「大正イマジュリィ」の世界とは?ロマンとモダンが交差するイメージの楽園
大正イマジュリィを知っていますか?大正時代から昭和初期の日本で生み出された、雑誌、装幀、挿絵、広告、絵葉書、ポスターなどの印刷メディアにおける視覚的イメージの総称です。 そこにはモダンで夢想的でありながらも、郷愁を誘うような独自の美意識が見られ、近年、たびたび展覧会が開かれるなど注目が高まっています。
竹久夢二「涼しき装い」(広報誌「三越」大正14年6月口絵) 1925年
まず知りたい!大正イマジュリィとは?
杉浦非水「星製薬」リトグラフ、ポスター 1914年
まず大正イマジュリィの定義についておさえておきましょう。イマジュリィ(imagerie)とはフランス語で、ある時代やジャンルに特徴的なイメージ群のことを意味します。
1900年から1930年代の日本では、西洋から新しい印刷技術が次々と導入され、以前よりも多彩で洗練されたビジュアルの表現が可能になりました。それに伴って、西洋のアール・ヌーヴォーやアール・デコなどと、日本の伝統的意匠が融合した独特のデザイン様式が台頭します。
それらは雑誌や絵葉書、ポスター、写真などにて表されると、マスメディアや商業美術の発展とともに、ポピュラーなカルチャーとして大衆へ広がるようになりました。
こうした一連のムーブメントに注目した現代の研究者たちが、当時の大衆的な複製物を「大正イマジュリィ」と名付けました。なお学会が設立されたのは比較的新しく2004年。今から約20年前のことになります。
人々の内面の写し鏡という面も。大正イマジュリィの魅力とは?
高畠華宵 「秋の調べ」(少女画報1931年9月号より) 1931年
大正イマジュリィの魅力は二つの面から捉えることができます。それは都市生活に息づくモダンな感性と、一方での個人の内面に宿る繊細な感情や憧れなどが、美しい意匠によって同居しているのです。
テレビ放送もインターネットもない中で、印刷物は庶民にとって社会とつながる情報源、言い換えれば窓や扉の役割を果たしていました。雑誌の表紙、挿絵、広告の一枚一枚が、まだ見ぬ都市への憧れや、遠い恋への幻想をかきたてました。
特に少女雑誌や青年誌、商業ポスターには、ロマンティックな恋愛観や憂いを帯びた感情、ハイセンスな都市風景など、時に感傷的であり幻想的で、なおかつモダンな感覚を凝縮したイメージが視覚化されます。
またこれらの作品には、「個人が何を感じ、何に憧れるのか」といった情緒や主観が強く投影されています。つまり大正イマジュリィとは、単なる商業印刷物ではなく、人びとの内面の写し鏡でもあったとも言えるでしょう。
杉浦非水 ポスター研究雑誌「アフィッシュ」第一年第一號表紙
大正イマジュリィは、都市の文化圏にて大きく花開きました。なかでも東京と京都では、それぞれ異なる性格をもって展開します。
1923年の関東大震災によって数年の間、出版業界などが関西へ移転したことで、この時代のアール・デコ様式のデザインが京都や大阪を中心に発展します。
京都では伝統工芸や日本情緒と結びついた繊細なビジュアルが好まれ、「京都の夢二」とも呼ばれた小林かいちのように、着物図案を反映させつつ、抒情性豊かな作風が広まります。また髙橋春佳はアール・デコと琳派を融合させたような絵葉書で注目を集めました。
一方の東京ではどうでしょうか。急速に近代化・西洋化が進む中で、「モダン東京」を象徴する雑誌や百貨店の宣伝、美術展のポスターなどが数多く制作。銀座や上野を舞台にしたモボ・モガ(モダンボーイ/モダンガール)のイメージが、杉浦非水や藤島武二らの手でビジュアル化され、都市の洗練とスピード感を象徴する世界が形作られていきます。
そして震災から復興を遂げると、文芸やファッションの前衛を伝えるグラフ誌が多くの若者らの心を捉えました。レコードや映画といった娯楽が登場し、ジャズなどが人気を得たのもこの時代のこと。東京は全国へ向けての流行の発信地となります。
大正イマジュリィの作家5選
それでは大正イマジュリィを彩った代表的な5名の作家をご紹介します。
①藤島武二(ふじしま たけじ、1867〜1943年)
藤島武二『明星』第1次 11号 明治34.2.23
洋画界の重鎮として知られる藤島は、初期には雑誌や装幀のデザインにも関わります。1900年から1910年代には文芸誌『明星』などに、西洋のイラストレーションの様式に則った挿絵を描きました。
またアール・ヌーヴォーと東洋の伝統的なモチーフを融合させた画風を確立し、日本のデザイン文化の近代化にも大きな役割を果たしました。
②杉浦非水(すぎうら ひすい、1876〜1965年)
杉浦非水「朝寒」 雑誌「三越」第19巻 第11号 1929年11月
日本の商業デザインの先鞭をつけた人物です。黒田清輝がフランスから持ち帰ったアール・ヌーヴォーのポスターや雑誌の影響を受けると、グラフィックデザインの道へと進みました。
非水がデザイナーとしての仕事を始めたのは、三越呉服店の嘱託となった1908年のことです。同店が発行する雑誌『三越』や『みつこしタイムス』などへデザインを提供すると、新しい時代を切り開くグラフィックとして注目を集めました。
1934年には三越を退社し、後進の育成に力を注ぎます。アール・ヌーヴォーから出発した非水のデザインは、ウィーン分離派様式からアール・デコ様式へと変化しながら、常に人々の心を捉えました。
③竹久夢二(たけひさ ゆめじ、1884〜1934年)
竹久夢二 「春潮」1918年
夢二は大正ロマンの代名詞とも言うべきマルチ・クリエイターです。明治時代の末期から雑誌のコマ絵にて注目を集めると、挿絵、装幀、楽譜の表紙などに独特の美人画や図案を描いて一世を風靡します。
憂いを帯びた女性像と抒情的な感覚によって、詩、絵、装幀を横断する総合的なアーティストとして独自の世界を築いた夢二は、若者からも絶大な支持を得ます。また関東大震災後はロシアの未来派の作風を取り入れるなど、新たなデザイン表現にも取り組みました。
④高畠華宵(たかばたけ かしょう、1888〜1966年)
高畠華宵『少女画報』1926年9月号
京都の美術学校で日本画を学んだ華宵は、その後、洋画のデッサンや裸体画を学ぶと、上京して図案と挿絵を手がけるようになります。
すると西洋の古典的な美と東洋的な情緒をミックスした人物を描き出し、特に妖艶でかつ洗練された少女の描写を得意として、1910年代から少年少女雑誌の挿絵にて大変な人気を獲得しました。
華宵の少女像は「華宵好み」とも呼ばれ、流行歌にも歌われます。うっとりするような、夢想の人物世界を巧みに視覚化したアーティストとも言えるでしょう。
⑤小林かいち(こばやし かいち、1896〜1968年)
京都を拠点に着物の図案家として活動しながら、絵はがきや絵封筒を手がけた作家です。近年、再評価されていますが、長く忘れられていたため、詳細な経歴は良く分かっていません。
ほの暗い色調と静謐な画面構成、アール・デコ風の装飾美を取り入れた表現を特徴としていて、着物図案の流行色を取り入れつつ、静かな詩とも言えるような作風を確立しました。
なぜ大正イマジュリィは消えたのか?そして、いま再び見直される理由
高畠華宵「華宵新作ビンセンフートー広告ポスター」 1930年
大正イマジュリィは昭和初期を境に、徐々に表舞台から姿を消していきます。その背景として、1931年の満州事変をきっかけにした、政府による情報や出版の統制の強化がありました。
個人の感情を背景とするロマンティックな世界観や、耽美的で幻想的なビジュアルは、次第に軍国主義の台頭する時代の価値観とあわなくなったのです。
しかし現代において私たちは、デジタル画像が溢れる日常の中で、紙そのものの質感や細かな図案、さらに「実際に目で見て、手で持つ」ことの重要性が再認識されつつあります。そうした流れの中で、大正イマジュリィの世界は単なる懐古ではなく、視覚文化の原点として、また日本のデザインの再評価の対象として、改めて光を浴びているのではないでしょうか。
なお現在、東京・西新宿のSOMPO美術館では、『デザインとイラストレーションの青春 1900s-1930s 大正イマジュリィの世界』が開催中です。(会期:2025年7月12日~8月31日)
『デザインとイラストレーションの青春 1900s-1930s 大正イマジュリィの世界』
会場:SOMPO美術館
会期:2025年7月12日(土)〜8月31日(日)
美術館HP:『デザインとイラストレーションの青春 1900s-1930s 大正イマジュリィの世界』
ここでは大正イマジュリィ学会の創立会員・役員を務めた山田俊幸氏の収集品より、大正時代を中心とする約330点の作品を公開。藤島武二、杉浦非水、竹久夢二などの主要な作家たちと、時代を映すさまざまな意匠を切り口に、大正イマジュリィの世界を掘り下げて紹介しています。
この記事を読んで大正イマジュリィに興味を持った方は、写真や画面では伝わらない本物の質感や魅力を、ぜひ会場で体感してみてください。美しいデザインの施された印刷物から立ちのぼる当時の空気を肌で感じられるでしょう。