横浜市緑区霧が丘在住 相田洋子さん 硫黄島に亡き父訪ねて 遺骨収集、平和への願い
「父はどんな所で亡くなったんだろう。それを知りたくて硫黄島を訪れました」。太平洋戦争末期、日米両軍による激しい地上戦が展開された硫黄島。同島で命を落とした父を思い、島内での遺骨収集活動に参加した霧が丘在住の相田洋子さん(84)は現在、平和の尊さ、命の大切さを伝えようと、緑区内外で戦中戦後の体験を語り継ぐ活動を続けている。
8月17日(日)、中山で開催される「サロンふらっと」にゲストとして参加する相田さん。2010年と12年に、父が戦死した硫黄島での遺骨収集活動に参加した際の体験などを語る。
島に残る激戦の跡
都心から南方に約1200Km。東京都小笠原村の一部である硫黄島には、戦後80年を迎えたいまも多くの戦没者の遺骨が眠っている。厚生労働省によると、日本側の戦没者の未収容遺骨は今年6月末現在、およそ1万1150人分。約2万1900人に上った日本側の戦死者数の、実に半数以上の遺骨が残されたままとみられている。
1945年2月から3月に掛け、硫黄島を本土空襲の中継地とすることを目論むアメリカ軍と、本土防衛のためにこの島を死守しようとする日本軍が島内で交戦。日本軍は総延長約18Kmもの地下壕を掘って戦闘に備え、上陸したアメリカ軍を迎え撃ったという。
父の手の温もり、いまも
1941年、熊本県で生まれた相田さん。4歳の時、自宅のたんすの前で母が泣いていた姿が、いまも脳裏に焼き付いている。桐の箱の中に1枚の紙。激戦地・硫黄島での父の戦死を告げる紙だった。文面に心を締め付けられた母。「異様な雰囲気だったので、よく覚えています」
父との思い出は数少ない。ただ、相田さんの記憶に深く刻まれているのは、幼き日に感じた父の手の温もりだという。「2、3歳の頃、床屋で散髪中に私の耳がはさみで切られてしまった。私は『痛い、痛い』と泣き、父と手をつないで帰った。その時の手の温もりはいまも忘れません」
結婚を機に横浜市に移り住んだ相田さん。ある日、市から硫黄島での墓参の参加者募集の情報を知り、申し込んだ。「私にとって硫黄島は大きな存在。父がどんな場所で亡くなったのか知りたかった」
2010年2月、滑走路に飛行機が降り、自身の足で硫黄島の土を初めて踏んだ時「何となく、父が喜んで迎えてくれた感じがしたんです。魂ってあるんだな、と感じました」。父を思って花を供えた相田さんは、その年の11月、遺骨収集活動のために再び訪島した。
多くの参加者と共にスコップを手に海岸にかがみ、掘り返した砂の中から次々と遺骨を発見した相田さん。ただ、長い年月を経た骨は「ポロポロポロと崩れて砂のようになってしまう。その時の辛さはもう、何と言っていいのか分からない」。涙がボロボロとこぼれ落ち、手が止まった。掘り起こす勇気を失って泣いていると、周囲から「手を動かしなさいよ」と励まされ、泣きながら掘り続けた。15日間ほどの収集作業で見つかった遺骨は、およそ150人分に上ったという。
戦地に女優写真
12年、再び遺骨収集活動に参加。島内に残された壕などでの収集に当たった。持久戦となった硫黄島での戦闘中、壕内には多くの日本兵が生活していた。アメリカ軍は地下壕に向けて火炎放射器などの猛火を浴びせたほか、ガソリンを含ませた水攻めも行い、壕内は火の海と化したと語られている。
壕の中では割れた茶碗も発見した。「見つけた時、まだご飯粒が3粒付いていた。捨てられてしまうより、語り継いだ方が亡くなった持ち主も成仏できるだろう」と、相田さんはいまも茶碗を大切に保管している。
壕の中ではない場所では、意外なものも見つかった。ある日本人女優の写真だった。「当時、戦地の青年たちは恋愛もできず、女優の写真を抱いて亡くなったんだな」と感じたという相田さん。「戦争がいかに人生を台無しにするのか」見せつけられた思いがした。
語り継ぐ幸せ
「硫黄島は多くの方が大切にしてくださっている島。画家になった母の油絵が、いまも硫黄島内に飾られているのがうれしい」。遺骨収集活動を含め、これまでに8回硫黄島を訪れたという相田さん。昨年1月には、父が生活していたとされる壕を初めて見に行った。「自分の父親がそこで生活していたという現実に、涙が出ました」
戦争の悲惨さ、平和の尊さ、命の大切さ。それらを多くの人に伝えたいと、相田さんは長年にわたり緑区内外で語り部として活動を続けている。「平和を維持していくには努力しないといけないよ」「あなたたち一人ひとりが使命を持った大切な存在なのよ」。訪れた学校で児童、生徒たちにそう伝えている。
「父が硫黄島で亡くなったことで、いまの私がある。日本を背負っていく子どもたちに、平和について語る活動に幸せを感じます」。温もりをくれた父への思いを胸に、平和への願いを未来につないでいく。