最高峰の謎解き――河合祥一郎さんが読む、シェイクスピア『ハムレット』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
東京大学大学院教授・河合祥一郎さんによる
シェイクスピア『ハムレット』読み解き #1
「優柔不断」な青年は、ある答えにたどり着く――。
父を殺された青年ハムレットは、なぜ復讐を先延ばしにするのか。「理性」と「感情」に引き裂かれる近代人の苦悩を描き出した、シェイクスピア悲劇の最高峰、『ハムレット』。
『NHK「100分de名著」ブックス シェイクスピア ハムレット』では、『ハムレット』を単なる「復讐劇」ではなく、存在の問題を追求する哲学的な作品として、シェイクスピア研究の第一人者・河合祥一郎さんが解説します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします
(第1回/全6回)
謎めいた最高峰(はじめに)
『ハムレット』は、一六〇〇年頃にイギリスで書かれてから、四百年以上経ったいまもなお頻繁に読まれ、世界中で上演され続けている、シェイクスピア悲劇の最高峰です。
これは四大悲劇の最初の作品でもあります。四大悲劇とは、シェイクスピア後期の戯曲のうち、悲劇時代と呼ばれる一六〇〇~〇六年に書かれた『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』の四つの悲劇を指します。有名な『ロミオとジュリエット』がこのなかに含まれないのは、初期の作品だからです。悲劇の他にも、シェイクスピアは喜劇や歴史劇、問題劇(喜劇だが観終わってすっきりしない劇)、ロマンス劇(荒唐無稽な物語劇)と分類される戯曲を、共作も含めておよそ四十作書いたとされています。
なかでも『ハムレット』は大変よく知られた戯曲ですが、これはおそらく一般に考えられているよりもさらに奥の深い作品です。そしてこの作品は多くの謎に満ちています。
なぜハムレットはぐずぐずと復讐を遅らせ、あっさりと仇をとってしまうことができないのか? なぜハムレットはオフィーリアに「尼寺へ行け」などと言うのか? オフィーリアを愛していないのか、愛しているなら、なぜあんなにひどい、冷たい仕打ちができるのか──。
『ハムレット』の謎は、他にも挙げればきりがないほどたくさんあって、今日にいたるまで多くの人々を悩ませてきました。『ハムレット』が「文学のモナ・リザ」とか、「演劇のスフィンクス」とか呼ばれてきた所以(ゆえん)です。またその謎によって、『ハムレット』は数々の誤解も生んできました。ハムレットは優柔不断な青年だから、なかなか行動への決断ができないのだ──そんな誤解をしている人も多いのではないでしょうか。
誤解を解くためにはまず、この作品が復讐劇として始まりながら、後半はもはや復讐劇ではなくなるという複雑な構造をおさえておく必要があります。劇の焦点は、人が生きるとはどういうことかという問題に移ります。これはきわめて哲学的な劇なのです。
そもそもシェイクスピアはとっつきにくい、と思われる方もいらっしゃるでしょう。確かに、ほんの一言でさらりと言えそうなことを厖大(ぼうだい)な言葉で延々と語ったり、普通なら使わないような言い回しを使ったりするので、慣れないと驚かれるかもしれません。それはなぜかといえば、シェイクスピアの台詞は詩であり、ときおり日常の言葉である散文を混ぜ合わせながらも、ほとんどが韻(いん)文のリズム(韻律)で朗唱されるものだからです。
また、「シェイクスピア・マジック」ともいわれるように、いきなり時間や空間がワープしたりすることもあって、私たちが考えるリアリズムでは理解できない、つじつまが合わない現象も起こります。これを理解するためには四百年前のルネサンスの時代、シェイクスピアが活躍したエリザベス朝演劇の舞台についても知る必要があります。シェイクスピア劇は西洋の翻訳劇なので、日本では新劇(近代演劇)の仲間だと勘違いされることも多いのですが、実はそうではなく、日本でいえば徳川家康の時代のものですから(シェイクスピアと家康の没年は同じ一六一六年です)、むしろ狂言の舞台に近いものでしょう。
そんなあれこれも含めて、これからこのミステリアスな最高峰の謎解きに挑んでみたいと思います。それは、なぜこの作品がこれほどまでに人々の心を摑むのか、という大きな謎を解こうとする試みともなるはずです。
著者
河合祥一郎(かわい・しょういちろう)
1960年生まれ。東京大学大学院教授。専門はシェイクスピア、英米文学・演劇。東京大学文学部英文科卒業後、同大学院にて博士号、英ケンブリッジ大学にてPh.D.を取得。おもな著書に『ハムレットは太っていた!』(サントリー学芸賞、白水社)、『シェイクスピアの正体』(新潮文庫)ほか多数。シェイクスピア戯曲の新訳のほか、ルイス・キャロル、C・S・ルイスなどの作品を翻訳。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス シェイクスピア ハムレット 悩みを乗り越えて悟りへ』(河合祥一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利等の関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
*本書における『ハムレット』引用部分の日本語訳は、著者訳『新訳ハムレット』(角川文庫)によります。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年12月に放送された「ハムレット」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「ハムレットの哲学」、読書案内などを収載したものです。