すべての障害が「メガネ化」で解決される世界と、優生思想。
おれは目が悪い
おれは目が悪い。
悪いといっても疾患や障害があるわけではない。単なる近視だ。
……おれはいま「単なる」と書いた。近視は疾患や障害ではないのか。
たとえば、おれがメガネを外して街を歩くとしよう。視界はぼやぼや、ろくに標識も看板も読めない。信号の色はかろうじてわかるだろうか。駅に行けば改札を探すのに一苦労するだろうし、案内表示も読めない。電車に乗っても、「次の駅」の表示が読めなくて、アナウンスに集中するしかない。段差に気づかないかもしれないし、人にぶつかることもあるだろう。
いま、メガネを外してみたが、おれはパソコンの画面で自分が打ち込んでいる文字がまったく見えない。実際にやってみてわかったのだが、なにかアラビア文字のように見える。つまりは仕事もできない。パソコンを使わなくても、この視力でなんの作業ができるだろうか。
これは障害といっても差し支えない。目の不自由な人といってよい。もちろん、完全に視力のない人に比べたらまだ恵まれているが、確実に不自由だ。おれは目が悪い。
だが、おれがこの視力によって「障害者」とみなされることはない。少なくとも、平時の日本においては。
なぜか。メガネがあるからだ。おれは舐達麻のDELTA9KIDみたいなメガネと髪型で生きている(それを人に話したら「ニュアンスはわかる」といわれた)。
あ、コンタクトレンズというものもあるので、以下おれがメガネと書くときは、コンタクトレンズを含んでいるかもしれないな、と思ってください。レーシック手術は、まあ好きにしてください。
メガネは顔の一部です
メガネは顔の一部です、と言われてメロディが思い浮かぶのは、ある地域のある年代以上かもしれない。
まあいい、現代日本においてメガネというものは、比較的安価で気軽に手に入るものに違いない。そうでない国や地域もあるだろうが、とりあえず日本の話をする。そして、普通の近視には保険も適用されない。メガネがなければ社会生活を送るのが難しいのにもかかわらず。
そもそもメガネはいつ誕生したのか。Wikipediaなど読むと西暦1300年代くらいには誕生していたようだ。最初は修道士たちが使い始めたという。
……神が与えた身体を人間の工夫で補うのは、神意に背く、とか言って反メガネ論を展開した宗教者や神学者はいなかったのだろうか。どうもそういう話は見当たらない。そもそも修道士たちが使い始めたのだ。
反文明論や自然主義を説いた学者なども歴史上たくさんいるだろうが、目が悪くなったらメガネをしていたに違いない。自然に逆らってまで文明の利器に頼らない、という思想もあるだろうが、メガネはかけただろう。
どうも、メガネの利点の前には自然主義もなにもなくなってしまうようだ。あたかも自然の身体にもとから備わっていたものの一つのように。メガネは顔の一部、なのだ。
そもそも自然な身体とはなにか?
おれはいま、「自然の身体」と書いた。自然の身体とはなんであろうか。生まれたまま、身体になんの加工も補助もせずに育った身体、だろうか?
しかし、そんな「自然な身体」は近代になって発明、発見されたものだという指摘もある。
三浦雅士の『身体の零度 何が近代を成立させたか』、これである。
マンフォードという人の言葉を孫引きする。
飾り、化粧、装身具、仮面、衣服、かつら、刺青、皮膚の傷つけが、われわれの時代にいたるまであらゆる民族に見られることから、私が前に注意したように、この性質を変える習慣はきわめて古いものであり、そして、裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体は、きわめて初期か、きわめて後世の、一般的でない文化的成果であると考えなければならない。
「裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体」、すなわち「身体の零度」は近代になって成立したものである。古代の刺青を野蛮なものだという見方もあるだろうが、文明や文化がなくて野蛮というものはありえない。
自然状態に、自然な身体など存在しない。自然な身体とは、もっとも望ましい状態で生育した身体ということである。つまりそれは、もっとも人工的な、もっとも不自然な身体であるといってもいい。逆説というほかない。
ルソーがダンスを「雀おどり」とディスり、自分の生徒は岩山のふもとに連れて行って、でこぼこの道を歩いていくための身体の動作を教える、オペラ座の踊り手ではなく、リスの好敵手にするといったとき、想定していたのは未開人の身体であった。
このルソーの思想を引き継いでいって、「体育の父」ヤーンなどが生まれる。
ヤーンのそれは「ダンスなんてしていたからプロイセンは戦争に負けたのである」というゲルマン主義と深く結びついていたものだし、その後このような「体育」や身体づくりが近代の兵士につながっていったわけだ。それもまた皮肉な話であろう。
話をメガネに戻す。メガネは「自然な身体」にとってどのようなものなのであろうか?
福祉と治療と改良
現在、基本的にメガネというものは目の不具合を矯正する器具である。伊達メガネの歴史も古いだろうが、基本的にはそうだ。
マイナスをゼロにする。ゼロとはもちろん、近代的な「自然な身体」の地点だ。
同じように福祉器具として、補聴器や義肢なども挙げられるだろう。むろん、メガネもふくめてそれらを使用することによって、本当にゼロにはならない。まったくの「自然な身体」の持ち主、すなわち健常者たちとまったく同じになれるかというと、まだ技術的な限界はあるだろう。
とはいえ、そういう器具も、メガネのように当たり前で手軽な、社会文化に溶けた障害対応の一種になっていくのが理想ではあろう。最終的には「メガネ化」が望ましい。メガネはかなりいい線をいっている。
少し、その先のことを想像しよう。さきほど、メガネはマイナスをゼロにすると書いた。だが、「自然な身体」を上回る機能を持つようになったらどうだろう。
見た目はいまと変わらないようなメガネで、見ようと思えば望遠鏡のように遠くが見えたり、顕微鏡のように細かな世界を見られたりするようになったら。それはもう矯正器具ではなくなる。そんなメガネが今と同じくらい気軽に手に入るなら、みんな買うに違いない。
それにもう、すでに矯正器具を超えたメガネも存在している。基本的でないメガネ、ウェアラブルデバイス、スマートグラス、そういったものである。どこまでスマートなのか使ったことがないのでわからないが、それらはもう、プラスの方へ傾いている。
同じように、ノイズキャンセリング機能や「自然な身体」の聴力では聴こえない遠くの音を聴ける補聴器、「自然な身体」では不可能な力を出せる義肢……そんなものもありうる。あるかもしれない。あるだろう。
その行き着く先は、『攻殻機動隊』の世界だ。身体は高性能な義体に取って代わり、脳ですら電脳化される。SFの戯言だろうか? どうもそうは思えない。人間は身体を高性能化させていくだろう。
桜井徹『リベラル優生主義と正義』という本にこのような記述があった。
……同じことは、免疫力の強化についても言える。例えばガンやエイズに対する免疫力が、遺伝子工学によって通常のレベルよりはるかに強化されれば、それは「改良」と呼ばれるにふさわしいが、同時にそれは予防医学の目的を達して、後追い的な「治療」を不要にしていることになる。
このように考えれば、老化のコントロールも免疫力の強化も、治療と改良のいずれにかに区分することは、明らかに不可能である。
そうだ、おれは今まで視力などの障害についてばかり書いてきたが、話はそこに収まらない。遺伝子治療によって病気を治す、防ぐのはともかく、老化のコントロールになったら、それはなんなのか。
いつか、知的障害を防げるようになったとき、それでは人の知力はどこまでアップすべきなのか。
あとでまた考えたい。
すべての「メガネ化」は夢なので
障害、障害といえば、おれは手帳持ちの精神障害者だ。今のところ、精神の障害にメガネは発明されていない。精神障害にとってのメガネとは、安価で副作用もなく、確実に効く薬といったところだろうが、まだまだ道のりは長そうだ。
同じように、発達障害や、もちろん内蔵の疾患や障害などについても、いつかの「メガネ化」はありうるものだと思うが、やはりその「いつか」が来るのは遠そうだ。
むろん、そちらはそちらで科学の進歩に期待するしかないが、それをただ待つだけというわけにはいかない。遠い未来までのつなぎとして、社会の方で対応していかなければならない。
というわけで、「障害の社会モデル」といった考え方が広まったりしている。障害は個人の問題ではなく、社会が作り出している、と考える。あるいは「ニューロダイバーシティ」なんて言葉もある。
これらもまた夢の解決策でもないし、現実との齟齬からいろいろな論争の種にもなっている。
だがしかし、あらゆる障害とされるものに対する「メガネ化」が起こらないかぎり、社会として最大多数の幸福を求めていくしかないだろう。不完全ながらも、できるかぎりの包摂社会を構築、維持していくべきだろう。
「メガネ化」の先に
というわけで、すべての障害や疾患に「メガネ化」が起こるまでは、社会福祉で乗り切っていこう、ということになる。……と、言いたいところだが、そこで話は終わるだろうか。
単純な近視の問題であれば、「メガネ」で問題はない。「自然な身体」が持つのと同じくらいの視力に矯正できればよい。
もし、「視力が弱いのも子供の個性です」といって、自分の子供にメガネを使わせない親がいたら、それはもう虐待とまで言われるに違いない。メガネは人権。
単純な視力ならば、話は簡単なのだ。
ただ、これが精神疾患や発達障害、あるいは知的障害となったらどうだろうか。
たとえば、おれの双極性障害(躁うつ病)はどこまで「矯正」されるべきなのか。おれ自身としては、毎朝起きて会社に行けるようになればいい、すなわち軽度な抑うつの完全予防くらいだろうが、完全に抑うつ状態を防ぐ、となったら話は違ってくる。
健常者だって気分の浮き沈みはあるいし、悲劇的な自体に見舞われたら抑うつ状態にもなる(大うつ病性障害ではなく)。そうなったらもうマイナスからゼロではなく、プラスになるだろう。エンハンスだろう。でも、人間の気分の浮き沈みの度合いの水準ってどこだ?
社交不安障害なんかはどうだろうか。人間の社交のゼロポイントとはどこだろうか。
現代社会に必要なコミュニケーション能力というものは、そうとうに高い基準にあるように思える。アメリカ人はプロザックをそんな目的で飲みまくったんじゃなかったか。
もしも、メガネのように気軽に社交性を高めることができるのであれば、「コミュニケーション強者の陽キャ」というところまで引き上げるべきなのか。
知的障害についてもそうだ。おれの父は一卵性双生児だ。父は頭がよく(性格は破綻していたが)、学歴でいえば早稲田大学の政経学部を出た。
が、双子の弟、おれの叔父は、軽度知的障害者だった。生後の病気の後遺症で、内臓にも疾患を持っている一級障害者でもある。
おれは物心ついたときから祖父母と叔父とも同居していたので、叔父の知的障害がどのくらいのものかについてはよくわかっている。叔父は一人暮らしをしようと思えばできたくらいだったろうとは思うが、実際のところどうかはわからない。ぎりぎりのところだ。
福祉作業所のようなところで働いていて、我が家が事業の失敗で一家離散したときには、すでにグループホームのようなところに入っていた。父とは大違いで、非常におだやかでやさしい「おじさん」だった。
さて、もし叔父の知的障害を「治せる」(この言い方に問題があるのはわかっているが、あえて使う)のであれば、どこまで「知力」を高めるのが正しかったのだろうか。双子の父と同じくらい? それとも学力でいうところの「偏差値50」? おれにはよくわからない。どこが人間の知力の「自然な」水準なのだろうか。
このように、さまざまな障害や疾患は、近視のように単純ではない。メガネをかけるくらい気軽に矯正、補正、治療できるようになったからといって、どこまで高めていいのかが難しい。
だからといって、もしも新たにメガネのような技術が生まれたときに、それを一概に拒否して「あるがまま」がよい、という意見にも簡単には賛成しにくい。障害の社会モデルという考え方は正しいとは思うが、今の日本において、メガネで矯正できる視力の人間があえてメガネを使わないことまで考慮をするべきかというと、どうだろうか。
この話には危うさが含まれている。優生主義との接近がある。障害者の存在の否定にもつながりかねない。とはいえ、視力というものについては、メガネでどうにかなっている人間として、あるいは障害の当事者として考えずにはいられない。むろん、「メガネ化」を望まない人もいるだろう。
しかし、すべてが「メガネ化」できるようになったときに、人類は「自然な人間」をどのような基準とするか、あるいは、無制限にエンハンスを許すのか、なにかしら答えを用意しておかなければならない。そのように思う。
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【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :Bud Helisson