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コロナ禍で甲子園中止、あの夏の高3が大学を経て社会へ巣立つ。 藤枝明誠“最強世代” 主将は野球に区切り、エースはNPB目指す

アットエス

甲子園中止が決まり、「戦う意味」を模索しながら練習を続けた斉藤選手(左)と村松選手=2020年6月

「あの夏、甲子園があったら」

部活動の集大成となる大会が、新型コロナウイルス禍によってことごとく開催を阻まれた2020年。夏の全国高校野球選手権も戦後初の中止を余儀なくされた。悲運を受け入れるしかなかった当時の高校3年生が今春、大学を卒業し、社会へと巣立つ。

あの年、歴代最強の布陣を擁し、2度目の甲子園出場を狙っていた藤枝明誠高野球部。主将だった村松杏都さん(専大4年、浜松市出身)、エース左腕の大石航さん(日本経済大4年、吉田町出身)、中軸を担った斉藤龍幸さん(拓大4年、静岡市葵区出身)、俊足巧打の外野手、中澤孝太さん(拓大4年、静岡市清水区出身)。大学でも野球を続けた4人に、あの時の経験をどう受け止めてきたのかを聞いた。

村松さん:「コロナは“思い出”とは言えないもの。記憶から消している人も多いし、話したくない人も多い。甲子園をテレビで見たり、後輩の応援にも行くんですけどね」

中澤さん:「コロナの過去を美化はできない。決していい思い出にはならない。あの時があったから良かったとは言えない。でも無駄にしちゃいけない。自分の人生の足しになればと思っている」

大石さん:「コロナは続いたけれど、大会がなくなったのは自分たちだけ。後輩たちが甲子園を目指して、本気でやっている中で、自分たちもやりたかったなと。後輩の試合を見るたびに毎年思う」

斉藤さん:「当時も今も、運命だなと思っている。悔いが残っていないとは言えないけれど、一生つきまとうものではない。自分の中では解消されている」

歴代最強チームの呼び声

今春大学を卒業し、社会に巣立つ藤枝明誠“最強世代”(2025年1月)


4人は2017年夏に甲子園初出場を果たした世代に憧れ、藤枝明誠の門をたたいた。県内外の有力選手が集まり、高2の秋、下馬評通りの強さを発揮して静岡県大会初優勝。けれども続く東海大会は準決勝で、高橋宏斗投手(中日)を擁する中京大中京(愛知)に5−12(8回コールド)で敗れ、選抜大会への道は絶たれた。

中京大中京はその後の明治神宮大会で優勝し「神宮枠」を東海地区にもたらしたが、東海3校目に選ばれたのは、東海大会準決勝で県岐阜商に延長戦の末、3−4で惜敗した同じ静岡県の加藤学園だった。

当時の主将、村松さんは「東海大会準決勝で負けた時点で、甲子園に行ってもだめかなと思っていたので、春に向けて気持ちを切り替えていた。夏は絶対に行く、と」

選抜を逃し、むしろ冬の練習に一層気合が入った。中澤さんも「冬の取り組みを通じて秋とは別のチームになっていた。(甲子園に行く)自信はあった」と振り返る。

チャンスすらないのか…

甲子園中止が決まり、代替大会に向けて練習する村松選手(手前)と斉藤選手=2020年6月


コロナが猛威を振るい、選抜は中止、春季大会も行わないことが決まった。それでも「夏があればいい」。そう思って、グラウンドの片隅で各自が自主練習を続けていた。

夏はあるのか、ないのか。多くの選手が自粛生活を送る寮には、重苦しい空気が漂っていた。

2020年5月20日、夏の甲子園も中止が決まった。「夏しかないと頑張ってきたので、ショックは大きかった」という大石さんをはじめ、全員が打ちひしがれた。中澤さんは「チャンスすらないのがつらかった。でも、あるのかないのか、分からない状況で毎日過ごしていて、結末が決まってホッとしたのも覚えている」と当時の心境を明かした。

「人を引っ張る人間に」

秋の東海大会準決勝で先制打を放った村松選手(2019年11月)


この春、村松さんは野球に区切りを付けて県内の企業に就職する。

あの夏、甲子園中止が決まり、静岡大会の代替大会開催案が持ち上がったものの、3年生の中には「戦う意味」を失い、部活動を続けることに難色を示した選手もいた。

村松さんは「甲子園がなくなったなら後輩に練習させた方がいいという意見も出た。既に後輩が全体練習、自分たちは自主練習という形を取っていたけれど、代替大会に後輩が出るのは違うと思っていた」3年生一人一人に働きかけ、「最後の夏をみんなでやろう」と声をかけ、分裂しかけたチームを一つにまとめることに注力した。

3年生全員で臨んだ代替大会は2回戦で聖隷クリストファーに1−3で敗戦。村松さんは「7イニングだったのであっという間だったけれど、やり切ったという気持ちはあった」と言う。

試合の結果よりも、主将としてチームを最後の大会に導いたことが、充実感として胸に残った。「最後の大会を全員でやれるように、苦労したけれど、あの時チームをまとめられて良かった。社会に出ても自分の思い通りにいくようなことは少ないと思う。忍耐力は身に付いたかなと思うし、無駄じゃなかったと思う。会社でも人から信頼され、引っ張っていけるような人間になりたい」と静かに語った。

「やれることをやる」

秋の東海大会に出場する中澤選手(2019年11月)


中澤さんは大学3年春に咽頭炎をきっかけに体調を崩し、体重が一気に15キロ減った。競技復帰を諦めマネジャー、主務としてチームを支えた。

「最初はすごいつらかった。でも、高1から試合に出ていて、裏方の気持ちは分かっていなかったので、いい機会だとプラスに受け止めた。『やれることをやる』。それが明誠で学んだこと。コロナによって考え方も確実に変わった」

卒業後は野球を離れ、目標にしていた自動車販売店の営業職に就く。「コロナ禍でいろんな大人の支えを感じた」と受け止める中澤さん。「将来の夢は父(勇一さん)のような父親になること。中学時代、朝6時からティーを上げてくれたり、ノックを打ってくれたり練習につきあってくれた。それがあって今がある」

さまざまな試練を乗り越え、感謝の思いを強くしている。

「可能性を試したい」

秋の東海大会準決勝で力投する大石投手(2019年11月)


大石さんは、プロ野球2軍ウエスタンリーグのくふうハヤテに入団した。「野球をやれているうちは、NPBを目指せる環境があるのなら、そこに飛び込んで自分の可能性を試したい」と挑戦を決めた。

プロに憧れて野球を始めた。目指してきたのは甲子園だけじゃない。「人との出会いも自分の運。人とのつながりを大事にしたいと思った」

中学、高校、大学と人との縁に導かれてきた。ハヤテ入りも、大学のコーチとハヤテの池田省吾球団社長が知り合いだったことから選択肢に浮上した。「ハヤテからNPBに行くのが目標。毎試合がアピールの場になる。自分のいいところを出していきたい」と夢を追い続ける。

「応援してくれる人のために」

秋の東海大会準決勝で本塁打を放った斉藤選手(2019年11月)


斉藤さんも社会人硬式クラブチームの焼津マリーンズで野球を続ける。高2秋の東海大会で中京大中京の高橋投手から本塁打を放った強打者だが、大学4年間は有鉤骨骨折や肘のじん帯断裂など大きなけがに苦しんだ。

野球を辞めようと思ったこともあった。「高校での経験があったから、大学では全力でやり切ろうと決めた。代打やDHと出場の機会は少なかったけれど、一打の重みを味わえたし、全力で追い込めた」。建設業で働きながら、野球にも打ち込む。「人に支えられて、やってきた。次のチームでも仲間や支えてくれる人、応援してくれる人のためにやりたい」

(編集局ニュースセンター・結城啓子)

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