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ラジオは国民に何を伝え、何を伝えなかったのか――「講談社 本田靖春ノンフィクション賞」を受賞した『ラジオと戦争』

NHK出版デジタルマガジン

ラジオは国民に何を伝え、何を伝えなかったのか――「講談社 本田靖春ノンフィクション賞」を受賞した『ラジオと戦争』

 膨大な資料渉猟と長期にわたる取材による、渾身のノンフィクション『ラジオと戦争 放送人たちの「報国」』。
 
2023年夏の発売から1週間で増刷し、また全国の書店から問い合わせが殺到した本書(現在5刷)は、2023年11月3日に発表された第77回毎日出版文化賞(人文・社会部門)を受賞、2024年7月18日に発表された第46回「講談社 本田靖春ノンフィクション賞」を受賞しました。受賞を記念して、発売時にも話題となったこの取材録の導入部分「序」の一部を公開します。
 
 1925年に登場し、瞬く間に時代の寵児となったラジオ。そのラジオ放送に携わった人々は、ラジオの成長と軌を一にするかのように拡大した「戦争」をどう捉え、どう報じたのか、あるいは報じなかったのか。また、どう自らを鼓舞し、あるいは納得させてきたのか。そして敗戦後はどう変わり、あるいは変わらなかったのか――。

ラジオと戦争 放送人たちの「報国」 序

ラジオ少年

 「階段がきつかったでしょ。おかげですっかり出不精になってしまって」

 横浜市郊外にある団地の五階。玄関の扉を開けた高橋映一(取材当時八十二歳)は、そう言って私たち撮影クルーを迎え入れてくれた。

 テレビ番組「戦争とラジオ」(注1)の取材で高橋を訪ねたのは二〇〇九年四月のことである。高橋が戦時中のラジオ放送を自作の録音機で記録・保存していると耳にしたからだった。

 戦前・戦中のラジオ放送の音源はNHKにもわずかしか遺されていない。ほとんどの放送が生放送だったうえに、番組や番組の素材を収録した録音盤が敗戦時に大量に破棄されたからだ。国民を戦争に導いた記録は、連合軍の進駐前に処分しなければならなかった。録音盤だけではない。ニュース原稿や局内文書も東京・内幸町の放送会館の中庭で焼却処分された(注2) 。

 今、NHKに遺る音源は、録音盤からレコード盤に加工されたものだけである。表面が柔らかい素材でできている録音盤は、本来たび重なる再生や長期保管には不適であり、重要な録音は外部メーカーに委託してレコード盤に加工していた。その一部が破棄を免れ遺されたのだ。しかしその数は少なく内容も政府や軍首脳の演説、あるいは初期の勝ち戦の記録などに限られ、日々のニュースや定時番組などはほとんどない。さらに言えば、それらのレコードは厳密には放送の記録とは言えない。放送とは文字どおり、電波に変換した音を空間に放ち送ることである。レコード盤に記録された音は、マイクがひろった音声をケーブルで直接、録音機に流し込んだものであり、空間に放たれた電波を受信機が捉えたものではない。その意味でも、戦時中の放送電波を受信し今に伝える高橋の記録は貴重なものにちがいなかった。

 高橋の部屋には、電気機器メーカーを勤めあげた技術者らしく、プロ仕様のアンプやチューナー、スピーカーなどが所狭しと並べられ、複雑に結線されていた。高橋が、それらオーディオ機器の端にある頑丈そうな木箱の蓋を開けると、古めかしい装置が現れた。洗練されたデザインの最新機器類とは対照的に無骨な姿だ。一見レコードプレーヤーのようで、ターンテーブルとトーンアームがある。アームは、基盤に固定されたマッチ箱の上に置かれていた。だが、この装置は、やはり普通のレコードプレーヤーではなさそうだ。ターンテーブルの上には細いパイプが渡されていて、そのパイプ上を金属製の小さな箱がスライドできるようになっている。よく見ると、その小箱の底部からもレコード針のようなものが突き出ていた。この装置こそが、高橋が戦時中に自分で作りあげた録音機にちがいなかった。

「今も使えますよ」と高橋が言った。「今日、あなたがお見えになるので試しておきました」

 高橋が四〇センチ四方の機械には不釣り合いに大きいスイッチレバーを上げると、木箱の縁に固定された蛇腹式の金属棒の先にある裸電球が点灯し、ターンテーブルが鈍い光沢を放った。

「今日はこれでやってみましょう」。高橋は、傍らにあったCDをターンテーブルの中心に固定した。CD ? いぶかる私を愉快そうに見ながら高橋はターンテーブルを指で回した。はじめだけ手動で勢いをつける必要があるらしかった。そして、ターンテーブルのスイッチをオンにして回転が安定するのを待ってから、金属製の小箱をスライドさせて針をCDの光沢面に落とした。

「何かしゃべってみてください」。高橋はヘッドホンをかぶると、録音機につながったマイクを私に向けた。

「えー、ただいま、高橋さんの家で自家製の録音機を見せてもらっています。何やら不思議な機械です。えー、本日は晴天なり、本日は晴天なり……」

 針が糸くずのようなものをはき出しながら光沢面を削ってゆく。高橋は糸くずの塊が針の進路を妨げないように、時々指で除いた。針が通過した部分は光沢を失い白っぽくなっている。

「じゃあ、聴いてみましょう」。高橋は金属製の小箱を上げ、代わりにトーンアームをマッチ箱から降ろして、針をCDに落とした。

「えー、ただいま、高橋さんの家で……」。ノイズとともに、間の抜けた声が再生された。驚く私の目の前で、往年のラジオ少年の笑顔が弾けた。

遺された音

 高橋は幼いころから機械いじりが好きだった。東京・町田の寺の住職だった父親が手回し式の蓄音機で落語や浪曲を楽しんでいたが、高橋の興味は音の内容よりも音が出る仕組みに向けられた。やがて芝浦の東京工業専門学校附属電波技術専修学校(現・東京工業大学附属科学技術高等学校)に進学、ラジオやアンプの組み立てに熱中した。高橋が生まれる二年前の一九二五(大正十四)年三月二十二日、その学校の図書館の書庫に作られた仮放送所から、日本放送協会に統合される前の東京放送局が電波を発射し、日本のラジオ放送が産声を上げた史実も、高橋のラジオ技術への関心を一層高めたのかもしれない。やがて受信機だけでは飽(あ)き足らず、録音機を自分で作ってみたいと思うようになったが、録音機の仕組みを解説する一般書があるわけでもなかった。高橋が頼りにしたのは日本放送協会の技術部だった。「NHKさんがね、時々放送機材の展示会をやっていたんです。そこに出かけては勉強させてもらったんです」。

 高橋は展示された録音機の構造を頭にたたき込み、自作に挑み始める。川崎の軍需工場で働きながら、部品を買い集め試作を繰り返した。

「なかなかうまくいきませんでした。やっと音が出たと思っても音質が悪すぎて。昭和十八年ころから本格的に始めたんですけど、なんとか形になったのは十九年になってからでした」

 CDの表面を削って私の声を録音した装置は、当時のものを母体にして改良を重ねてきたものだった。「もちろんCDは代用品です。丸くて削れるものなら何でもいいんですよ。本当はこれを使うんです」。

 高橋は、紙箱の中からパラフィン紙で一枚ずつ包装されている黒い円盤を取り出し並べた。円盤はLPレコードのように見えるが、手に取ってみると意外な重さがある。

「芯はアルミなんです。アルミの表面にアセテートという薬品が塗布されているんです。この録音盤ばかりは自分では作れませんからNHKさんに卸している業者さんから買っていました。当時はCDみたいにちょうどいい代用品もなかったですから」

 録音盤は、全部で一〇枚ほどあった。もともとは数十枚あったのだが、多くはひび割れてしまい処分したという。残っているものの中にも、縁の部分のアセテートが溶けて再び固まり、溶岩のように波打っているものがあった。

 録音盤のラベルには高橋が書いた文字がある。〈サイパン島 S 19・7・18 17時〉〈大本営発表 比島東方海面・レイテ沖〉〈空襲警報〉……。戦時中でも音楽番組や落語もあった。録音して保存しておくなら普通はそっちだろうが、高橋のコレクションにはほとんどない。なぜ、高橋は戦局関連のニュースや大本営発表を選んで録音していたのだろう。

「録音ができるようになったときが、もう昭和十九年の夏でしたからね」

 高橋が私の問いに答えて言った。

「サイパンが陥落したころです。いったい日本はどうなるんだろうって思っていました。最後には神風が吹くんだって教えられていたけど、本当に大丈夫なのかって。とにかく普通の状態ではないわけですから、『これはっ』ていうニュースは残しておこうと思ったわけです」

 高橋は一枚の録音盤を手に取って続けた。「ラジオを録音することには何か後ろめたいような気持ちもあったんです。個人が勝手に録音していることが警察にわかったらまずいんじゃないかってね。変ですよね。堂々と放送しているものなんだから、それを録音したって隠すようなことじゃないですよね。でも、あのころはどうしても後ろめたい気持ちがあって、だから録音しても誰にも聴かせませんでした」

 実は高橋は、やはり自家製の受信機でアメリカの日本向け短波放送、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)も聴いていた。録音機を自作する高橋にとって、短波受信機を作ることはいとも容易なことだった。当時、短波放送を聴くことは固く禁じられていて、発覚すればただでは済まないことは高橋にもわかっていたが、好奇心には勝てなかった。生家の寺の薄暗い部屋の隅で、高橋はラジオのスピーカーに耳をつけた。

「日本はもう完全に負けているって放送しているんですよ。大本営発表とはまるっきり違うんです。まさか日本が負けるとは思っていませんでしたけど、もうサイパンも失っていましたからね」

 そうは言わなかったが、高橋は日本の敗戦をおぼろげに予感していたのではなかったか。日本放送協会の放送を録音することに後ろめたさを感じていたのは、VOAを聴いているやましさの自覚と重なってのことだったろう。もっと言えば、日本放送協会の放送を自分は一〇〇パーセント信じることができない、その戸惑いこそが、高橋が感じていた後ろめたさの正体だったのかもしれない。

 一枚の録音盤をターンテーブルに載せながら高橋が言った。「これはね、昭和十九年の秋に放送された特別番組の録音です。最後の部分だけですけど聴いてみてください」。

 針を落とすと波打つような雑音がしばらく続き、やがて合唱が始まったが、歌詞は不鮮明で聴き取れない。まもなくその歌にかぶせてアナウンサーが次のようにコメントして番組は終わる。

 決戦のときは来(きた)れり。起(た)て一億。私どもはこの歌を声高らかに唱和するとともに、傷痍軍人、並びに遺家族の方々に感謝し、飛行機・食料の増産活動。不撓(ふとう)不屈の信念を持って、米英撃滅。勝利の日まで、勝利の日まで戦い抜く。勝ち抜くことこそ、真の決戦援護であり、皇国護持に笑って散った将兵や同胞に応える道であろうと存じます。起て一億の夕べ。日比谷公会堂よりの中継を終わります。

 高橋によれば、この番組は「『起て一億』の夕」と題され、サイパン島陥落からおよそ三か月、天王山と位置づけられたフィリピン・レイテ島の決戦が迫る中で放送されたものだった。録音盤から再生されるのは、当時、日本中の人々がラジオで聴いた音そのものだった。人々はどんな気持ちでこの中継を聴いたのだろう。放送を出す側にはどんな意図があったのだろう。

「NHKさんがね」と針を上げながら高橋が言った。「NHKさんが企画して、日比谷公会堂から中継したんですよね 」(注3)。

 タイムカプセルを開いたような不思議な気分に浸っていた私は、まだ回転を続けている録音盤から目を上げた。高橋は穏やかに微笑んでいた。遠い昔に自分が録音した音にNHKの人間が興味を示すことを、素直に喜んでくれているのにちがいなかった。しかし、私は一瞬こう問いかけられた気がしたのである。「事実上負け戦が決まっていたときに、こういう放送を出して国民を煽っていたことについて、あなたは今、NHKの人間としてどう考えるのか」と。

戦争とNHK

 国民を戦争に動員するうえで大きな役割を担った戦時下のラジオ放送(以下、戦時ラジオ放送と呼ぶ)は、一九二六(大正十五)年に設立された社団法人日本放送協会によるものであり、一九五〇年に放送法に基づいて再出発した現在の特殊法人日本放送協会、NHKによるものではない。しかし、現在のNHKは旧協会の一切の施設・権利・義務を継承して設立されたのであり、職員もそのままだった。旧日本放送協会に戦争責任があったとすれば、それはNHKによって継承されるべきものであることは言うまでもない。

 新聞社は、敗戦直後にまがりなりにもその紙面で自らの非を認め、その後も自社と戦争との関わり・責任を繰り返し検証してきた(注4) 。しかし、NHKが自らの戦争責任に真正面から向き合ったことは未だにない。戦後、NHKが四度にわたって公刊してきた放送史(注5) は、戦時ラジオ放送にも多くのページを割いてきたが、あくまで通史の一部としてであり、戦争責任の自覚と検証という問題意識で貫かれているわけではない。なぜ、新聞が行ってきたことを、放送はしないで済ませてきたのだろうか。

 その答えを先取りするように、作家・広津和郎は、一九三五年、雑誌『中央公論』の特集「ラヂオの反動化を難ず」に一文を寄せてこう記している。

 過去の時代に於いて、ラヂオが何か進歩的な役割でも持っていたなら兎(とに)に角(かく)、そして又放送局が進歩的思想を確固と保持し、それを脅かす権力に対して、飽くまで抗う思想団隊ででもあるなら兎に角、半官半民的のこの財団(ママ)法人の成(なり)立たちから考えたって、今更これが反動化したなどと騒ぎ立てるのは滑稽な話だし、放送局に進歩的役割を、今のこの情勢の中で注文するというのは、注文する方が無理である。

 この御用機関は、時の権威者によって利用されるように大体出来ていると見るのが、当然な話であると私は思う。

「ラヂオ雑感」『中央公論』一九三五年九月号

 日本の放送事業は、一九二五年、社団法人東京放送局、同大阪放送局、同名古屋放送局の三局によって始まったが、そのときから無線電信法によって「政府之ヲ管掌ス」とされ、担当官庁である逓信省の指導・検閲下にあった。一九二六年に三局が日本放送協会に統合されたあとは、協会の上層部は逓信省出身者で占められるようになっていった。広津の言う「この財団(ママ)法人の成立ち」である。そして「今のこの情勢」とは、一九三一年に満州事変が勃発して以降の、軍・政府によるメディアへの強い締めつけを指していた。もともと「御用機関」である日本放送協会が、戦時下にあって軍・政府の意向に沿った放送を出すのは「当然な話」ではないか、と言うのである。

 この広津の、ラジオに対するある種しらけた見方は、戦後においても一般的だったのではないだろうか。旧日本放送協会は一九四五年の敗戦に至るまで戦争協力を訴える国策的な放送を行ってきたが、それは協会の成立過程・時代状況からして当たり前だったのであり、そこには例えば新聞社や雑誌社のように“抵抗と挫折の物語”があるわけでもない。

 それは、NHK自身の歴史観でもあった。一九四三年版を最後に途絶えていた『ラジオ年鑑』を、戦後、NHKが改めて刊行したのは一九四七年が最初だが、その巻頭にある「事業概観」は戦時ラジオ放送を次のように総括している。

 日本の放送は常に政府の代弁機関として存在し、かつて政治的批判、言論の自由の認められた事はなかったが、「満州事変」以来、外部から加えられた重圧は、放送は国策に順応し、これを推進させるものでなければならぬという声であった。特に「日華事変」以来放送が広い視野と幅のある思想を持つことは全く不可能となった。太平洋戦争の勃発は、こうしたわが放送の性格を否応なしに軍と政府の御用機関として規定した。

 言わんとするのは要するにこういうことだ。戦争協力は「外部から加えられた重圧」によるものであり、協会に責任があったわけではない。戦争協力は仕方がなかったのだ――。

 そういう面もあっただろう。だがあの時代、日本放送協会職員は、決して「仕方なく」ではなく、全身全霊をかけて戦争協力に尽力したことを忘れてはならない。ニュース、ドキュメンタリー、ドラマ、音楽芸能、あらゆるジャンルの放送現場で、どうすればより効果的に国民を戦争に動員できるか、懸命に考え実践していたのである。

 本書のタイトルにある「報国」は、当時の放送関係者の間のスローガンだった「放送報国」からとった。太平洋戦争開戦の日の朝、日本放送協会会長・小森七郎は全職員に向けて次のように訓示している。

 諸君は今日より愈々(いよいよ)滅私奉公の大精神に徹して相共に渾然一体となり放送報国の大使命に全力を挙げて邁進して戴きたいのであります。

日本放送協会編『20世紀放送史 上』より

 放送報国、それは放送という仕事に携わる人間の誇りだった。「戦争協力は仕方がなかった」という言い方は、彼らに対して、ある意味、失礼ですらある。

 だが、いったいいつからラジオは時の権力の「御用機関」になってしまったのだろうか。広津和郎の言うように初めからそうだったのか。協会職員には何の葛藤もなかったのだろうか。

 夜空に浮かぶ月の表面は鏡のように平らに見えるが、実際は数千メートルの山々がそびえるクレーターだらけのでこぼこの世界だ。戦前・戦中の日本放送協会の歴史を遠望すれば、軍や政府に支配された、非自立的で没個性の、のっぺらぼうのような組織の姿しか見えない。でも、もっと接近して見れば、放送現場の絶望や葛藤、あるいは諦念といった感情の起伏が見えてくるのではないだろうか。そして政府や軍の指導を、放送現場がいつのまにか内面化し、ニュースや番組に具現化していったプロセスが浮かび上がってくるのではないだろうか。

 現在の価値観から戦時ラジオ放送を断罪しようというのではない。いわば「仕方がなかった史観」を乗り越えて戦時ラジオ放送を検証すること。戦時中のラジオが何を放送していたのか、単にその事実を羅列するのではなく、現場が何をどう考えて、あるいは考えることを放棄して放送していたのかを検証すること。それこそが重要なのではないだろうか。

 戦争協力は仕方がなかった。そこに止まっている限りは、戦時ラジオ放送の経験から学び、現在の放送に生かすことはできないだろう。

注1:NHKテレビ、ETV特集「シリーズ戦争とラジオ 第一回 放送は国民に何を伝えたのか」二〇〇九年八月十六日放送
注2:藤倉修一『マイク人生うらおもて』エイジ出版、一九八二年。なお、資料の焼却・破棄については複数のOBがNHK放送文化研究所による聞き取りの中で証言している。
注3:高橋はそう話したが、正しくは、日本文学報国会・大日本芸能会・日本音楽文化協会が主催した「決戦国民歌」発表会の中継(一九四四年十月三日)である。日本放送協会は協賛に名を連ねていた。
注4:例えば「新聞と戦争」(毎日新聞連載 一九九四~九五年)、「検証戦争責任」(読売新聞連載 二〇〇五~〇六年)、「新聞と戦争」(朝日新聞連載 二〇〇七~〇八年)など。
注5:公刊された放送史は以下の四冊。日本放送協会編『日本放送史』一九五一年、同編『日本放送史』一九六五年、同編『放送五十年史』一九七七年、同編『20世紀放送史』二〇〇一年
注6:NHKテレビ、ETV特集「敗戦とラジオ 放送はどう変わったのか」二〇一〇年八月十五日放送

著者プロフィール

大森 淳郎(おおもり・じゅんろう)
1957年埼玉県生まれ。1982年、東京外国語大学ヒンディー語学科卒業。同年NHK入局。富山、東京、広島、福岡、仙台の各放送局に勤務。ディレクタ-として主にETV特集を手掛ける。作品にETV特集「モリチョウさんを探して―ある原爆小頭児の空白の生涯―」(1993年)、同「祖父の戦場を知る」(2006年)、同「シリーズBC級戦犯 第二回“罪”に向き合う時」(2008年)、同「ひとりと一匹たち―多摩川 河川敷の物語―」(2009年)、同「シリーズ戦争とラジオ 第一回 放送は国民に何を伝えたのか」(2009年)、同「敗戦とラジオ 放送はどう変わったのか」(2010年)など。2016年からNHK放送文化研究所に研究員として勤務。2022年退職。著書に『BC級戦犯 獄窓からの声』(日本放送出版協会、2009年)、『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(講談社、2012年)。ともに共著。

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