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#5 「母親」の存在感――高橋源一郎さんが読む、太宰治『斜陽』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#5 「母親」の存在感――高橋源一郎さんが読む、太宰治『斜陽』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

作家・高橋源一郎さんによる太宰治『斜陽』読み解き #5

隠され続けたのは、私たちの「声」なんだ──。

「一億玉砕」から「民主主義」へ――。言葉は変われどその本質は変わらなかった戦後の日本。そんな中、それを言われると世間が困るような「声」を持つ人たちがいました。酒におぼれる小説家・上原、既婚者・上原を愛するかず子、麻薬とアルコール中毒で苦しむ弟・直治。1947年に発表され爆発的ブームを巻き起こした『斜陽』に描かれる、生きるのが下手な彼らの「声」に、太宰治が込めた思いとは何だったのでしょうか。

『NHK「100分de名著」ブックス 太宰治 斜陽』では、『斜陽』の登場人物が追い求めた「自分の言葉で」「真に人間らしく」生きるとはどういうことなのか、そして太宰が「どうしても書きたかったこと」に、高橋源一郎さんが迫ります。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第5回/全5回)

 最近は、すっかり様相が変わってしまったんだ。だいたい、「父親」が描かれることはほとんどなくなった。どうも、父親の居場所がなくなってしまったらしいのである。影が薄いみたいなんだ。それに代わって、「母親」の存在感が増す一方だ。そして、それと同時に、娘の存在感も増していった。もちろん、いまも、この社会は「男性」に有利に作られている。しかし、女性も虐げられるだけの存在ではなくなった。家庭の実権は確実に女性の手に握られようとしている。というか、社会の変化に敏感に反応するのは、男性ではなく女性なんだ。そして、女性の存在感が増せば増すほど、その女性の内部での問題もクローズアップされるようになった。その最大のテーマが「母と娘の対立」だったんだ。

 だが、それは、半世紀にわたってゆっくりと確実に、ぼくたちの目に見えるようになってきた問題だ。それにもかかわらず、太宰治は、そんな問題が存在していることに、まだほとんど誰も気づいてはいなかった、そして、もっと他に重大な問題があると人びとが信じていた時代に、真っ先に、この問題を取り上げたのである。

 かず子が、母親に深い敬愛の情を抱いていたことは書いた通り。けれど、かず子にとって母親は、単に敬愛の対象であるだけではなかった。これは、伊豆に引っ越す直前のふたりの会話。

 お母さまは、おや? と思ったくらいに老けた弱々しいお声で、

「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから」

 と意外な事をおっしゃった。

 私は、どきんとして、

「かず子がいなかったら?」

 と思わずたずねた。

 お母さまは、急にお泣きになって、

「死んだほうがよいのです。お父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ」

 それから、もう一つ。引っ越してから、さらに貧窮が進み、母親がかず子に、さる宮様への「御奉公」を勧めたときの、母と娘のいさかい。

「だましたのよ。お母さまは、私をおだましになったのよ。直治が来るまで、私を利用していらっしゃったのよ。私は、お母さまの女中さん。用がすんだから、こんどは宮様のところに行けって」

 わっと声が出て、私は立ったまま、思いきり泣いた。

「お前は、馬鹿だねえ」

 と低くおっしゃったお母さまのお声は、怒りに震えていた。

 私は顔を挙げ、

「そうよ、馬鹿よ。馬鹿だから、だまされるのよ。馬鹿だから、邪魔にされるのよ。いないほうがいいのでしょう? 貧乏って、どんな事? お金って、なんの事? 私には、わからないわ。愛情を、お母さまの愛情を、それだけを私は信じて生きて来たのです」

(中略)

「私さえ、いなかったらいいのでしょう? 出て行きます。私には、行くところがあるの」

 母親の重い愛情、そして、それに応えようとする、娘の思い。この愛情の、深い相互依存の中で、母と娘は生きている。このような深い依存は、父と息子の間にも、父と娘の間にもない。では、母と息子の関係はどうだろう。マザーコンプレックスということばがあるように、母と息子の間にも依存関係はある。けれども、その依存は、息子が相手となる女性を得て「自立」すると、一気に不要になるのである。

 だが、母と娘の関係は、娘がパートナーを得ようと、結婚しようと、本質的な変化はない。いったい、なぜなんだろうか。

 もう一つ、『斜陽』の中に、母と娘に関する大切なエピソードがある。それは、かつて、かず子の父親が亡くなる直前、その枕元に蛇がいたという小さな事件だ。その夕方、かず子が庭に出ると、木という木に蛇が巻きついていた。それ以来、母親は、蛇を嫌っていた。というか、畏怖の気持ちを持つようになっていた。そんなある日、偶然、蛇の卵を見つけたとき、かず子は焼いてしまうのだが、その様子を、母親に見られてしまう。そして、その日の夕方ちかく、ふたりの前に、蛇が現れるのである。

 お母さまもそれを見つけ、

「あの蛇は?」

 とおっしゃるなり立ち上って私のほうに走り寄り、私の手をとったまま立ちすくんでおしまいになった。そう言われて、私も、はっと思い当り、

「卵の母親?」

 と口に出して言ってしまった。

「そう、そうよ」

 お母さまのお声は、かすれていた。

 私たちは手をとり合って、息をつめ、黙ってその蛇を見護った。石の上に、物憂げにうずくまっていた蛇は、よろめくようにまた動きはじめ、そうして力弱そうに石段を横切り、かきつばたのほうに這入って行った。

「けさから、お庭を歩きまわっていたのよ」

 と私が小声で申し上げたら、お母さまは、溜息をついてくたりと椅子に坐り込んでおしまいになって、

「そうでしょう? 卵を捜しているのですよ。可哀そうに」

 と沈んだ声でおっしゃった。

 私は仕方なく、ふふと笑った。

 夕日がお母さまのお顔に当って、お母さまのお眼が青いくらいに光って見えて、その幽かに怒りを帯びたようなお顔は、飛びつきたいほどに美しかった。そうして、私は、ああ、お母さまのお顔は、さっきのあの悲しい蛇に、どこか似ていらっしゃる、と思った。そうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇を、いつか、食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした。

 私はお母さまの軟らかなきゃしゃなお肩に手を置いて、理由のわからない身悶えをした。

 いったい、かず子の胸の中に住む「蝮みたいにごろごろして醜い蛇」とはなんだろう。そして、太宰はなぜ、何度も繰り返し、その「蛇」を登場させたんだろうか。

 蛇は、神話的な生きものだ。あの、手も脚もないのに、ぬめぬめと地を這ってうごめく生きものを、人びとは恐れ、敬ってきた。蛇には、なにか、人間を心の底からおびえさせるものがあるんだ。

『創世記』に出てくる蛇は、エデンの園にいたアダムとイヴに「知恵」を授ける。その結果、「恥」を知ることになったアダムとイヴは楽園から追放されるのである。あの、創世記の蛇は、明らかに「欲望」の象徴だろう。うねうねした、どこか形のない、ただ生命だけを感じさせる生きものは、人間に「欲望」のありかを教えたのである。

 かず子が宿していた蛇は「欲望」や「生命力」の象徴であり、卵を産む蛇故に「母性」の象徴でもあったのかもしれない。そんなことは当たり前じゃないか。誰にだって、「欲望」や「生命力」はあり、たぶん「女性」は生まれつき「母性」を備えているじゃないか。そんな疑問が生まれても不思議はない。

 そうじゃない。太宰は、そういっているようにぼくには思える。

 女性は「女らしさ」を求められてきた。それは、一方では、女性らしい身体だ。その女性らしい身体に、男性は欲望を抱いた。けれども、同時に、社会が求める「女らしさ」には、おとなしさや行儀良さもあった。そちらの、社会が求める「女らしさ」の中では、女性は「欲望」を持つことを禁じられてきた。男に「欲望」があるのは当然だった。けれども、女が「欲望」を持つことは、この社会の秩序を壊すことだった。女性は、恋人であるか愛人であるか妻であるか母であるかを問わず、男性の「欲望」に従うべき存在だった。

 でも、ほんとうは、女性の中には、男性以上に強烈な「蛇」がうごめいているんだ。

 母とかず子の「身悶え」するような争いを通じて、太宰は、女性たちの中に確かに存在していたのに、社会が隠そうとしていた「蛇」を見つけ出した。長い間、押しつぶされてきた、抑圧されてきた、女性たちの中の「蛇」。その「蛇」たちを、外へ連れ出すこと。それが、太宰治が『斜陽』の中でやろうとしたことのように思えて仕方ない。

 男たちは、女たちの中の「蛇」を押しつぶしてきた。その男たちが、この社会を作り、戦争を始め、そして、なにもかも壊してしまった。

 戦争は終わった。新しい社会はまだ生まれていない。誰が、それを作るのか。男たち? ほんとうに? あんな連中に、またやらせるのか?

 太宰が描いた、母と娘の葛藤は、いま、ふつうに見られる光景だ。太宰は、誰よりも早く、そんな日々がやって来ることに気づいていた。だが、彼は、ただ予言したのではない。その仕事をやってのけるのは、そんな葛藤から生まれてくるはずの新しい女たちであることを予言したんだ。

 では、母との葛藤の中で、娘のかず子が選んだ戦いの方法とは何だったんだろうか。

著者

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
広島県生まれ。作家。1981年「さようなら、ギャングたち」で第4回群像新人長篇小説賞を受賞しデビュー。1988年『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞、2002年『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞、2012年『さよならクリストファー・ロビン』で第48回谷崎潤一郎賞を受賞。他の著書に『一億三千万人のための『論語』教室』『「ことば」に殺される前に』(河出新書)、『これは、アレだな』(毎日新聞出版)、『「読む」って、どんなこと?』(NHK出版)など多数。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス 太宰治 斜陽 名もなき「声」の物語』(高橋源一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。

*本書における『斜陽』の引用は、新潮文庫版(平成二十七年二月二十日百三十刷)によっています。『散華』は『太宰治全集6』(ちくま文庫)に、それ以外の太宰作品は新潮文庫版によっています。

*本書は、「NHK100分de名著」において、二〇一五年九月に放送された「太宰治『斜陽』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「太宰治の十五年戦争」「おわりに」を収載したものです。

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