子どもが「勉強したくない!」と言い出した!「親が子どもにできること」は何? ベテラン教育者2人が伝授
子どもが「勉強したくない!」と言い出したら親はどうするべきか。約40年のキャリアを持つ軽井沢風越学園の国語教師・甲斐利恵子氏と、小中高生を20年以上教える教育者で作家の鳥羽和久氏が対談。
【写真➡】大人気ポッドキャスト『Teacher Teacher』の“完全無料”フリースクールを見る最近は、子どもの“好き”を尊重するべきという声がよく聞かれます。では「勉強したくない!」と子どもが言い出したら親はそれも良しとすべきなのでしょうか。40年以上の経験を持つ現役国語教師・甲斐利恵子氏と、小中高生を20年以上教える教育者で作家の鳥羽和久氏。長年、教育現場で子どもを見続けてきた2人が考える親ができることとは? 『「学び」がわからなくなったときに読む本』(編著:鳥羽和久氏/あさま社)から再構成してお伝えします。
「好きなことだけやらせたい」への違和感
甲斐 子どもって「何のために勉強するの?」とよく聞いてきますよね。でも、これは問いじゃないよなぁって思うんです。子どもは勉強する意味を聞きたいんじゃない。「勉強、つまらないです」と言いたいだけなんです。
鳥羽 まさにそうだと思います。彼らがすでに勉強と出会い損なってしまっているからこそ発する言葉ですよね。だから、文字通り受け取って正直に答えたところで、子どもの心はますます離れていくでしょうね。
甲斐 そうなんです。これも沖縄の単元のときの話です。ある生徒が「短歌をつくるって意味がわかんない」と言い出しました。つまり「短歌はおもしろくない」と。
それで私は尋ねたんです。「『何のために短歌をつくるのか』という問いには、私もうまく答えられないな。あなたはどんな勉強の仕方だったら、沖縄を自分ごとにできそう?」と聞きました。
そうしたら「戦争を経験した人たちがどんな感情だったか、想像して短歌にするなんて、不遜(ふそん)な気がするんです」なんて言うの。「不遜」という言葉の使い方一つに私は感動しちゃうんですけど。
鳥羽 いやー、すごいことですよ。
甲斐 そのうえで彼は「その人たちの痛みを想像しただけで、自分ごとにしたと思うのはどうなんですか?」と言うんです。私としては「人間の想像力はすごいんだぞ!」と少し反論したいところなんだけれど、でも、その子が納得する方法で沖縄を自分ごとにしてほしい。
そこで「短歌では本気になれないならどうしようか?」と聞いたんです。すると「当時の新聞やメディアがどういう報道をしていたかを知りたい」と。
鳥羽 あぁ、おもしろいな。
甲斐 資料があったら本気でやれそうだと言うから、近所のコンビニで、当時の『沖縄タイムス』をプリントアウトしたり、図書館で沖縄の新聞をコピーしました。「これでどうかしら?」と次の授業で資料を渡したら、本当に嬉しそうだったんです。「ありがとう、りんちゃん(*)」って。
*甲斐さんのニックネーム。風越学園では子どもも大人も呼ばれたい名前で呼び合う。
鳥羽 彼は本物の探究者ですね。そして、甲斐さんがしっかり学びの環境をつくっているのが素晴らしい。
甲斐 いえ、でも、彼が「短歌は好きではない。おもしろくない。これではやりたくない」と表明したときに、伝えたいことはいっぱいあったのですが、言わずに「どうしたい?」と聞けたことはよかったかなと思います。
彼は、この学習全部をやりたくないと言っているのではなく、アプローチの仕方を変えれば自分はやれると言っているわけです。環境を整えてあげて、子ども自身がやりたいことに打ち込めるのが大事だと思えたのは、それまでの自分にはないことでした。これは単なる「好き・嫌い」のレベルの話ではないのだろうなと。
鳥羽 そうですね。「好き・嫌い」のレベルの話ではないということ、僕もそれは強調しておきたいです。
いまは、「うちの子には好きなことしかやらせません」という子どもに理解があるふうの親が増えています。でも、好き・嫌いレベルの解像度では、やりたいことなんてわからないに決まっています。大人だって自分が好きだと思ってることのなかには、嫌いなこと、めんどくさいことも混じっているはずなんですよ。
あらゆる行為には快と不快が混じっているという考え方が精神分析の基本的な知見です。親は、そのことを人生の実感として知っているはずなのに、子どものことになると「好きなことだけやらせる」と雑な話にしてしまう。
甲斐 大人は感覚的にわかっているからいいですけど、子どもはまだわからないですからね。幼いうちは言葉も溜まっていないので、「好きじゃないから、やりたくない!」と拒絶するのは普通です。
でも、抽象的な思考ができるようになり、ものごとに深く入り込むことができる中学生くらいの子は、きっと好き・嫌いだけで自分の行動を決めちゃいけないなと、わかっているのではないでしょうか。
では、やりたいことを見つけるにはどうすればいいか。それは、「乗っかってみる力」がすごく大事だと、私は思っています。自分がおもしろくなさそうだなと思うことでも、おもしろがってる人がいるということは、どこかに取っ掛かりがある。本気になって一緒にやってみて、おもしろがれたら、ラッキー。
「どうしてもおもしろがれない……」となっても、そのとき初めて「自分は他のことができます」「これだったらやってみたいです」という発見にもつながる。そうなったらもう全力で応援しますよ。
鳥羽 子どもが飛び込んでみることのできる環境は大事です。好きか嫌いかもわからないままに飛び込んでみる。最初は苦しくても、花火がパーンと打ち上がるように突然「好き!」がやってくることがある。でも、そういった苦しみのなかでしか味わえない、かけがえのない瞬間的な喜びを捨象して(捨て置いて)、大人は「好き・嫌い」だけの判断で子どもに伝えてしまうことがありますね。
甲斐 最近も、中2の男の子が「りんちゃん、俺ずっとラクなほうを選んできたんだよ。でもラクな毎日はつまらないと気づいた。きっと苦しいから、楽しいんだよね」なんて言ってきたんです。
鳥羽 すごいなぁ。本質に触れるチャンスが多いと、そういう言葉が自然に出てきてしまうんでしょうね。
「乗っかってみると、最初は苦しくても花火がパーンと打ち上がるように突然『好き!』がやってくることがある」という甲斐氏の言葉は子どもはもちろん、大人にも当てはまりそうです。 イメージ写真:アフロ
未知の体験をして言葉にならず「わからない!」と悩み苦しむとき。それこそが学んでいる時間で、その後に生まれる言葉がすごいと甲斐氏は言います。
親が子どもにできるたった一つのこと
鳥羽 僕も、不安になった親から「子どもを勉強モードにするにはどうしたらいいですか?」と聞かれることがあるんですが、やはり難しいですね。勉強に向かうスイッチを入れてあげられるのは、先生であり、教室なんです。残念ながら、多くの親はスイッチを押す才能に恵まれていない。
甲斐 確かに、親の一言で子どもが劇的に変わることは、あまりないように思います。その代わり、親にしかできない最も重要なことがあります。それは、そばにいてあげること。
鳥羽さんの本にもありましたが、「その子を変えよう」「能力を伸ばしてやろう」と思わずに、「あなたはあなたのままでいいんだよ」と言ってあげる。「がんばれ!」「集中して!」と、子どものやる気を管理するんじゃなくて、寄り添ってあげる。これは、ご家族にしかできないことです。
鳥羽 本当にそう思います。親がいちばん気をつけるべきなのは、子どもの管理者にならないことでしょう。親が管理者になってしまうことは、子どもが家庭という安心して休むことができる居場所を失うことを意味します。
そうすると、いつの間にか子どもは窒息しておかしくなってしまう。でも、「勉強しないと、ちょっと私のほうが心配になるんだけど」と、時に自身の感情をそのまま子どもに伝えるのは、決して悪いことではありません。
甲斐 「自分の心配」を「子どもが心配」に置き換えてしまうお母さんお父さんはいますね。それも、無意識のうちに。
鳥羽 そうそう。「このままではこの子が心配なんですよ」と言っても、その実、自分が心配しているだけ。親に必要なのは、自身の不安を、子どものせいにするのではなく、自身の問題として問い直してみることです。
「この子、家で全然勉強しないんです」という相談を受けることもあるんですが、それは家庭が機能している証拠だからあまり心配しなくていい。これは大村はま(*)も言っていますが、家庭は本来勉強するところじゃないんです。
*大村はま=甲斐利恵子氏が私淑する国語教師、国語教育研究家。1906年生まれ。1928年から国語科教師として働き、後に「単元学習」と呼ばれる指導法を自ら考案、実践した。主著に『教えるということ』『大村はま 国語教室』全15巻(筑摩書房)。2005年歿。
親と子どもが、一緒にご飯を食べて「おいしいね」と言い合える、家庭はそういう安心できる場所であればいいんです。
切羽詰まった受験生の親に、「私は、あの子のために何したらいいですか」と聞かれても、「一緒においしいご飯を食べたらいいんじゃないですか」としか言えないですよ。
僕は、塾で教えている人間だから葛藤しながらも宿題を出すけど、家で勉強するというのは家庭の役割と矛盾しているところがある。宿題を出す立場の人たちは、その矛盾に自覚的になる必要があります。
鳥羽氏の新刊『学びがわからなくなったときに読む本』(あさま社)では、本来の「学び」とは何かを、最前線の「学び手」7人から探った。
子どもは「感謝しない生きもの」だから尊い
甲斐 風越学園では卒業する9年生になっても、将来の夢を書かせたりしないんです。
鳥羽 それは素晴らしいことですね。
甲斐 子どもたちには将来のことを気にせず、いまやりたいことを精いっぱいやってもらいたい。そこで見えてきたものをちゃんと言葉にしながら、自分のやりたいことを親に伝えて納得してもらう。その先にしか、進路は見えてこないんじゃないかと思うんです。
鳥羽 そのとおりだと思います。僕は、「二分の一成人式」が大嫌いなんですよ。将来の夢や、親への感謝を書かせて発表させるでしょう。でも、子どもは感謝しない生きものだから尊いと、僕は思ってるんですね。
なぜかというと、彼らは「いま」を生きているから。感謝は「過去─現在─未来」という時間性を意識したところに初めて生じる感情です。だから、夢や感謝の気持ちを持たせるのは、「いま・ここ」を生きている子どもたちの思考と矛盾するんですよ。向いてないことを無理やりやらせても、うまく立ち回る姑息さが身につくだけです。
「将来の夢があります」という小学生って、僕はちょっと疑っちゃうんです。「お医者さんになりたい」って、自分の欲望じゃなくて親や親族の欲望を受け取ってしまってるやん、みたいに思ってしまうこともある。その構図が地獄絵のように見えることもあります。
ちなみに僕は子どもの頃、将来の夢はありませんでした。甲斐さんはどうでしたか?
甲斐 この流れで言い出しにくいんですけど……私は、物心ついたときから「うちゃ、先生なるばい!」と言っていたんです。
鳥羽 あら、そうですか。やっぱり甲斐さんは奇特な方ですね。本当に稀(まれ)にいるんですよね、そういう人が。
甲斐 先生になりたいと思ったのは、4歳頃。それも兄の影響でした。歳の離れた兄が私を相手に先生ごっこをしていて、私も先生に憧れてしまった。私はめでたい人間なので、将来については一度も迷ったことがありません。ずっと先生になりたかった。
自分は、たまたまそう願って本当になれたけど、子どもたちには「将来の夢をいま決めなくたって楽しい人生は送れるよ」と伝えています。
鳥羽 それに関連して言えば、僕は「自分を知る、自分になる(*)」という言葉をよく使うんです。
*=鳥羽和久『親子の手帖』(鳥影社)より。
「自分になる」というのは実は難しい。「自分にならない」ように努めて生きてる人が多いようにさえ、僕には見えます。
「自分にならない」というのは、まず、自分の欲望に従って生きないということ。人間の不自由の形式は、大きく分けて二つあると思います。一つ目には、国家などの大きな権力の抑圧による不自由ですね。そしてもう一つは、他者の欲望で生きてしまう不自由です。
これは、親をはじめとする他者の欲望に、自分が乗っ取られるということです。これが、親と自分の欲望の境界がわからなくなり、子どもが親の夢を自分の夢として語ることにあたります。
甲斐 子どもは、親を喜ばせるために、親の希望を敏感に感じ取りますからね。そういうケースはよくあるだろうと思います。
鳥羽 そうなんですよね。一つ目の不自由はある意味ではわかりやすいのですが、二つ目の不自由は自分では認識しづらい。その不自由さがその人のデフォルトの設定になってしまっていますからね。だから、若い人たちにその不自由さから抜け出すレジスタンスを呼びかけることが、近著(*)で僕がやろうとしたことでした。
*近著=『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)。
数式や化学式が将来なんの役に立つんだって、よく言うじゃないですか。確かに大人になって、生活や仕事で平方根とかイオン式を使う機会は少ない人が多い。でも、それは役に立っていないんじゃなくて、役に立ってるかどうかわからないというだけです。
自分の感度というか、世界への解像度が低いだけ。僕はやっぱり勉強したことは、きっとどこかで役に立ってると思うんです。
●鳥羽和久(とば・かずひさ)PROFILE
教育者・作家。1976年福岡県生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中の2002年に学習塾を開業。現在は、株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、学習塾「唐人町寺子屋」塾長、単位制高校「航空高校唐人町」校長、「オルタナティブスクールTERA」代表。著書多数。朝日新聞EduA教育相談員。
●甲斐利恵子(かい・りえこ)PROFILE
国語教師。福岡県生まれ。軽井沢風越学園スタッフ。東京都港区立赤坂中学など公立中学で38年間国語科の教員を経て、2021年に軽井沢風越学園に参画。光村図書中学校『国語』教科書編集委員などを歴任。著書に『国語授業づくりの基礎・基本 学びに向かう力を育む学習環境づくり』(共著・東洋館出版社)など。
*軽井沢風越学園=2020年に長野県軽井沢町に開校した幼稚園、小・中学校。3歳から15歳までの12年間の連続性を大切にしたカリキュラムを実施。異年齢での学びや、プロジェクト学習を中心に据えた学習などで、一人ひとりの「自分をつくる」と「自分でつくる」時間を積み重ねている。
今の『学び』という言葉はどこか胡散臭いと感じた鳥羽和久氏が、最前線で活躍する教育者や学者、医師などの学び手7人と対話した『「学び」がわからなくなったときに読む本』(あさま社)