岡山県倉敷市児島にある国指定重要文化財「旧野﨑家住宅」。製塩業で財をなした「塩田王」野﨑武左衛門が江戸時代に建てた大邸宅
江戸時代に「塩田王」と呼ばれた野﨑武左衛門の邸宅
岡山県倉敷市は「白壁の町」として知られる倉敷美観地区が人気の観光地だ。倉敷市には国指定重要文化財になっている屋敷が4軒ある。そのうち3軒は、倉敷美観地区周辺に所在する旧大原家住宅・井上家住宅・大橋家住宅だ。残る1軒が、児島地区にある旧野﨑家住宅である。
児島地区は倉敷市の南東部に位置し、かつて児島市という単独の市であった。しかし1967年(昭和42年)に旧倉敷市・玉島市と合併し、現在の倉敷市を新設。同市の児島地区になった。児島地区は古くから繊維業が盛んで、近現代では学生服や作業服の産地になり、国産ジーンズ発祥の地としても知られる。また、瀬戸大橋の本州側の起点でもある。
そんな児島地区は、江戸時代より製塩業でも栄えた土地であった。「児島で製塩業を行い、『塩田王』と呼ばれるほど財をなした野﨑 武左衛門(のざき ぶざえもん)が、邸宅として建てたのが旧野﨑家住宅です。旧野﨑家住宅を見れば、児島における製塩の歴史と野﨑家のことが分かります」と語るのは、旧野﨑家住宅を管理する公益財団法人 竜王会館の事務長・学芸員の辻 則之(つじ のりゆき)さん。
辻事務長に児島の製塩業と野﨑家の関係、旧野﨑家住宅の特徴などについて話を聞いた。
江戸時代から始まった児島の製塩業の歴史
瀬戸内海沿岸は温暖少雨で風が穏やか、台風などの災害も少なく、潮の干満差が大きいことから、製塩に適した地域であった。そのため瀬戸内海沿岸各地で古くから製塩が行われており、児島でも製塩は行われていた。「武左衛門が製塩を始めたのは、江戸時代後期。実は武左衛門は、製塩業において後発だったのです」と辻事務長は話す。
野﨑家は、もともと「昆陽野(こやの)」という姓だった。備前国児島郡味野(あじの)村(現在の倉敷市児島中心部にあたる味野地区)で庄屋を務め、同時にさまざまな商売を行っていた。武左衛門の父は製塩業を試みたが失敗し、一度野﨑家は衰退する。武左衛門は児島周辺が綿花栽培が盛んなことにより、繊維産業が隆盛になってきたことに目を付け、足袋の製造・販売業を始めた。18歳のときである。そして西日本を中心に足袋を売り歩き、成功を収める。
「当時、足袋の営業は掛け売りがメインだったことから、資金繰りの問題がありました。武左衛門が38歳のとき、それを解決すべく新たな事業を考えます。事業案は3案。足袋事業の大坂出店、新田での農業経営、児島の海を干拓しての製塩業でした。そして武左衛門は製塩業を選択。周囲の人は、ほとんど反対したといいます。武左衛門は足袋の行商で訪れた各地で塩田の様子を見て、製塩業を興そうと考えたのではないでしょうか」
当時の製塩には、多くの人手が必要だったいう。そのため地元の雇用や、地元経済の活性化まで考えていたと思われる。武左衛門の商才と視野の広さに驚かされるばかりだ。しかも武左衛門が製塩業の開始を決めた38歳は、当時の平均寿命に近い年齢。引退してもいい年齢でありながら、新たな事業に進出する挑戦心にも驚かされる。
武左衛門は足袋の事業で築いた資産が、現在の金額で約1億2千万円ほどあったとされる。その資産を投入し、1827年(文政10年)から味野村と隣の赤崎村にまたがる入江を干拓。約460人を動員し、約1年半の歳月をかけて塩田を開発し、製塩業を開始する。塩田は約48haに及び、「野崎浜」と呼ばれた。野崎浜は味野・赤崎から一字ずつ取ったもの。武左衛門はこのころから昆陽野姓を改め、野崎浜にちなんだ「野﨑」の姓を名乗りだしたとされている。
当時、製塩業では塩田を浜主(はまぬし、塩田の地主)が保有した。浜主は、浜子(はまこ)と呼ばれる複数の製塩作業者に、塩田を区分して貸し与え、作業にあたらせたという。これは赤穂(現 兵庫県赤穂市)をはじめとした、多くの塩田で行われていた方式だった。
「武左衛門は、野﨑浜の浜主になりました。そして野﨑浜の塩田を区分して、地元の浜子たちに貸し与えたのですが、赤穂など他地域の塩田とは異なる方式で運営にあたったのです。他地域では浜子は自由に製塩を行える分、天候などで製塩が不作だったり、品質が悪かったりして損害を被るリスクがありました。また新しい塩田は、安定して塩が製造できるようになるまで時間がかかるリスクもあったのです」
「そこで武左衛門は、浜子と浜主の野﨑家で損益を折半することにしたのです。利益が出ても、損失が出ても折半します。そのため武左衛門は製塩のノウハウを浜子たちに指示でき、効率的な製塩を行えます。浜子は製塩の自由度が下がる分、悪天候などによる不作・品質低下による損失を軽減できるメリットがあったのです。今でいうWIN-WINのシステムでした」
武左衛門の方式は『当作歩方制(とうさく ぶかたせい)』と呼ばれる。ほかの塩田ではほとんど行われなかった野﨑家オリジナルの方式とされ、非常に画期的だといえるだろう。現代の企業運営にも通じるやり方といえる。実際に武左衛門の塩田は、生産効率が非常に良かったという。「当作歩方制は、野﨑家が製塩業で成功した重要なポイントといえるでしょう」と辻事務長。
その後も武左衛門は積極的に干拓をして塩田を開発し、製塩業を拡大していく。児島郡を中心に、邑久郡などでも塩田を開発した。特に、1841年(天保12年)に児島郡山田村(現 玉野市山田)沖を干拓して完成した塩田は、約74haに及ぶ広大なもの。1863年(文久3年)には、隣の胸上村(現 玉野市胸上)沖にも約20haも完成。山田沖・胸上沖の塩田を合わせて「東野崎浜」と呼ばれた。これに対し、最初にできた野﨑浜を「元野﨑浜」とも呼ぶ。野﨑家は、最大で約161haの塩田を所有したという。これは東京ドーム34個分の広さだ。
建物・庭園が創建時に近い状況で残された旧野﨑家住宅
武左衛門は製塩業を始めると、同時に自身の邸宅の築造にも力を入れていく。1833年(天保4年)ごろに主屋(中屋敷)が完成する。邸宅は野﨑家の住まいであるとともに、一部は製塩業の事務所となり、番頭らが勤務した。さらに1838年(天保9年)に長屋門・御成門、1852年(嘉永5年)に表書院が完成した。邸宅の築造を開始して現在の姿になるまで、約20年かかっているという。
1864年(元治元年)の武左衛門の死後、野﨑家の製塩業を継いだ孫の野﨑 武吉郎(のざき ぶきろう)は、1890年(明治23年)に岡山県選出の初代貴族院議員になる。これを機に野﨑家は東京に居を移した。野﨑家住宅は製塩業の事務所機能はそのままで、居宅部分は客人の迎賓館として使用される。
辻事務長「その後も旧野﨑家住宅は、良好な状態で残されました。1970年(昭和45年)に財団法人 竜王会館(現 公益財団法人 竜王会館)が設立され、野﨑家より野﨑家住宅が寄贈されます。以降、竜王会館が野﨑家を管理しているのです」
1977年(昭和52年)、建物や庭園が創建時に近い状況で現存されている邸宅は極めて貴重であるとして、岡山県指定史跡になる。さらに1987年(昭和62年)には、旧野﨑家住宅の一般公開を開始した。1995年(平成7年)には、野﨑家塩業歴史館として博物館登録される。
そして2006年(平成18年)、敷地内の12の建造物を対象に旧野﨑家住宅が国の重要文化財に指定されたのである。また、2017年(平成29年)に日本遺産「一輪の綿花から始まる倉敷物語」、翌2018年(平成30年)には同じく日本遺産の「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間」の構成文化財に認定された。
旧野﨑家住宅の敷地面積は約3000坪、建物の延床面積は約1000坪に及ぶ。非常に広大な敷地にいくつもの見どころがある。その中でも注目のポイントは、 以下のとおりだ。
● 御成門・長屋門
● 表書院
● 庭園
● 主屋(中座敷)
● 石垣
● 土蔵群(展示館)
旧野﨑家住宅の見どころ
【御成門・長屋門】
長屋門(ながやもん)は旧野﨑家住宅の入口にある門で、訪れた際に必ず通る門だ。御成門(おなりもん)は長屋門の向かって左側に続いて設けられている。貴賓の出入口とされ、表書院へと通じており、普段は閉ざされている。御成門・長屋門は1838年(天保9年)に築造され、江戸時代の大庄屋建築の中でも特に荘厳であるという。
長屋門は7段の石段と石垣の上に建っており、桁行は24mもある。当時は休憩所や簡易宿泊所として使用された。現在は、受付などがある。
【表書院】
長屋門をくぐり、左手に進むと壮大な表書院(おもてしょいん)と庭園が飛び込んでくる。表書院は、貴賓の応接をする建物。旧野﨑家住宅の中核をなすものである。約1年半の期間をかけて建設され、1852年(嘉永5年)に完成した。上の間・下の間・茶室などから構成される。現在、内部への一般の立ち入りはできない。
【庭園】
表書院の南東には、美しい庭園が広がっている。枯山水(かれさんすい)の庭園で、表書院に通された貴賓を楽しませた。庭園にはクロマツやヒノキ、ソテツなどが植えられているほか、春にはサツキの花が見ごろを迎え、美しい景観が楽しめる。庭園の奥には築山が設けられ、岡山市沖の犬島で取れた犬島石を用いた蓬莱石組がある。これは枯滝を表現しているという。
辻事務長「表書院の庭園は、岡山市の岡山後楽園をモチーフにしているとされています。クロマツ・ソテツ・サツキなどが植えられている点、築山が設けられている点など、後楽園と共通点が多いです。武左衛門は塩田王となったことで、児島を治めていた岡山藩とやり取りをする必要が出てきました。岡山藩の人が喜ぶように考えていたのではないでしょうか」
なお旧野﨑家住宅には「観曙亭(かんしょてい)」「容膝亭(ようしつてい)」「臨池亭(りんちてい)」など、茶室が全部で5室あるという。茶の湯は武家のたしなみであったことから、野﨑家と岡山藩の関係が見えてくる。
【主屋(中屋敷)】
主屋は野﨑家が生活した住居部分である。1833年(天保4年)ごろの建築とされている。9もの座敷が連続しており、その総延長は23間(約42m)に及ぶという。普段は一般の立ち入りはできないが、庭園から座敷を見通せる。連続する座敷を眺めると、その迫力に圧倒されるだろう。
台所や縁側には、天井部分に明かり取りの窓が設置されているのも特徴。また、窓ガラスは明治時代につくられたものがそのまま残されているという。
「ガラスをよく見ると、ゆるやかにガラス表面が波打っているんです。当時のガラス製造技術の特徴で、明治時代のガラスである証拠であります」
【石垣】
旧野﨑家住宅の西側は山になっており、その斜面に石垣が施されている。この石垣は「備前積み」と呼ばれる工法で、野面石を使って目地をすべてつぶしていくもの。きめ細やかに隙間なく自然石が積み上げられており、高さは約12m、長さは約50mに及んでおり、圧巻の規模だ。
「旧野﨑家住宅の石垣は、途中でカーブを描きながら続いています。城などで見られる石垣は、曲がったところは鋭角になっているのが一般的。とてもめずらしいもので、熊本城の石垣工事に携わった方が見て、驚いていたほど。ぜひ石垣の滑らかで美しい曲線を描いている石垣を見て、その迫力を体感してもらいたいですね」
【土蔵群(展示館)】
主屋の向かって右側には、5棟の土蔵が建ち並んでいる。白壁の土蔵群は、旧野﨑家住宅を象徴する景観の一つだ。これらは、江戸時代から明治時代にかけて順次建てられたもの。土蔵群は、主屋側から順に「内蔵」「大蔵」「書類蔵」「新蔵」「岡蔵」と呼び名が付けられていた。また内蔵の裏手には、夜具蔵も建つ。
このうち大蔵は第1展示館となっており、昔と今の塩づくりに関する資料や道具、野﨑家に関する資料などを多数展示する。岡蔵は第2展示館とされ、江戸時代からの貴重な調度品や生活用具を展示している。
重要文化財と伝統工芸・伝統芸能のコラボして相乗効果を
旧野﨑家住宅では、さまざまな取組みやイベントも行われている。たとえば毎年1月終わりから4月上旬まで、第2展示館で「野﨑家のお雛様展」が開催されている。毎年多くの人が訪れる、人気の企画である。野﨑家では、代々のとても豪華な雛人形が保管されている。特に岡山藩主から拝領した「享保雛」は、非常に貴重。野﨑家が保管する雛人形を一堂に展示する。
また旧野﨑家住宅から約100m東には野﨑家の別邸があり、「迨暇堂(たいかどう)」という大きな旧宴会堂がある。「野﨑家のお雛様展」とともに、2月下旬から3月上旬にかけて迨暇堂で「おひな同窓会」も開催する。地元住民が野﨑家に寄贈した雛人形35組約600体がズラリと並ぶ。
さらに迨暇堂では、能・狂言・落語などの伝統芸能も開催する。
辻事務長「演者の方は、ホールで上演するのと迨暇堂とでは、声の通り方や響きが全く違うと驚かれます。伝統芸能の演者にとって、迨暇堂のような昔ながらの建物で行うのは格別のことのようです。また野﨑家は古くから92面の能面を所蔵しています。その能面を実際に使用して能を演じるのです。これも演者に喜ばれます。一方で観客からは、演者が目の前で演じるのが良いという感想が多いですね。ここまで近いことは極めてめずらしく、興奮される方もいます」
辻事務長は、旧野﨑家住宅が雛人形展示や伝統芸能を積極的に開催することについて、次のように語る。
「旧野﨑家住宅は重要文化財として、歴史ある建築物を後世に残す努力をしています。同じように伝統芸能や伝統工芸品に携わる方も、日本の歴史ある文化を後世に守っていますよね。どちらも日本の歴史・文化を守り、後世に残そうとしているのは同じです。そこで歴史ある旧野﨑家住宅というハードと、伝統工芸や伝統芸能といったソフト面がコラボレーションすることで、相乗効果が得られるのではないでしょうか。地域の方と力を合わせながら、伝統を守る活動を続けていきたいです」
近年、著名なミュージシャンなどから「迨暇堂で演奏がしたい」という要望もあるという。
武左衛門の家訓を受け継ぎ、現在も続く野﨑家の製塩業
江戸時代から始まり、「塩田王」と呼ばれるまでになった野﨑武左衛門の製塩業。実は、現在でも野﨑家の製塩業は続いている。児島地区の東隣・玉野市に本社を置くナイカイ塩業 株式会社は、野﨑家の製塩業を起源とする製塩企業だ。野﨑武左衛門を創業者としており、現在の代表取締役は野﨑家の人物である。ナイカイ塩業は、国内の現存最古の製塩企業になる。
武左衛門が始めた塩田は「入浜式」と呼ばれる方法だった。入浜式とは、潮の干満差を利用して塩田に海水を引き入れ、太陽熱と風力による蒸発により毛細管現象をおこすことで、砂の表面に塩水をしみ出させる方法。江戸時代から昭和20年代ごろまでこの方法で製塩が行われた。
昭和20年代後半ごろより、機械を活用した「流下式」という方式に移行していく。ポンプを使用して海水をくみ上げ、ゆるやかな傾斜をつけた流下盤へ流し入れ、竹の小枝を組み合わせてつくられた「枝条架(しじょうか)」の上部へ送り、下部へしたり落ちることで塩水を採集する方法である。流下式の導入により塩の生産量は3倍、かかる労働力は10分の1となり、生産性が大きく向上した。
さらに昭和40年代には、製塩業は大きく進歩する。イオン交換膜を用いた「膜濃縮製塩法」の確立である。現在、ナイカイ塩業では最大生産能力21万トンを有しており、国内有数の製塩企業になっている。
同社では野﨑武左衛門が残した家訓や理念を、今も引き継いでいるという。また製塩方式の効率化により塩田は減少。現在は塩田はなくなったが、本社および工場の所在地は、かつての東野崎浜があった場所だ。また登記上の本店所在は、旧野﨑家住宅である。武左衛門が最初に製塩を始めた野崎浜(元野崎浜)は、今はJR児島駅や児島市街地に姿を変えている。
地元企業・団体と協力したプロジェクトを発足させ、児島の地域活性化を目指す
辻事務長は、児島地区を地域の人と盛り上げる活動にも力を入れている。個人や団体という点をつないで、面にした活動をしていきたいという。その一つが「倉敷児島塩結び(えんむすび)プロジェクト」だ。旧野﨑家住宅およびナイカイ塩業と、下津井電鉄、児島商工会議所が手を取り合って始まった取組みである。児島は製塩業で栄えた歴史があることに注目し、地域活性化や観光推進につなげるものだという。
同プロジェクトは「塩田王 野﨑家の塩」を開発した。さらにこの塩を販売するだけでなく、塩を使った土産などの商品を児島ゆかりの企業とともに開発している。「児島塩ラーメン」というご当地ラーメンもつくられた。
※参考:
倉敷児島塩結び(えんむすび)プロジェクト
辻事務長は今後の展望として、野﨑家の所蔵品の調査を進めることを挙げる。
「野﨑家には、多くの貴重な資料や物品が所蔵されてあります。たとえば陶磁器だけで約2500点、漆器は約100人前分、書画は表装されているものが約1500、未表装が約700、端切れ小切れも約700、扇子は約600本もあるのです。これらの調査を専門家にお願いしたいのですが、とにかく所蔵品が多く、それらを取り出して調べるだけでも一苦労。でも専門家の方から、調査したいという声がかかることもあり、あらためて野﨑家の所蔵品の重要さを痛感します。今後も順次、調査を進めていきたいですね」
また、旧野﨑家住宅を後世に残していくために、建物の調査や修繕を行っている。今後、大規模な修繕工事が控えているという。
「およそ5年の歳月をかけて、敷地内の建物の調査を行いました。2026年から長屋門の修繕工事に入るのですが、工事も非常に時間を要し、約4年かかります。解体した上で地盤改良し、再度組み直すのです。調査により、地震で液状化する可能性が分かりました。地震対策をメインにした工事です。また同じく地震対策として、住宅裏手の斜面の耐震工事も同時に進めます」
歴史ある建物を守りながら、伝統芸能や地元住民・企業と連携して地域の文化も守り、地域の盛り上げに取り組む旧野﨑家住宅。倉敷観光や岡山観光の際は、ぜひ児島まで足を運んでみてほしい。
※取材協力:
旧野﨑家住宅(公益財団法人 竜王会館)
https://www.nozakike.or.jp/