#5 シェイクスピアの「謎」――河合祥一郎さんが読む、シェイクスピア『ハムレット』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
東京大学大学院教授・河合祥一郎さんによる
シェイクスピア『ハムレット』読み解き #5
「優柔不断」な青年は、ある答えにたどり着く――。
父を殺された青年ハムレットは、なぜ復讐を先延ばしにするのか。「理性」と「感情」に引き裂かれる近代人の苦悩を描き出した、シェイクスピア悲劇の最高峰、『ハムレット』。
『NHK「100分de名著」ブックス シェイクスピア ハムレット』では、『ハムレット』を単なる「復讐劇」ではなく、存在の問題を追求する哲学的な作品として、シェイクスピア研究の第一人者・河合祥一郎さんが解説します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします
(第5回/全6回)
シェイクスピアという人物
ウィリアム・シェイクスピアは、イングランドのストラットフォード・アポン・エイヴォンという田舎町で一五六四年に生まれ、一六一六年にその地で没しました。「ヒトゴロシ(一五六四)の芝居をイロイロ(一六一六)書いた」という覚え方があります。エリザベス一世の治世(一五五八~一六〇三)からジェイムズ一世の治世(一六〇三~二五)にかけての、広義のエリザベス朝時代に活躍しました。
シェイクスピアという人物は謎に包まれています。手袋職人であった父親のジョンは町長まで務めた地元の名士なのですが、あるとき急に社会的にも経済的にも没落し始めます。そんななか、公立学校を十五歳で卒業したらしい長男のウィリアムは、十八歳のときアン・ハサウェイという八歳年上の女性といわゆる“できちゃった結婚”をし、長女が生まれたと思ったらすぐまた双子ができて、二十歳そこそこで三人の子持ちのパパになります。そして妻子を置いて忽然と消えてしまいます。それから八年後の一五九三年に再び現れたときには、いきなり大都会ロンドンで詩人となり、すでに役者・劇作家ともなっていました。この蒸発と大変身がいったいどういうことなのかというのは、いまだに謎なのです。
本当に同じ人なのだろうかと誰もが思うわけで、シェイクスピア別人説というものが、いまだに根強くあります。それについては『シェイクスピアの正体』(新潮文庫)という本で詳しく検証しましたが、当時最大の知識人であり哲学者であったフランシス・ベーコンをはじめ、およそ六人もの別人候補がいます。“教育のない田舎者のウィリアム・シェイクスピア”とは別に、ペンネームで「ウィリアム・シェイクスピア」を名乗る匿名の劇作家がいたのではないか、というのです。
しかしたとえばベーコンは、文体が硬質でシェイクスピアとは決定的に違いますし、しかも演劇が大嫌いだったので、ありえないでしょう。別人説で優勢なのは第十七代オックスフォード伯爵という人物で、調べてみると確かにこの人は、本当に匿名で戯曲を書いたりもしていたらしいのです。ただし問題は、シェイクスピアの作品は一六一一年まで書かれ続けているのに、伯爵が一六〇四年にペストで死亡していることです。という具合に諸説はそれぞれ面白いのですが欠点があり、私なりの結論を言いますと、ストラットフォード・アポン・エイヴォン出身の田舎者シェイクスピアが、やはり劇作家シェイクスピア本人であると言わざるをえないように思えます。
ところで、なぜ匿名の別人説がリアリティを持つのかというと、その頃、戯曲は文学作品とは見なされていなかったからです。役者のために台本を書くことは、ある意味で身を持ち崩すことでした。神学者にもなれず外交など政府の職にも就けなかったけれども、韻文を書く才能はあるという“大学出の才人”が、仕方なく戯曲を書いて劇団に売って小遣い稼ぎをするという時代だったのです。しかも、当時の役者は、貴族の家来になってお仕着せをもらい、身元保証人になってもらわないと浮浪者扱いされて逮捕されてしまうような、きわめて身分の低い存在でした。ですから、身分ある人が自分の作品を卑しい役者たちに提供することを隠すのは考えられることでした。
この頃、エリザベス朝演劇は急速に発展しました。イギリスで初めて本格的な劇場シアター座ができたのは、シェイクスピアが十二歳のときの一五七六年。そのシアター座が、のちにシェイクスピアの活躍の場となり、一五九九年に場所を移して建て替えられ、グローブ座と名づけられます。日本で阿国歌舞伎が京の都に登場するのは一六〇三年ですが、それはちょうどエリザベス一世が死んでジェイムズ一世に代わると同時に、シェイクスピアのいた宮内大臣一座という劇団が国王の庇護を得て、国王一座という名に変わる年です。
グローブ座は当時大変な人気でした。一ペニーで屋根のない平土間での立ち見ができ、さらに一ペニー出すと屋根付きの回廊席に座れる、さらにお金を出すと二階に座れるというふうに料金が分かれていたので、最上席の貴族たちから、平土間の民衆まで、様々な階層の人たちが集まっていました。立ち見の平土間には町中の人が来るので、丁稚奉公の子もいれば、娼婦もポン引きもスリもいる。物売りもいて勝手に商売を始めてしまう。都会の雑踏がそのままグローブ座に入っているという状況なのです。貴族たちは、群衆が臭うので香水を使い、できるだけ上階から降りてこないし、入口も別です。エリザベス一世も見に来たと言われているので、まさに上は女王から下は浮浪者に近い人たちまで、最大で三千人もの観客を収容できたと言われています。
シェイクスピアは一五九四年にできた宮内大臣一座の役者兼座付き作家となり、劇団幹部として公式書類に記録されており、その二年後には「紳士」の身分を買い取っています。高貴(noble)な人間として気高く生きたいという志向が、彼には強くあったのでしょう。そして後にはストラットフォード・アポン・エイヴォンで二番目に大きな屋敷を買って妻子を住まわせ、故郷に錦を飾りました。
シェイクスピアは金持ちになりましたが、間違えてはならないのは、決して有名な作品を書いた劇作家として財をなしたのではないということです。彼は劇団の役者をしながら、仲間のために次々と芝居の台本を書きましたが、台本は買い取りだったので公演がどれほどヒットしても劇作家は儲からない。出版された場合も、印税や、ましてや著作権もまだない時代でした。彼が財を成したのは、劇団幹部として上演の収益の分け前に与ったからです。他の劇団幹部たちも故郷に錦を飾りました。
劇作家の地位が確立していない時代だったので、シェイクスピアが最初に出版したのは戯曲ではなく、詩作品でした。はじめのうちはシェイクスピアの戯曲が出版されても、作者の名前すら載りません。当時は共作も多く、作品を誰が書いたかということはあまり問題にされなかったからです。出版された戯曲に作者シェイクスピアの名が初めて記されるのは一五九八年のことです。すっかり創作活動が軌道に乗ったシェイクスピアが、そのとき以降、劇作家という存在に対する世の中の評価を変えていったのです。
著者
河合祥一郎(かわい・しょういちろう)
東京大学大学院教授。専門はシェイクスピア、英米文学・演劇。東京大学文学部英文科卒業後、同大学院にて博士号、英ケンブリッジ大学にてPh.D.を取得。おもな著書に『ハムレットは太っていた!』(サントリー学芸賞、白水社)、『シェイクスピアの正体』(新潮文庫)ほか多数。シェイクスピア戯曲の新訳のほか、ルイス・キャロル、C・S・ルイスなどの作品を翻訳。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス シェイクスピア ハムレット 悩みを乗り越えて悟りへ』(河合祥一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
*本書における『ハムレット』引用部分の日本語訳は、著者訳『新訳ハムレット』(角川文庫)によります。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年12月に放送された「ハムレット」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「ハムレットの哲学」、読書案内などを収載したものです。