韻が残る中、大学を卒業して大手スーパーマーケットに就職します。最初は衣料品やベビー用品の担当になって、店内の陳列から配送のバッグヤードまでの仕事を9年の間に一通り覚えました。その後、父親が経営するスーパーマーケットに移って家業を支え、ゆくゆくは経営を継ぐ予定でした。

H.Yさんは大の旅行好きで、まとまった休みには、当時、国鉄が仕掛けた旅行キャンペーンの歌「いい日旅立ち」の音色に乗って、日本の各地を回りました。

「職場の気が合うやつらと団体でも行ったし、一人でもよう歩いたわ」

しかしその職場では、辛い体験をするようになってゆきます。

「誰にも言えへん。下向いて…」

(イメージ)

「いろいろ人間関係があってなぁ…。今で言う『パワハラ』や。なんでか、僕ばっかり狙われますねん」

「仕事が終わりかけるころ、上司が『きょう話あるから、ちょっと残っとれ』って言いますねん。あぁ、またやと思いました」

「みんな帰った後の事務所で1対1になって説教され、そしてその上司が突然怒り出して、罵声を浴びせますんや」

「そりゃあ、怖かった…。でも思い当たる節がまったくないし、何を言っているのかサッパリわからへん。ただ、怒鳴ってますねん。それが1時間ぐらい続きますねん…」

「悩みました。誰にも言えへん。下向いて『はい、はい』と言うばかりでした」

「その内、違う上司からも同じように呼び出されて、罵声を浴びせられることが定期的にあるようになって、その人数が5~6人に増えて、入れ代わり立ち代わり、大声で怒鳴られることが続いて…」

そんな日々に、楽しかった旅行は、いつしか現実逃避するための旅に変わってゆきました。

勤め先が実家の会社だったこともあり、ふらりと出た旅は長期に渡ってもとがめられることはなく、その内、帰る足が遠のき、それまで旅行で何度か来たことがあった北海道で、駅舎や公園に野宿して時間が過ぎてゆきました。

H.Yさんが40代後半から50代になる、今から20数年前のことでした

「その頃は、もうホームレスやったのか…旅をしていたのか…」

「金は、働いて貯めた蓄えが少しあって、それをちょっとずつ使いながらおった」

両親や兄弟がいる実家には、たまに手紙を書いたこともありましたが、それも途絶え、携帯電話も持たず、路上での生活が日常となりました。

「独りが楽ですねん。遠くにいることが楽ですねん」

「もう20年は…」

H.Yさん(72歳)

(私)「いつからご実家と連絡を取っていないんですか?」
(H.Yさん)「もう20年はたつなぁ」
(私)「帰りたい、ご家族に会いたいという思いは?」
(H.Yさん)「う~ん、ない…」

ちょっと考えて、そう話したH.Yさんは、ニコッと微笑んで、遠くを見つめました。

私は、何かあるであろう…納得がゆく答えを得られない、もどかしい気持ちになりました。つかみどころがないような感じも受けました。同時に、一人の男性の70年以上の人生を、何度か会ったぐらいで理解できるはずもないか、と戒めました。

旅の延長だったのか、それにしても20年余り路上で暮らして来た理由は何か?かつての上司にパワーハラスメントを受けたことに起因するものはあるのか?そもそも、理由は必要なのか?

H.Yさんはその後、路上生活を止めました。そのきっかけが、冒頭に記した予期せぬ事件に巻き込まれたことでした。

⇒続きの記事は、2024年3月14日(木)更新予定です。

◇文・写真 HBC油谷弘洋

・・・・・・

(*注1)北海道の労働と福祉を考える会(通称・労福会): 1999年に北海道大学の学生と教員が母体となって発足した任意のボランティア団体で、路上生活者ら生活困窮者の把握と調査、支援を目的としています。会員は学生に加えて会社員や主婦、公務員、自営業者、福祉関係者、教育関係者ら一般人も加わって運営されています。毎週土曜日には「夜回り」と称して札幌市内を歩き、路上生活者らと対話しながら実態を把握し、食料や生活必需品等を配布するなどの支援を続けています。また月に1回のペースで「炊き出し」も行っています。運営資金は企業や団体、個人からの寄付と助成金、会員の会費などで賄われ、ボランティスタッフと寄付金を募集しています。https://www.roufuku.org/

(*注2)夜回り: 上記参照

【関連記事】

おすすめの記事