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画家ゴッホを世界に広めた女性、ヨーとファン・ゴッホ兄弟との出会い

NHK出版デジタルマガジン

画家ゴッホを世界に広めた女性、ヨーとファン・ゴッホ兄弟との出会い

フィンセント・ファン・ゴッホの義妹で、弟テオの妻ヨー。兄弟が相次いで亡くなった後、膨大なゴッホ作品を受け継いだヨーは、専門的知識も経験もないなか、作品の普及に生涯を捧げました。彼女によって、ゴッホは死後に「同世代でもっとも優れた芸術家の一人」という評価を得られたのです。
類いまれなる女性の人生と知られざる家族の物語を描いた『ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 画家ゴッホを世界に広めた女性』(ハンス・ライテン/川副智子訳、NHK出版)より一部を特別公開!
*本記事は、本書から一部抜粋・再構成したものです。

『ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 画家ゴッホを世界に広めた女性』(ハンス・ライテン/川副智子訳、NHK出版)

ヨーとファン・ゴッホ兄弟との出会い

 フィンセントに対するテオの懸念――ヨーがファン・ゴッホ兄弟について聞いたのは、それがはじめてだった。パリでのテオの生活は、フィンセントが彼のところに転がりこんできた1886年3月に一変した。オランダで何年か独学で絵の勉強と制作に取り組み、ベルギーのアントワープでごく短期間美術学校で学んだのち、フィンセントはフェルナン・コルモンのパリのアトリエにはいる決心をした。ヨーの兄アンドリースが、友人テオの兄の画家としてフィンセントと知り合い、人生と芸術の現代的な考え方を聞かされたのはこの時期だ。3人はモンマルトルにあったテオのアパルトマンで食事をした。話題は尽きなかった。ただ、アンドリースによれば、フィンセントはだれとも仲たがいをするので、テオは彼の扱いに苦労していた。
 1886年6月初旬、兄弟はモンマルトルのルピック通り54番地にあるべつのアパルトマンに引っ越したが、それからまもなくテオの体調は一気に悪化した。非常によくない状態にあるとアンドリースは両親に知らせた。両親は前年の夏にテオと会っていた。「ほんとうに具合が悪そうなんです。哀れな物乞いでも彼ほど悩みはかかえていません。彼の日常生活を兄がめちゃくちゃにしていて、まったく関係のないことでも彼を責めるんです」。その夏、アンドリースはヨーにも手紙で同じことを伝えているので、ヨーには将来の夫がどんなふうにふるまうかも、フィンセントとの生活はテオにとって試練だということも、痛いほどわかっていた。
 アンドリースは両親に、医師たちはテオが「重症の神経症」だと言っており、ここしばらく動くこともままならない状態だと報告した。テオの病に対する真剣な言及があったのはこの手紙が最初と思われる。症状はさまざまだが、1890年になるとよりはっきりと、より深刻になっていた。もし、ヨーがアンドリースの手紙を読んでいれば、当時のテオの状態を理解する手助けになったにちがいない。
 それでも、悲観と悲嘆に明け暮れていたわけではなく、明るく過ごすこともあった。兄弟がパリでともに暮らした2年のあいだに、フィンセントはテオを前衛的な画家たちに紹介した。社会問題や現代美術の方向性について、彼らの議論は白熱した。テオは妹ウィレミーンへの手紙にフィンセントのことを書いている。「兄貴は変なやつだけど、すごい頭を持っているんだよ。うらやましいね」。ワーグナーのコンサートに兄弟で行く機会も何度かあり、ふたりとも称賛を惜しまなかった。だが、テオがようやく心のやすらぎを取り戻し、ひと息ついたのは、1888年2月にフィンセントがアルルへ発ってからだった。
 フィンセントについて聞いたことすべてから、ヨーは当初から彼を深く尊敬していたものの、一方でそのことが彼女の不安を煽った。1888年12月、ウィレミーンからの手紙には、画家のヨーゼフ・イスラエルスがイェッツ・マウフェ=カルベントゥスの家に飾られていたフィンセントの《花咲く桃の木(マウフェの思い出)》(F394/JH1379)を見て、近い将来ヨーの義兄となる彼を「こいつはすごいやつだ!」と絶賛したとあった。
 ヨーは手紙を読み終えるとテオに尋ねた。「彼はわたしを好きになってくれると思う?」。愚かな質問だった。時をおかずに兄弟の強い絆を知ったヨーは、テオと結婚すれば自動的にフィンセントという存在もついてくるのだと悟った。婚約の少しまえにヨーはテオへの手紙で、フィンセントが自分の兄になりたいと思ってくれたら、どんなにうれしく誇らしいだろうと伝えた。「彼の描いたかわいい桃の木をいつも心の目で見ているの!」。これは《花咲く桃の木》のことだ。ヨーはテオの寝室にあるその絵を見たことがあり、その後の人生でもずっとその絵を大切にした。

フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲く桃の木》、1888年。油彩、カンヴァス、73.5✕93cm ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)

フィンセントへの思い

 テオが同封したフィンセントからの手紙を読んだあとには、彼への共感は最高潮となり、もう一度褒めちぎった。

 あなたはよく彼の話をしてくれたでしょう。どれほど彼を愛しているかを。いまはその意味がちゃんとわかるの。彼はあなたの人生にとてつもない影響を与えたにちがいないと理解できる。それがどこまでも気高い精神に反映されているということが……彼の手紙を読んで、わたしはもっと彼のことをたくさん知りたい、彼をもっと深く愛せるようになりたいという気持ちになっています。
 それに、以前、彼が病気だったときに、「近くにいようと遠くにいようと、彼がぼくたちふたりの助言者であり兄であることに変わりない」と、あなたが書いていたことを心から支持します……結婚したら、わたしにもなにかできることがあるかしら? 迷惑に思われるんじゃないかと心配だけれど――いまだって彼は、わたしがそっちへ行ったら、あなたのアパルトマンには絵を置く余地がなくなってしまうと思っているんじゃないかしら。あなたの小柄な妻はほとんど場所を取らないから、これまでどおりになんでも置けますって伝えてくださる?

 フィンセントに対する自分の立場を語るこの記述はきわめて重大だ。どうあっても彼女が望まないことがひとつあるとすれば、自分の存在がフィンセントと彼の作品を脇に押しやることだった。それだけではなく、彼女はなんとしてもフィンセントにとって意味のある存在になりたかった。この2か月後にもまたこのことに触れ、必要ならアルルのフィンセントに会いにいってはどうかとテオをうながし、「彼の手助けをするどころか、自分が彼の好きなものを奪うことにでもなったら困ってしまうもの」と言い添えた。フィンセントの死後、ヨーが彼のためにしたあらゆる努力の根底には、まちがいなくこの気持ちがあった。
 1889年1月なかば、フィンセントに短い手紙を書いたことをテオに報告したとき、ヨーは、フィンセントに対してもっと遠慮なく正直になれたらいいのにと内心を吐露した。正直になれないのはフィンセントを尊敬しすぎているからで、自分でもそれに気づいていた。彼のことを考えると自分が「ちっぽけな、まったく取るに足らない」人間に感じられた。この感情はテオがフィンセントについて書くたびにさらに強められた。
 テオは自尊心の強い兄の性格を、現在についても将来を見通しても型にはまらぬ発想を称えた。

 彼は現代のもっとも進歩的な画家のひとりなんだ。こんなに近い立場のぼくでさえ、彼を理解することは難しい。人道的とはなにか、あるいは、われわれは世界をどう見なすべきか、さまざまな疑問について、彼はほかの考え方を一掃するようなすごい発想をする。だから、彼の言いたいことを把握するためにはまず、慣習にとらわれた自分の考えを捨てなければならない。しかし、きっといつか彼が理解される日が来るだろう。

 テオは、社会においても美術においても一般的に適切とされる考えと格闘しているフィンセントへの思いをヨーに語るだけでなく、光と太陽があふれるモネの作品の生命力と自由についても熱弁をふるった。彼にとってモネの絵はどれも自分を励ます太陽の光線だった。こうした美的体験はテオを励まし、美術はふたつの意味で啓発的な強い力を持っているとヨーに伝えた。これは、現実はべつの現実と比べてはじめて耐えうるという重要な発想である。
 こんなふうにしてヨーの好みは早いうちから進化していた。結婚式が近づいてきたあるとき、ヨーはフィンセントの果樹園三部作がとても好きなので居間に飾っていいかとテオに訊いた。この三部作とは《花咲く果樹園》(F555/JH1380)、《ピンクの桃の木》(F404/JH1391)、《白い果樹園》(F403/JH1378)のことで、後年の彼女の暮らしでも目につく場所を占めることになり、最初は彼女の寝室に、その後は居間に飾られた。

アムステルダム、コーニンギン通り77番地の住まいの居間。1922~1925年

 1889年5月、テオとヨーが結婚すると、画家のポラックが食事に招かれてやってきた。ポラックはテオと美術や画家について話しはじめ、山のように積まれたフィンセントの素描にふたりで目を通した。ヨーはふたりの話に耳を傾け、素描を観察した。
 そのときのことを姉ミーンに伝えながら、フィンセントを筆まめな人だと評した。「彼はいつも見事な手紙を書くの。あんな手紙はめったに読んだことがないわ。だけど、精神はむしろ疲弊しているのよね」。実際、フィンセントは疲れ果てていた。ヨーとミーンがこんなやりとりをしていた週に彼はサン=レミの療養院にみずから入院している。ヨーはフィンセントの作品になじむことから始めなければならないと思った。「最初に見た彼の作品がひどく風変わりなものばかりだったの。でも、はるかに理解しやすい油彩画もたくさんあって、それらはもう、ほんとうにすばらしいのよ!」

双対のテオとフィンセント

 ヨーの思いはアムステルダムからパリを経てサン=レミへと流れ着いた。ヨーは自分の内なる悲しみについて、そして兄弟愛というコインの裏側について姉ミーンへの手紙に綴った。

 ピアノはまだあまり弾いていないの。なぜだかわからないけれど、胸の内でなにかが死んでしまった感覚があって、もうなにも楽しめない気がするし、本も読みたくない。絵を見る気にもなれない。そんなことをしてもちっとも楽しくない。
 だからといって、いまのわたしになにができる? テオがゾラを読めとしきりに言うから、『ムーレ神父のあやまち』を読みはじめたところ。でも、やけに不自然だと思うだけで、なにひとつ興味をそそられないの。ところが、テオは褒めちぎるのよ! ……つねにテオに幸せを感じさせることさえできれば、わたしはそれだけでいいのだけど、そこにはいつもフィンセントがいる。幸せも満足も分かちあうことのないフィンセントが。なぜなら彼はなんでも少なすぎるより多すぎるほうを選ぶから――仕事も苦労も。そして、その感覚はテオにも植えこまれているのよ。

 ヨーによれば、フィンセントは夫婦の新居のいたるところで自分の絵に目が向くことを求めていた。壁だけでなくベッドの下でも床の上でも。要は、額に収められていないカンヴァスが床のそこここに置かれているので、どこにいても目にはいってしまうのだった。パリのアパルトマンを自分の家庭にしたいと願いながらも、ヨーにはまだそれができていなかったということだろう。妊娠もヨーの気分や知覚に悪影響があったかもしれないが、それだけが要因ではなかったはずだ。
 自分たちの家庭と生活のいたるところにフィンセントの存在があることに対する複雑な感情については、数年後、画家のポール・ガシェ・ジュニアに送った手紙でも述べている。そんな彼女の気持ちを責めるわけにはいかない。テオとフィンセントとの張りつめた複雑な関係のなかでヨーはあくまで二次的存在であり、当然ながら、そのことが彼女の結婚生活の幸せに影響をおよぼしていた。振り返れば苦い思い出だが、ヨーが当時の気持ちを人に語ることはほとんどなかった。

ハンス・ライテン Hans Luijten

ファン・ゴッホ美術館上席研究員。2019年に刊行した本書のほか、著書にVan Gogh and Love (2007)、共編著にVincent van Gogh, Painted with Words (2007)、Vincent van Gogh-The Letters (2009)がある。2019年にヨー・ボンゲルの未発表の日記のバイリンガル版も制作した(以下でデジタル版を入手できる。bongerdiaries.org)。

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