はっぴいえんど再結成!80年代のロックフェス「ALL TOGETHER NOW」変わりゆく音楽シーン
国立競技場で行われた初めての音楽イベント「ALL TOGETHER NOW」
納戸を占拠している昔のファイル類をひっくり返していたら、『ALL TOGETHER NOW』の際に配られた報道資料が出てきた。意外と振り返られることは少ないけれど、このイベントは、80年代におけるひとつのエポックと呼ぶにふさわしいものだったと思う。資料を読み返しながら、改めて振り返ってみたくなった。
『ALL TOGETHER NOW』は、1985年6月15日(土)に東京の国立競技場で、100名を越える人気アーティストが参加して開催されたビッグイベントであり、国立競技場で行われた初めての音楽イベントでもあった。開催の趣旨としては、1985年が国連が提唱した国際青年年となることを記念して、“参加” “開発” “平和” というそのスローガンを広く伝えるために、当時のニューミュージック系アーティストに呼びかけ、“心の交流” を体現したもの、と掲げられている。
主催は日本民間放送連盟・音声放送委員会と国際青年の年推進協議会、後援も国際青年年事業推進会議、総務庁、文部省、労働省、郵政省とお堅いお役所が連なっている。この仰々しい主催・後援クレジットを見ると、このイベントが、それまでの野外フェスなどとは異質な性格を持っていたんだなと改めて思う。
大きな転機を迎えていた音楽シーンと政治の関係
1985年の音楽シーンは大きな転機を迎えていた。70年代、フォーク、ロック、ニューミュージックと呼ばれた音楽は、歌謡曲とは一線を画したアウトサイダーカルチャーとして流れを作ってきた。しかし、80年代に入って音楽ビジネス自体がメジャーなものになっていくとともに、自分の立ち位置にこだわりを持たない新しい世代も台頭してきた。それによって、ニューミュージックはアウトサイダーカルチャーというポジションを希薄なものにしつつあった。
大きな変化が起きていたのは音楽の世界だけではなかった。政治の世界でも、良くも悪くもエネルギッシュに70年代の日本を引っ張ってきた田中角栄が病に倒れて影響力を失い、この時に内閣を率いていたのは「不沈空母発言」などで物議を醸していた中曽根康弘だった。
今でこそ、音楽と政治との距離は遠くなっているように見えるけれど、少なくともこの時代の音楽には、社会に対する意思表示という要素は、現在よりはるかに色濃いものだった。それだけ音楽が重要なカルチャーとして認知されていた。だからこそ、この微妙な時期に開催された『ALL TOGETHER NOW』に対して、音楽を利用して若者層を取り込もうとする政治の思惑を感じる… という受け取り方があったのも無理はないと思う。事実、出演依頼を受けても、趣旨がよく見えないと断るアーティストもいたという。
錚々たる出演者、ブッキングの主体はラジオ局スタッフ
最終的に出演者は以下の面々となった。
アルフィー、アン・ルイス、イルカ、オフコース、加藤和彦、後藤次利、坂本龍一、財津和夫(チューリップ)、サザンオールスターズ、さだまさし、佐野元春 with THE HEARTLAND、白井貴子、高中正義、高橋幸宏、武田鉄矢、はっぴいえんど(大滝詠一、鈴木茂、細野晴臣、松本隆)、ブレッド&バター、松任谷由実、南こうせつ、山下久美子、吉田拓郎、ラッツ&スター、ほか(あいうえお順)。この他にもチェッカーズなど、クレジット無しの出演者もいた。
これだけの出演者を確保するための大きな力となったのが、主催となった日本民間放送連盟・音声放送委員会、すなわちラジオ局のスタッフだった。
彼らは、番組を通じてコネクションのあったアーティスト達に精力的に参加を呼びかけた。実際、参加を躊躇していたアーティストのなかにも、70年代のフォーク、ロックからニューミュージックという流れを支えてきてくれたラジオ局へのシンパシーによって出演を決めたアーティストも多かったということを聴いたことがある。
注目はなんといっても、はっぴいえんどの再結成!
おそらく、もうひとつの後押しになったのが、この時期に海外で広がっていた、音楽の力を信じさせる動きだった。
1984年12月、アフリカの飢餓に対するチャリティユニットとしてアイルランドとイギリスのミュージシャンが結成したバンド・エイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」が発表された。さらに翌85年3月には、マイケル・ジャクソン、ボブ・ディランら、多くのトップアーティストが参加したUSAフォー・アフリカのチャリティソング「ウィ・アー・ザ・ワールド」が発売され、世界的な話題を呼んだ。こうした動きは、日本のアーティストたちにとっても、音楽になにが出来るかを考えるための刺激となったのではないだろうか。
例えば、『ALL TOGETHER NOW』開催直前の6月1日に、イベントに出演する松任谷由実、小田和正、財津和夫が共作し、レコード会社の枠を超えて共演したシングル「今だから」がリリースされヒットしている。これはチャリティソングではないが、アーティストが既成の壁を越えて活動する可能性を示す作品ではあった。
僕自身も、このイベントにまつわる諸々の事情があることは薄っすら感じてはいた。しかし、僕にとっての『ALL TOGETHER NOW』は、なんといっても、はっぴいえんどの再結成を観るためのイベントだった。1973年に解散し、その後もそれぞれ日本の音楽史の新しいページを切り拓いていったメンバーが12年振りに再結集する。たとえ、それが幻であっても、その瞬間はとにかく見届けないわけにはいかない。そう思っていた。
国立競技場に集まった6万人超の観衆
1985年6月15日、曇り空だったが雨の心配はなく、国立競技場には6万人を超える人が集まっていた。会場のレイアウトもユニーク。その後の国立競技場コンサートでは、正面席にステージが作られることが多く、客席はフィールド内にも設けられるが、この日はフィールドには一切客席は作られていなかった。そのかわり客席は全面的に解放され、本来の競技観戦のように満員の観客がフィールドを囲んでいた。
フィールド内には8つの円形ステージが、ぐるりと円を描くように配置されていた。ひとつのステージは直径10.8メートル。それぞれのステージにはアンプや楽器がセッティングされた状態になっていて、ブロックごとに8つの円形ステージが演奏時に交代でセンターに移動するのだ。これによって、セット替えの時間を節約して、限られた時間で多くのアーティストが演奏できる。この大がかりな仕掛けのために、投入される機材料は膨大なものだった。
配られた資料によれば、使用されたマイクは350本、コードの長さは5000メートル。使用スピーカー854ユニット、アンプ266台。PA用メインコンソール17台、録音用コンソール14台、電源車13台、音響用スタッフのべ400人、大道具関係670人が投入され、スタッフ用弁当も5000食用意されたという。
はっぴいえんどオリジナルメンバーによる最後のステージ
開演は午後4時。聖火台の下でファンファーレが演奏され、イベントがスタート。司会役の吉田拓郎が登場して開会を宣言。最初のステージは吉田拓郎とオフコースの共演。オフコースのバックで吉田拓郎が「お前が欲しいだけ」を歌い、オフコースの「Yes・No」では吉田拓郎がコーラスに参加した。
2番目のステージはアルフィー。「星空のディスタンス」の演奏中、坂崎幸之助がトラックを一周するパフォーマンスを見せる。ラッツ&スター、アン・ルイス、山下久美子、白井貴子が共演するステージに続き、武田鉄矢が会場をなごませるラジオ体操の時間。「贈る言葉」を聴かせたり、客席全体の三三七拍子をリードするなど、会場の空気をほぐして続くステージにつなぐ。
財津和夫とブレッド&バターのステージにはチェッカーズとつのだ☆ひろが飛び入りして、世代を超えたコラボレーションを展開。さらに南こうせつ、イルカ、さだまさしの共演に続いてはっぴいえんどが登場した。
「12月の雨の日」から始まるステージは30分弱と短いものだったが、ベテランらしく存在感あふれる演奏は見事なものだった。そして、これが名実ともにオリジナルメンバーによる最後のはっぴいえんどの演奏となった。ちなみにこの時の演奏はライヴアルバム『THE HAPPY END』としてリリースされている。
はっぴいえんどに続いて登場したのは、やはりこの日の目玉のひとつとして再結成されたサディスティック・ミカ・バンドならぬサディスティック・ユーミン・バンド。ボーカルの松任谷由実に加えて、キーボードで坂本龍一が参加していた。さらにこのユニットで演奏された「今だから」では小田和正、財津和夫も登場し、歌声を聴かせた。
『ALL TOGETHER NOW』最後の出演者として登場したのは佐野元春 with THE HEARTLAND、そしてサザンオールスターズ。時代をリードするトップアーティストならではの圧倒的な演奏でイベントのトリを務めあげた。そしてエンディングにはイベントテーマ曲「ALL TOGETHER NOW」(作詞:小田和正、作曲:吉田拓郎)が演奏され、4時間半に及ぶイベントは幕を閉じた。
音楽シーンの流れを時間軸で捉えてみせた「ALL TOGETHER NOW」
資料を見返しながら、あの日の気分を思い出してきた。それはけっして熱狂的ライヴという感じではなかった。しかし、アーティストたちがコラボレーションしながら作り出していった空気感には、どこか陽だまりのような暖かさが感じられた。
それまでの時代を作ってきたアーティスト、まさに今を作っているアーティスト、そしてこれからの時代に羽ばたいていこうとするアーティストが同じ場を共有して、ひとつの世界を繋いでいく。そこには、アーティストからアーティストへと受け渡されていくものが確かにあったと思う。
今振り返れば、あのイベントが時代の変わり目を象徴していたんだということもわかる。後に細野晴臣がこのイベントを「ニューミュージックの葬式」と評したそうだけれど、誤解を招きかねない言い方かもしれないが、僕もその見方に同意する。
『ALL TOGETHER NOW』は、フォーク、ロックと呼ばれていた音楽がニューミュージックとなり、さらにJ-POPへと変わっていく。そんな音楽シーンの流れを時間軸で捉えてみせたイベントだった。そこに時代の変化によって失われてゆくものを見るのは不自然なことではない。しかし、決して過去にノスタルジックな目を向けるだけではなく、ひとつの時代を作ったアーティストが今をどう生きているのか、という視点でシーンを観ていく必要もある… ということを示唆するイベントでもあったのだと思う。
さらに余談になるけれど、『ALL TOGETHER NOW』の資料を見直し、ライオン株式会社が協賛企業だったことにも興味がそそられた。ライオンといえば、1966年のザ・ビートルズ来日公演(6月30日〜7月2日)の協賛企業(当時はライオン油脂とライオン歯磨)でもあった。偶然かも知れないけれど、複数の時代のエポックを飾るイベントに係った企業は、いったい何を考えていたのだろう。そんなことも、面白いテーマになるかもしれないなどと思う。
*2018年6月14日、15日に初出された前・後編の記事を一本化しアップデート