江戸の出版業界を席巻した「耕書堂」、店を構えた日本橋界隈を訪ねる。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の伍】
ドラマ『べらぼう』も中盤に入り、個性的な登場人物が次々に登場。現代でも高い評価を得ている芸術家や文化人と、彼らが生み出す作品を世に送り出した稀代のプロデューサー蔦屋重三郎(以下・蔦重)のアイデアが、一気に花開いていく様子が描かれている。その小気味の良い展開に、すっかり虜(とりこ)となってしまった人も多いようだ。安永2年(1773)、吉原五十間道に立っていた「蔦屋次郎兵衛店」を間借りして、書店「耕書堂」を始めた蔦重。本屋としての地歩を着実に固めた後、天明3年(1783)にはついに日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)に耕書堂を構えた。“ついに”と表現したのは、ここは鶴屋喜右衛門といった江戸の名だたる地本問屋が軒を連ねる書店街だったからだ。まさしくこの時に、出版界に「耕書堂あり!」となったのである。
【今回のコース】蔦屋重三郎が耕書堂を構えた日本橋界隈を歩く
今回のコースは少し短めでこんな感じ。
地下鉄人形町駅→(5分)→人形町の芝居町跡→(5分)→三光稲荷神社→(12分)→うなぎ三好(3分)→西郷隆盛邸跡→(5分)→甘酒横丁入り口→(3分)→高級鯛焼本舗 柳屋→(15分)→明治座→(15分)→浜町公園(隅田川)→(30分)→耕書堂跡→(15分)→十思公園→(1分)→大安楽寺→(1分)→地下鉄小伝馬町駅
芝居小屋が軒を連ねた往年の面影を求め人形町へ
今回は蔦重がさらなる飛躍を遂げた地、日本橋周辺を歩いてみたい。過去4回よりも歩く距離は短く、しかもほぼ平坦な道ばかりなので、老若男女問わずに楽しめるはず。そんなコースの起点は、地下鉄日比谷線と浅草線が交差する人形町駅だ。
寛永元年(1624) 頃、歌舞音曲の名人・猿若勘三郎が、京都から江戸に下ってきた。その時、人形町界隈に猿若座(のちの中村座)を開いている。これが江戸歌舞伎の始まりとされている。その後、泉州堺の村山又三郎が村山座(のちの市村座)を興し、こちらも人形町に芝居小屋を建てた。
その後、周辺には人形浄瑠璃をはじめ、見世物小屋から曲芸、水芸、手妻(手品)など、安い料金で楽しめる小屋もたくさん立ち並び、大名から庶民まで多くの人々が、楽しんでいた。その中でも安い値段と短い時間で十分に楽しめたのが、人形芝居であった。現在の人形町2丁目周辺には人形を操る人形師をはじめ、人形制作や修理をする職人たちが大勢暮らしていた。元禄時代の地図には、堺町と和泉町の間の通りに「人形丁」と書かれている。
さまざまな芝居小屋が軒を連ねていたが、天保12年(1841)に始まった老中・水野忠邦による天保の改革で、芝居小屋は猿若町(現在の台東区浅草・浅草寺の裏手)に移転させられてしまう。今は人形町通りの歩道に、「堺町・葦屋町芝居町跡」の解説板が立っているだけで、名残は見当たらない。
十返舎一九が住んだ町の鎮守。愛猫家なら訪ねてみるべし
またこの地はもともと幕府公認の遊郭・吉原があった場所だ。慶長17年(1612)に幕府は風紀の乱れを恐れ、葺屋(ふきや)町の東にあった葭(よし)が生い茂る湿地帯を埋め立てて、塀で仕切りその中に江戸中に点在していた娼家を移し遊郭を形成した。それが吉原の始まり。葭の字に縁起の良い吉を宛てたのだ。明暦3年(1657)に大火が起こり(振袖火事)、廓の大半が焼け落ちたため、浅草の外れに移転、それが『べらぼう』で描かれている新吉原である。
芝居町の解説板が立っている場所から人形町通りを渡ると、ビルの間に「三光稲荷神社」と記された、アーチがかかった小径があるのが目に入る。その奥に飼い猫が行方不明となった際、立願すれば霊験ありという「三光稲荷神社」が鎮座している。
もともとは長谷川町の鎮守であったが、大正時代の区画整理で田所町と合併し、その町にあった田所稲荷大明神と合祀された。長谷川町には十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が住んでいた。一九はそれ以前、蔦重の耕書堂に寄食している。『べらぼう』ファンだけでなく、愛猫家もぜひ立ち寄りたい社と言える。
江戸のうまいもの代表格。人形町で評判のうなぎの名店
今回は短めのコースということで、スタートが昼少し前。そのため、早くもおなかの虫が騒ぎ出してしまう。人形町周辺には、昔ながらの洋食屋さんやテイクアウトできるおにぎり屋さんなど、魅力的な店が目白押しだ。
そんな中で、今回は奮発してうなぎをいただくことにした。というのも、この後に行く「伝馬町牢屋敷」は、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣を広めた人物とされる平賀源内が亡くなった場所。それに江戸前のうなぎは当時からブランド化され、人気があったから、というのも贅沢の言い訳としたい……。
というわけで、人形町駅A6出口から2分ほどの場所にある『うなぎ 三好』の扉をくぐった。看板に西伊豆松崎とあるのは、そちらが本店だから。その本店から引き継いでいる秘伝のタレは、うなぎとご飯を香ばしく包み込み、滋味あふれる味わいにまとめてくれる欠かせない脇役。
そして本店の先代から続くもう一つのこだわりが、炭を使う蒸し竈(かまど)で炊いたご飯だ。米の一粒一粒が立ち甘みを強調、さらにタレを含むことで、箸が止まらなくなってしまう。もちろん、炭火でじっくり焼いたうなぎは、表面は香ばしく身はふっくら柔らかな江戸前の絶品。見た目はこってりした印象だが、意外にもさっぱりとした味わい。
「これなら軽く二杯はいける!」と思わず唸ってしまったほど絶妙な風味に、大盛りにしなかったことを後悔してしまった。
『うなぎ 三好』
●東京都中央区日本橋人形町1-5-6 ナカハナビル1F
●TEL:03-3664-3440
●11:30〜14:00・17:30〜21:00、日・月休(臨時休あり)
情緒あふれる下町の散歩道。甘酒横丁から隅田川畔へ向かう
人形町から蔦重が店を構えた日本橋通油町まで、まっすぐ向かえばものの30分。それでは食後の腹ごなしにならないので、浜町(隅田川方面)へと続く「甘酒横丁」へと向かうことにした。そこには古き良き下町の風情を残す、老舗や名店が立ち並んでいて、店先を楽しみながらの散歩に最適。
人形町通り沿いに甘酒横丁へ向かうのは、大通りの歩道を歩くことになり味気がないので、裏手にある日本橋小学校前の道を辿(たど)ることにした。すると校門脇の植え込みに「西郷隆盛邸跡」の案内板があった。それによれば明治維新後に郷里鹿児島で暮らしていた西郷は、新政府高官に請われ明治4年(1871)に上京する。そして征韓論が却下され再び鹿児島に下野するまでの約2年間、この地に屋敷を構えていたようだ。このように街中散歩は、思わぬ史跡と出合えるのも楽しいものだ。
その先の交差点を左に曲がり、少し歩けば人形町通りと甘酒横丁がぶつかる交差点前に出る。明治時代、横丁の入り口に「尾張屋」という名の甘酒屋があったことから、この名が付けられた。当時、この界隈には水天宮をはじめ明治座、近くには寄席の「末廣亭」「喜扇亭」「鈴本亭」もあり、大勢の人でにぎわっていた。今もこの通りを抜けると明治座や浜町公園、隅田川などがあるため、通りには内外から集まった多くの観光客が歩いていた。
横丁に入るとすぐ、東京三大鯛焼きのひとつに数えられている『柳屋』がある。大正5年(1916)に創業した専門店で、職人さんが一つずつ丁寧に焼き上げている。行列が絶えない店としても知られていて、この日も10人以上が並んでいた。
一瞬、並ぶのを躊躇したが、後悔する気がしたので列の後ろへ。すると意外に早く順番が回ってきた。1個買ってさっそくいただくことにしたが、皮が薄く熱々でしばらくは直に持てないほど。パリパリで香ばしい皮の中には、毎日朝から炊き上げるという粒あんがぎっしり。程よい甘さと瑞々しさが口中を占拠し、幸せな気分にみたされた。
ほかにも個性的でどこか懐かしい店のたたずまいを楽しみながら甘酒横丁を歩いて行くと、細長い公園のようになった浜町川緑道の入り口に、勧進帳の一場面、弁慶が見栄を切って立つ像がある。かつてこの界隈には、江戸三座のうちの中村座と市村座があったことから、歌舞伎の代表的な演目の一場面を模した像が建てられたとのこと。人形町駅から『明治座』へ向かう人の目を楽しませている。
そして『明治座』を横目に浜町公園へ。この付近ではナウマンゾウの化石が発掘されたそうで、同じ個体の頭と体の骨が発見されたのは、日本ではここだけらしい。公園内では木陰で一休みした後、隅田川畔でしばし川船とスカイツリーの景色を楽しんだ。
蔦重が快進撃を見せた店の跡地から、平賀源内最期の地となった場所へ
もともとは灯油を売る店があったことから、通油町という町名となった場所は、今は日本橋大伝馬町という名に変わり、周囲はビルに囲まれた風景に変わっている。蔦重が生きていた時代には、古くから蔦重と付き合いがあった鱗形屋孫兵衛をはじめ鶴屋喜右衛門、西村屋与八など、江戸の出版界を支える版元が集まる出版界の中心地だった。
蔦重は天明3年(1783)9月、満を持してこの地に進出し朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝、大田南畝らの戯作だけでなく、北尾重政や勝川春章、喜多川歌麿といった絵師の作品を次々に送り出している。
耕書堂があったとされる場所には、歩道に解説板が立てられている。その向かいにあるホテルの壁面には、葛飾北斎が描いた耕書堂の店先をアレンジした絵が飾られている。
ここは、今でこそ細い裏道になっているが、当時は日光街道であったから、かなりにぎわっていたと思われる。そこからわずかな距離しか離れていない場所にある十思(じっし)公園には、江戸時代に「伝馬町牢屋敷」と呼ばれた監獄があった。ここは平賀源内が獄死した場所であり、幕末には長州の吉田松陰が処刑された場所でもある。
公園には牢屋敷の石垣や井戸の跡、隣接する「十思スクエア別館」の1階では、牢屋敷の模型が見られる。また道を隔てた向かいにある大安楽寺の塀には、「江戸伝馬町処刑場跡」の石碑があり、境内には刑死者を慰霊する「延命地蔵尊」が安置されている。
そんな場所ではあるが、今は周辺の会社に勤める人たちの、憩いの場となっている。
次回は独特の存在感を放ち、従来語られてきた人物像に一石を投じている老中・田沼意次が治めた静岡県の相良(さがら)を訪ねてみたい。
取材・文・撮影=野田伊豆守
野田伊豆守(のだいずのかみ)
フリーライター・編集者
1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。