MET(メトロポリタン歌劇場)総裁ピーター・ゲルブ氏、「METライブビューイング 2025-26」を語る
「METライブビューイング2025-26」の新シーズンがスタート、最初の演目であるベッリーニ《夢遊病の娘》は、ライジング・スター、ネイディーン・シエラとシャビエール・アンドゥアーガのゴールデン・コンビによるエキサイティングな歌唱で、話題を呼んだ。
続く第二弾の上映は2025年12月12日(金)より、プッチーニ《ラ・ボエーム》。貧しくても明日を夢見る若い芸術家たちの希望と挫折。だれもの心に残る青春の1ページを、甘美な音楽で描く永遠の定番オペラに、初出演の女性指揮者K=L・ウィルソンが命を吹き込む。19世紀のパリを運んできたようなF・ゼフィレッリのリアルで緻密な舞台に、ミミの清純さと危うさを見事に描くJ・グリゴリアンと、輝かしい声でロドルフォの若さを表すF・デ・トマーゾというこれ以上ない配役で聴かせる。
2006年にスタートしたMETライブビューイングも来年(2026年)で20年という節目を迎える。現在のニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)の状況と将来への展望について、総裁のピーター・ゲルブ氏に話をきいた。
――近年のMETは、斬新な演出家を次々と起用し、ヨーロッパで活躍し始めた話題の若手歌手をいち早く起用して、歌劇場全体が活気に満ちています。聴衆もここ10年ほどで大きく変化したのではないでしょうか?
確かに劇的に変わりました。若い聴衆が増え、多様性のある聴衆が増えた。そういう人たちに向けた企画が大成功しているのだと思います。でも芸術を企画するのは、リスクだらけ。成功に導くよう努力はするけれどギャランティーはないのです。
若い歌手については、いま若く素晴らしいアーティストたちが、波のように登場している。これはとても幸運なことです。私も同僚たちも、常に新しい才能を見つけようと努力しています。先日スタートしたMETライブビューイングの《夢遊病の娘》でも、シエラとアンドゥアーガ歌う舞台は、最高のベルカント公演だと思います。二人の歌を聴いていると、まさにオペラの新たな黄金時代の到来だと思いました。じつは企画したのは4,5年前のこと。二人が最高の歌が歌えるかどうか、未知のことでしたから、まさに幸運でした。
――今期のMETライブビューイングのラインナップは素晴らしい。なかでもゲルブさんお薦めの演目は?
どの演目でも、最強のアーティストを、というのを意識しています。ベルカント好きには《夢遊病の娘》と《清教徒》で、後者はリゼット・オロペーサが歌います。ヴェリズモ好きにはベチャワとヨンチェヴァが歌う《アンドレア・シェニエ》でしょう。ワーグナー好きには、過去3,40年で現れた最高のワーグナー・ソプラノ、リーゼ・ダーヴィドセンを是非聴いていただきたい。ロシアのレパートリーなら、アスミック・グリゴリアンがタチアナを歌う《エフゲニ・オネーギン》はマストでしょう。《ラ・ボエーム》は皆さまお馴染みの演目でしょうが、今回のキャストは本当に素晴らしい。ミミは、アスミックとは親戚ではないジュリアナ・グリゴリアン、弱冠20代の素晴らしい新星ソプラノです。テノールは、いま話題のフレディ・デ・トマーゾですから、プッチーニ好きには見逃せません。
――指揮は、奥様のケリー=リン・ウィルソン。METライブビューイングは、初登場です。
ますます、素晴らしいでしょう?(笑) 私の家内だからピットに入るというのではなく、オーケストラの人たちも、彼女との仕事を楽しんでいます。METでは《スペードの女王》や《ムツェンスク郡のマクベス夫人》も指揮しています。他の演目では、オットー・シェンクの伝統的な演出による《アラベッラ》、そして《フリーダとディエゴ 最後の夢》は、大成功を迎えるのでは、と期待しています。ガブリエラ・リーナ・フランクという新鋭の作曲家の新作です。想像もつかないシュールな作品で、メキシコの死人の日という、亡くなった方が1日だけ地上に戻ってくるという日。フリーダももう亡くなっているのですが、元パートナーのディエゴ・リベラに会いに来る。ある意味では《オルフェオとエウリチーチェ》の逆バージョンで、彼女は彼を未知の世界へと連れ帰る。死人ばかり出てくるオペラですが、最後はハッピーエンドなのですよ。
――ゲルブさんは来年就任20年を迎えられる。2030年までの任期延長も発表されましたが、今後5年間の展望をお聞かせ下さい。
これまで取り組んできた最も重要な2点を続けていくつもりです。1つは音楽監督のヤニック・ネゼ=セガンと共に芸術的に最高レベルを目標に前進する。そして新しいレパートリーを増やすこと。もちろん過去のものを大事にしながらですが。もう一つは、世界で最も大きな予算をかかえているMETの財政問題を改善していくこと。METは政府からの予算補助が殆どないので、どうやって改善するか、その糸口を探っていきたいです。
――ゲルブさんはこれまで多くの財政危機を乗りこえられてきた。アメリカの金融危機やパンデミック、いまはトランプ危機?も。
確かにいろいろな危機を経験してきました。いま我々が生きている世界は、決して安易な状況ではありません。アメリカ社会もどんどん変化しています。チャレンジングで困難な時期です。こんな時だからこそ、METをもっと成功させなければいけない。古代ギリシャの時代から芸術は社会の中で大きな役割を担っています。オペラは全ての芸術様式が詰まっているもの。こういう時代だからこそ、芸術が必要なのだと考えています。
―― 財政問題は世界中の歌劇場で最重要課題です。METは、2028年からサウジアラビアでの公演を8年間にわたり実施するという発表がありました。
数年間サウジアラビアの文化庁と話し合ってきたことですが、2028年2月、首都リアドに新しいオペラハウス(リアド郊外の古代ディルイーヤ地区に2000席のオペラハウスを建設中)が出来るので、我々にヴィジティング・レジデンス(アーティスト・イン・レジデンス)になって欲しいということです。
8年間のうち、最初の3年間ほどはインフラのアシスタントをする。裏方さんの教育プログラムや歌手のトレーニングなどのサポートが中心。いまサウジでは文化やスポーツの振興に力を入れています。これまでは国民を制圧するなど問題のある国でしたが、そういう進化をしている。国へのコラボレーション、文化交流はとても重要なことだと思います。
――今後の大きなプロジェクトとして、ワーグナー四部作《指環》の新制作もあります。
2028年の春からスタートします。これからプロジェクト・チームが基本的な案をプレゼンテーションする予定なので、どうなるかまだ分かりません。でもコンセプトとしては、普遍的な時を超えたプロダクションになるでしょう。キャスティングでは、リーゼ・ダーヴィドセンが初めてブリュンヒルデを歌い、若く素晴らしいバス・バリトンのライアン・スピード・グリーンがヴォータンを歌います。彼はちょうどいま、《ドン・ジョヴァンニ》をMETで歌っているのですが。私にとって最も重要なことは、《指環》であろうが《ラ・ボエーム》であろうが、ストーリーテリングに説得力があり、明確で聴衆が共感できることが重要です。そういう演出家が私は好きなのです。プロダクションが完成するのを楽しみにしています。
取材・文=石戸谷結子(音楽ジャーナリスト)