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「日本語でしか歌いたくない」と、数々のシャンソンを日本語歌詞で日本人に浸透させた、パリ・オートクチュールの香りの〝コーちゃん〟の代表曲 越路吹雪「愛の讃歌」

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「日本語でしか歌いたくない」と、数々のシャンソンを日本語歌詞で日本人に浸透させた、パリ・オートクチュールの香りの〝コーちゃん〟の代表曲 越路吹雪「愛の讃歌」

 カルメン・マキの回でも触れられていたが、今回もNHKで2月11日に放送され大反響を呼んだ1969年第20回のNHK紅白歌合戦から、説き起こしてみる。この年の紅白は、今に歌い継がれる昭和の名曲ぞろい、歌謡曲黄金時代と評判の回で、20回目の節目ということもあったかもしれないが、坂本九「見上げてごらん夜の星を」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」、西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」、フランク永井「君恋し」、ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」、岸洋子「夜明けのうた」、村田英雄「王将」などなど、歌謡史に残るシニア世代にはなじみ深い曲が数多く登場している。島倉千代子「すみだ川」と三波春夫「大利根無情」のセリフ入り対決も見応え十分。

 鬼籍に入ったり、表舞台から退いたりした歌手の歌唱映像が見られるのが感慨深い。もちろん同年のヒット曲も、青江三奈「池袋の夜」、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」、由紀さおり「夜明けのスキャット」、佐良直美「いいじゃないの幸せならば」、森山良子「禁じられた恋」、弘田三枝子「人形の家」、黛ジュン「雲にのりたい」、鶴岡雅義と東京ロマンチカ「君は心の妻だから」、森進一「港町ブルース」など、いずれも口ずさめるものばかりで、歌謡界にとっていい時代であったなとつくづく実感する。大トリの美空ひばりが、ブルー・コメッツの井上忠夫のサックスにのせ歌った「別れてもありがとう」も、ひばりにしかできない圧巻のパフォーマンスだった。ステージの両サイドの紅白それぞれの陣営ひな壇に、出場歌手が座っているのを見るのも楽しい。

 そして、この回がシャンソンの女王〝コーちゃん〟こと越路吹雪の15回目の出場にして、紅白での最後のステージとなった。越路吹雪45歳であるが、貫禄の見せ場をつくる。対戦が始まる前、越路は、紅組の応援団長よろしくハチマキをして「ガンバレ、ガンバレ紅組」「ガンバレ、ガンバレゆかりちゃん」と紅組司会の伊東ゆかりにエールを贈る。大御所越路吹雪のリサイタルなどのステージで魅せる大歌手の顔とは異なる気さくな一面を垣間見た思いだ。奥村チヨが「恋泥棒」を歌唱した際には、紅組応援にかけつけた水の江瀧子、森光子、黒柳徹子、林美智子(連続テレビ小説「うず潮」のヒロイン林芙美子を演じ人気者となった)ら歴代紅組司会者たちと一緒に、舞台の前面で「あなたのことを」という歌詞にあわせて、客席や白組を指さすジェスチャーも率先してやってみせた。

 
 越路吹雪は宝塚歌劇団第27期生で、男役スターとして戦中から戦後にかけて大活躍した。同期には月丘夢路や乙羽信子がいる。〝清く正しく美しく〟をスローガンに掲げる宝塚において越路は異色の存在で、門限破りの常習犯であり、〝不良少女〟とあだ名されていたというから、前述した紅白での姿も、越路の一面としてあるのかもしれない。

 その最後の出演となった紅白で披露したのが、フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフが歌ったシャンソンの名曲で、日本で最も親しまれているシャンソン「愛の讃歌」だった。もっとも、「愛の讃歌」を日本人に浸透させたのは越路自身なのだが。編曲は夫君の内藤法美が担当した。紅組5番手として越路吹雪はセリから印象的に登場した。この回、セリから登場したのは越路吹雪と芸妓姿で歌った島倉千代子だけだった。イヴ・サンローランのオートクチュールのドレスで歌う越路は、まさに〝シャンソンの女王〟の貫禄。客席ばかりではなく、ひな壇にずらりと並んだ歌手たちをも一瞬にして越路吹雪の世界に引き込んだ。島倉千代子などは飛び跳ねて拍手していた。

 越路が「愛の讃歌」を初めてステージで歌ったのは、52年に出演した日劇シャンソンショー『巴里の唄』の劇中歌としての歌唱だった。原曲の作詞はピアフ自身で、49年に恋人だった元世界ミドル級チャンピオンのボクサー、マルセル・セルダンがニューヨークからピアフの公演を観るためにパリに向かう途中に飛行機事故で死んでしまう。その後に書かれた作品で、詩の内容は、〝空がおちても、大地が崩れても恐れない〟〝あなたのためなら友だちや祖国さえも裏切る、世界がどうなってもかまわない〟〝あなたが愛してくれるなら死をも恐れない〟というような、すさまじいまでの愛の告白である。

 越路が歌ったのは、〝あなたの手で抱きしめられ、くちづけを交わす喜び〟〝二人だけで生きていきたい、私の願いはただそれだけ〟という愛し愛される幸せな確信からの素直にほとばしる情熱的な言葉である。作詞は岩谷時子。日本語版で最も親しまれているバージョンで、一時期は結婚披露宴でもよく歌われていた愛の名曲である。

「日本語でしか歌いたくない」という越路の求めに応えて「愛の讃歌」以外にも、「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」「ろくでなし」「夢の中に君がいる」など、岩谷は、越路のために多くのシャンソンを越路のイメージにあわせて訳詞し、ヒットへと導き、越路の代表曲へと押し上げた。宝塚時代からの親友であり、マネージャーでもあった岩谷時子は、越路のためだけの越路吹雪のシャンソンを創り上げたのだ。

 
 最近ではピアフの原曲に忠実な訳詞で歌うアーティストたちも増えたが、岩谷時子=越路吹雪を通じて「愛の讃歌」は日本人にもなじみとなっていったのだ。俳優の故・原田芳雄もライブで「愛の讃歌」を歌っていたが、岩谷時子版の訳詞だった。そこに並べるのはおこがましいが、高校一年の選択科目の音楽の授業での歌のテストで、ぼくは岩谷時子訳詞の「愛の讃歌」を歌った。音楽の副読本にも掲載されていたのだ。

「愛の讃歌」のシングルレコードを越路が初めてリリースしたのは、日本コロムビア時代の54年。その後、東芝音楽工業に移籍し60年にもリリースしている。今回のイラストは60年版で、ジャケットには「愛の賛歌」と印字されている。68年、69年にもリリースしている。

 越路の紅白初出場は、まだテレビ放送が始まっていない52年第2回のラジオ放送時代で、しかも緊急代役での出場だった。テレビで紅白が放送されるようになってからは56年の第7回が初出場である。61年と、63年(つい先ごろNHKのBS放送で再放送された現存する紅白歌合戦の最も古い映像で、視聴率はすべてのテレビ番組史上1位の81.4%)では「ラストダンスは私に」を披露し、64年には「サン・トワ・マミー」を歌唱しているが、紅白で「愛の讃歌」を歌ったのは69年の第20回が初だった。ファンにとっても待望の歌唱だったに違いない。

 もしかして、越路吹雪自身、これが最後の紅白出場と決め、満を持して「愛の讃歌」を選んだのではないかと想像するのは、過ぎた勘繰りだろうか。越路吹雪は不世出の、まさに豪華なオートクチュールのイメージをまとった昭和の大スターであったことは、60年代の紅白歌合戦の映像からも確信できる。

 69年にスタートした東京・日生劇場でのロングリサイタルは、亡くなる年の80年まで53回続いた。70年代当時、最もチケット入手が困難なライヴ・ステージの一つとも言われるほどの人気を誇った。ファンのみならず、多くの後輩歌手たちからも愛され慕われた越路吹雪。2025年は没後45年に当たるが、その死後も、越路吹雪のステージは多くの人々の心に鮮やかに刻み込まれている。

文=渋村 徹 イラスト=山﨑杉夫

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