朝ドラ出演俳優兼フリーランス家庭教師を襲った突然の悲劇 38度の熱から半日で呼吸困難・ICUへ「ここにいたら死ぬ」とまで思い詰めた100万人に1人の難病
10万人に1人、更にその中でも数%しか陥らない最重度のギラン・バレー症候群を経験した俳優兼家庭教師の小堀正博さんにインタビュー。意識はクリアなのに体は動かない。絶望の淵で彼が見出した「できること」とは(全2回の前編)。
【▶画像】<闘病ママ>が語る子育てのリアル「ギャン泣きの我が子を抱っこできない」ある日突然、体に力が入らなくなる。風邪のような症状からわずか半日で、呼吸すら自分の力でできなくなったとしたら──。10万人に1人、更にその中でも数%しか陥らない最重度のギラン・バレー症候群を経験した俳優・家庭教師の小堀正博さん。
壮絶な闘病の始まりと、ICUのベッドで「俳優はもう無理だ」と覚悟しながらも、小堀さんがいかにして前を向いてリハビリを乗り越えたのかを伺います。
小堀正博(こぼり・まさひろ)
俳優・家庭教師。アメリカ合衆国ワシントンD.C.出身。関西学院中学部・高等部を経て、関西学院大学法学部卒業。2006年映画「かぞくのひけつ」で役者本格デビュー。NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」「まんぷく」などに出演。最新作2025年映画「Vasalava」(Amazon Prime Video)配信中。フリーランスの家庭教師としても小学生から高校生まで全科目に対応。高等学校教諭一種免許状(公民)所持。
「ペットボトルが開けられない」風邪だと思っていた異変の正体
2024年3月10日。少しずつ寒さが遠のいてきていたその日、一人の男性の運命が大きく変わりました。俳優・家庭教師の小堀正博さんは、10万人に1人、更にその中でも数%しか陥らない最重度のギラン・バレー症候群という病に見舞われます。
ギラン・バレー症候群とは、末梢神経(脳と脊髄以外の神経)が障害されることによって、体の脱力、しびれ、痛みなどが現れる病気です。
「今思えば、発症の2週間くらい前から体調を崩していました。倒れる4日前に東京で仕事をしたときも、少しだけ声がおかしくて『あれ? 小堀さん、花粉症になったんですか?』なんて聞かれていたんです。でも、寝込むほどではなく、いつもなら数日で治る軽い風邪のような感覚でいたのですが……」(小堀さん)
アメリカ生まれ関西育ちの小堀さんは、運動好きな野球少年でした。中学受験をして、関西学院中学部に入学。同高等部を経て、関西学院大学法学部卒業。
また、2006年から本格的に俳優としてのキャリアをスタートし、NHKの朝の連続テレビ小説などに出演するほか、在学中から始めた塾講師を経て、現在はフリーランスの家庭教師としても活動。
役者と家庭教師の二足の草鞋を履いて、「仕事柄、体調管理には十分に気をつけていた」と話す小堀さん。これまで大きな病気や怪我の経験もなく、病院にかかることもほとんどなかったと言います。
「救急搬送された3月10日は、朝起きたら38度まで熱が出ていました。少し寝たら治るだろうと横になり、昼ごはんを食べようと起きたら、ペットボトルの蓋が開けられないほどに握力が落ちていた。もう一度、夕方に目が覚めて、トイレに行こうとしたら立ち上がることもできなくて……。這うようにして移動して、『これはただ事じゃない、救急車を呼ばないと!』と思いました」(小堀さん)
熱は高かったものの、「意識はしっかりあった」と話す小堀さん。
ただ、身体に力が入らず、もう一人では立ち上がることができない状態までになっていました。
わずか半日で呼吸困難に! ナースコールも押せず「記憶があいまい」な夜
救急車で運び込まれた病院では、コロナとインフルエンザの検査をして陰性。感染症の高熱からくる筋力の脱力ではないか、という診断を受けました。
「病院側から特に入院の話は出なかったのですが、僕から『心配なので今日は泊まらせてほしい』とお願いしたんです。その時点では、点滴を打って症状が改善したら、明日にはすっかりよくなって帰れるだろう、と考えていた。でも、夜が更けるにつれて徐々に悪化していったんです」(小堀さん)
夜の22時には、「何かあったら」とベッドの脇に置かれていたナースコールも押せないほどでした。
「病室の外を通りかかった看護師に、必死の思いで暴れて不調を訴えて、ようやく気がついてもらえて。そこからの記憶があいまいなんです。朝方には自発的に呼吸をすることもままならなくなり、集中治療室に移動することに。移動直前の午前11時前には母親に電話してるんですが、僕は覚えていない。次の記憶は、集中治療室で口から肺まで気管挿管されて、管に繫がれた状態。
目が覚めて、自分の身に何が起きているのか全くわからなかったですね」(小堀さん)
入院中の身体が動かせないときの小堀さん。 写真提供:小堀正博
体は動かず、声も出ない… クリアな思考の中で襲ってきた「死の恐怖」
その日から約4ヵ月もの間、入院生活を送ることになった小堀さん。介護職に就かれている小堀さんのお母さんが、倒れたその日から病床の記録を事細かに記録していました。
当時のカレンダーにはびっしりと、その日の小堀さんの様子や病状の変化、リハビリの経過がお母さんによって綴られています。
「ギラン・バレー症候群かどうかは髄液検査を行うのですが、その結果が出るまでに時間がかかる。僕の場合は、主治医の的確な判断で、ギラン・バレー症候群“疑い”として倒れた翌日から治療を始めました。ギラン・バレーは、とてもわかりづらい病気で、脳梗塞などと間違われる場合もあるので、脳神経内科のある総合病院に連れていってもらえてよかった、と心から思っています」(小堀さん)
とは言え、ICUに入ってからの最初の1週間は、死を意識するほど壮絶な時間でした。
「記録によると、『ここにいたら死ぬから転院したい』と家族に伝えています。挿管されているんですが、痰がずっと出てきていて、苦しくって溺れ死にしそうになるんです。だから『こんなに苦しいのは絶対に管を入れる場所を間違えているからだ。医療ミスだから知り合いの弁護士を呼んでほしい』と言っていたみたいで。
すべてに疑心暗鬼というか、もう何も信じられない状況で、本当にきつかったですね」(小堀さん)
意識はあるし、思考もクリア。でも、身体が動かない。声も、もちろん出せません。
微細な目と首の動きを使って、文字盤で1文字ずつ文字を追い、必死に家族に意思を伝えていたと言います。
好きなことをいくつも続けてきてよかった
小堀さんの場合は、倒れた翌日の3月11日から免疫グロブリン療法を2クール、5日間ずつ行いました。寝たきりで動けなかった最初の2週間で、治療を受けながらいろいろなことを考えたと言います。
「わりと早い段階で、“一生こういう生き方になるかもしれない”という覚悟はしましたね。役者は真っ先にもう無理だろうな、と。顔を動かせなかったら演技はできませんから。大好きな野球も、二度とできないだろうなと思いました」(小堀さん)
しかし、小堀さんは決してそこで挫けませんでした。
「じゃあ、どうやって今後生きていこうかなと考えたんです。役者は無理だけど、声さえ出せたら家庭教師はなんとかやれるんじゃないか。ベッドにタブレットを置いて、オンラインで授業もできるし、車椅子で移動できるまで頑張って、1時間椅子に座ることができれば、対面でも授業はできるな、と。あとは、おいしいものを食べたり、きれいな景色見たりすることはできるだろうから、まぁいいかな、とは思っていました」(小堀さん)
できないことよりも、できること探しに意識を向けるスピードが速かった小堀さん。なぜ、そこまで前向きに気持ちを切り替えることができたのでしょうか。
「あとは、幼いころからの積み重ねですけど、何かつらいことや都合の悪いことが起こっても、『今、これでうまくいっていたら痛い目に遭う可能性があるということかもしれない』と、踏みとどまって切り替えられる思考の癖がありました。役者のオーディションで上手くいかなったときも、『ここでもし審査に受かってこの作品に出ていたら調子に乗って、大きな失敗をして一生仕事が来なくなる可能性があったのかもしれないな、もっと経験を積んで、しっかり芝居できるようになってからだ』って」(小堀さん)。
壁にぶつかったとき、次に意識を向ける。何かマイナスなことがあっても、それをプラスに転じて捉えるのが得意な小堀さん。
「病気になって、動けなくなっても生きていくことはできるし、僕の場合は大好きな家庭教師の仕事をしていたから、この仕事ができればこれからも幸せな人生を歩めると思えました。それに、この病気の経験をどうにかして人に伝えなきゃという思いがとにかく強かったですね」(小堀さん)
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リハビリの末に退院し、俳優・家庭教師の仕事を本格的に再開。次回は、病気を経験したからこそ伝えられる、小堀さんの想いや現在の活動について話を伺います。
撮影/日下部真紀
取材・文/遠藤るりこ