【夏の甲子園】で忘れられない一戦は?延長17回の死闘「横浜 vs PL」は強豪同士の頭脳戦!
連載【新・黄金の6年間 1993-1998】vol.33
▶ 第80回全国高等学校野球選手権大会準々決勝「横浜高校 vs PL学園」
夏の甲子園、忘れられない一戦
始まる前は色々言われながらも、始まると盛り上がるのは、オリンピックも高校野球もよく似ている。
スケジュール通りなら、今日が夏の甲子園(全国選手権大会)の決勝戦。あなたにとって、今大会のベストバウト(最高の試合)はどの試合でした? 個人的には、3回戦の『早実 vs 大社』の延長11回タイブレークで決した一戦を推したい。では、もう一つ質問。あなたにとって―― 歴代の “夏の甲子園” で忘れられない一戦はなんですか?
僕より上の世代―― 60代以上の方々なら、例えば1969年夏の決勝戦、『松山商 vs 三沢』の延長18回再試合を強烈に憶えている人が多いだろう。三沢の太田幸司投手がハーフゆえのイケメンで、女子高生から “コーちゃん” なんて呼ばれてアイドル的人気を博した、あの夏だ。結局、太田は1人で再試合も投げ抜き、負けて準優勝に終わって、“判官びいき” な日本人は、更に彼に惹かれたという。
僕(1967年生まれ)なら、1979年夏の『星稜 vs 箕島』の延長18回を挙げたい。当時、僕は小学6年生で、家族と一緒にオンタイムでテレビを見ていた。延長戦に入り、2度星稜が勝ち越すも、その裏2アウトからいずれも箕島がホームランで追いつく神展開。2度目なんて2アウトから平凡なファウルフライが一塁側に上がり、万事休すと思ったら、一塁手が転んで、その直後に同点ホームランというリアルドラマ。最後は箕島の劇的な18回裏のサヨナラで終わった。
21世紀で言えば、2006年夏の決勝戦、『駒大苫小牧 vs 早稲田実業』の延長15回再試合を挙げる人も多いだろう。ご存知、駒苫のマー君こと田中将大投手と、早実のハンカチ王子こと斎藤佑樹投手のライバル対決が注目された一戦。150キロを超す速球が武器の “剛” の田中に対し、多彩な変化球が持ち味で、時にハンカチで汗をぬぐう “柔” の斎藤と、対照的なキャラクターも話題になった。前述の『松山商 vs 三沢』以来37年ぶりとなる決勝戦の再試合という点でも注目された――。
ここで、1つのエクスキューズがある。以前は延長18回だったのが、なぜこの時は延長15回までだったのか。まぁ、高野連がやっと重い腰を上げたんだけど、投手の球数問題である。まだ体が成長途中の高校生に何百球も投げさせていいのか、と。高校時代の投げすぎが原因で、肩やひじに何らかの後遺症が残った投手の例は少なくない。代表的なのは江川卓だろう。そんなこんなで、2000年春の “センバツ” 大会から、高校野球の延長戦が最長15回に短縮されたのだ。
250球を投げ切った “平成の怪物” 松坂大輔投手
―― で、ここからが本題。高野連にそんな風にルールを改定させるキッカケになった試合が、今回のテーマ。時に、今から26年前の1998年8月20日―― 夏の甲子園で行われたベスト8の第1試合『横浜 vs PL学園』の伝説の “延長17回” である。この試合を1人で “250球” を投げ切ったのが、横浜高校の “平成の怪物” こと松坂大輔投手だった。あるいは、同試合を夏の甲子園の忘れられない一戦に挙げる人も多いだろう。
実は、僕はこの試合をオンタイムで見ていない。その日は平日の木曜日。当時、僕は会社員だったので、普通に勤務中で、外出していたからだ。ただ、出先から会社に電話した際、先輩から “甲子園で凄い試合をやってたぞ” と聴かされたのを覚えている。結局、その日の夜のスポーツニュースで内容は把握したが、こういうのは、オンタイムで試合を見ないと、やはり感動は伝わりにくい。
プロ野球にも劣らない、強豪校同士の巧妙な情報戦や頭脳戦
そう思っていた矢先、2週間ほど過ぎた9月上旬、NHKスペシャルで『延長17回~横浜vsPL学園・闘いの果てに~』と題して、件の一戦のドキュメンタリーが放送されたのだ。視聴して、僕は驚いた。そこに描かれていたのは、単なる高校野球ではなく、プロ野球にも劣らない、強豪校同士の巧妙な情報戦や頭脳戦だった。
“なぜ、ここまで打たれるのか”―― 番組は、そんなナレーションから始まる。語りは山本浩アナ。スポーツ実況のベテランで、この人選で作られる番組なら間違いない。場面は2回裏のPLの攻撃。珍しく松坂が打たれている。困惑した表情だ。ここで、PLの3塁コーチ(キャプテンの平石)がクローズアップされる。なんと、彼が横浜のキャッチャー小山の構えから、松坂の放つ球種を見破り、それを “掛け声” でバッターに伝えていたのだ。
それは―― コースギリギリにミットを構え、腰がほとんど動かない時は『ストレート = 行けー、行けー!』。一方、腰を浮かせ気味に揺らし、ゆったり構えた時は『カーブ = 狙え、狙えー!』―― というもの。この回、PLは松坂から3点をもぎ取る。ところが、この話には続きがある。そんな3塁コーチの掛け声を、その後ろの横浜のベンチにいた控えの選手(柴)が見破ったのだ。
“自分、すぐ後ろのベンチにいたのでわかりました” ―― おかげで、2回の裏が終わって、ベンチに引き上げてきた横浜のキャッチャー小山はその “癖” を知らされ、次の回からストレートもカーブも同じ構えにした。いかがだろう。試合の序盤から物凄い情報戦が繰り広げられている。これが平成の高校野球なのだ。
この後、横浜のキャプテンでもあるキャッチャーの小山は “松坂が打たれたんじゃない。自分のミスで打たれた” と責任を感じ、4回表、その借りをバットで返す。2ランホームランで2対3と1点差に詰め寄った。その後、両チームとも点を取り合い、5回表に横浜が4対4に追いついて、なおも1アウト・ランナー3塁と逆転のチャンス。
“情報を駆使して、戦術を磨き、頭脳で” プレーする高校野球の新しいカタチ
ここで、横浜のバッターは3塁ゴロを放つ。PLのサードは古畑である。3塁ランナースタート。この時、古畑の脳裏に同年春のセンバツの記憶が蘇った。準決勝、相手は同じ横浜である。
それは―― 8回表、PLの2点リードで迎えた横浜の攻撃だった。ランナー3塁で、バッターの打球は3塁ゴロ。3塁ランナーがスタートする。古畑は捕球すると、すぐにバックホームするが、その球はランナーの背中に当たって弾かれ、ボール・イン・プレー(*試合がそのまま進行)でホームイン。結局、このプレーをきっかけに、PLは横浜に逆転負けを喫した。
この場面、実は横浜の巧妙な作戦勝ちだった。3塁ランナーは走塁の際、わざとラインの内側を走り、キャッチャーのミットをめがけて突っ込む。こうすると、サードの送球と重なるので、ボールが背中に当たって弾かれるというワケだ。故意にやると守備妨害でアウトだが、キャッチャーのミットの先にはホームベースがあるので、傍目には故意に見えない。
ところが、このプレーの対策をPLはセンバツ以来、サード古畑とキャッチャー石橋の間で繰り返し練習していた。キャッチャーがミットを構えるところまでは同じだが、古畑は石橋の構えとは別のコースに投げてランナーをかわし、石橋は捕球すると足でホームをブロックしながら、ランナーにタッチ。見事アウトに仕留め、PLは逆転のピンチを切り抜ける。
これも見事だ。センバツの失敗を反省して対策を講じ、練習を重ねて夏に返す。まさに、強豪校同士の頭脳戦。一昔前まで、高校野球は “正々堂々と根性で” プレーするものと思われたが、この両チームがやっていることは “情報を駆使して、戦術を磨き、頭脳で” プレーすること。これこそ、高校野球の新しいカタチだった。
思うに、その変化は1993年に開幕した『Jリーグ』の影響ではないだろうか。それまで国民的スポーツと言えば野球の一強だった時代を、野球とサッカーで二分するまでに変えた。中学や高校でもサッカー部を選ぶ生徒が増え、根性やフィジカルに傾きがちな野球部と違って、戦術や頭脳でプレイするサッカー部の風潮は、確実に野球部にも影響を及ぼしたと思う。
ゲームセット寸前のドラマティックなシチュエーション
さて、ゲームはこの後、両チーム1点ずつ取り合い、延長戦へ。横浜は松坂が続投し、PLは7回から春のセンバツで横浜との対戦で負け投手になったエースの上重聡に変わっていた。後の日本テレビのアナウンサーである。
11回表、横浜が1点を勝ち越すと、その裏、PLはスコアリングポジションにランナーを置いて、既に2アウト。この時、バッターの大西は浮足立つが、一方、2塁ランナーにいたのが、途中出場のキャプテン平石(*3塁コーチで掛け声を送っていた人物)だった。彼は、わざと靴紐がほどけたフリをして、タイムを要求。これで大西の緊張が解け、三遊間を抜くタイムリーヒット。PLが同点に追いついた。
このあと、ゲームは膠着状態となり、16回表、再び横浜が1点リードする。その裏、PLは1アウト3塁、ランナーはチーム一の俊足の田中一徳である。次の打者の本橋はショートゴロ。普通はホームに突っ込めないが、ショートがファーストに投げたタイミングでホームに走り出す。ファーストはアウト。だが、本橋は果敢にヘッドスライディングをして、ファーストの体制を崩す。バックホームがそれて、田中ホームイン。PL再び追いつく。
本橋のヘッドスライディングは一歩間違えれば守備妨害になりかねない。しかし、延長16回裏のゲームセット寸前のドラマティックなシチュエーションなら、“捨て身のヘッド” に見えなくもない。この辺り、負ければ終わりの高校野球の空気感を巧みに利用した戦術で、さすがである(褒めてます)。
時計の針は12時を指そうとしていた。早朝8時半に試合が始まって、間もなく3時間半になる。17回表、横浜は7番の常盤が2ランホームランを放ち、2点リード。その瞬間、ベンチ横でウォーミングアップをしていた松坂は、ユニフォームの袖で目をぬぐった。本人は汗を拭いたと笑ってごまかしたが、後に涙だったと明かしている。
17回裏、松坂は三者凡退に抑え、横浜はPL学園に勝利した。松坂の投球数は250球に達していた。翌日、横浜は明徳義塾との準決勝で、疲れが残る松坂を温存して2人の2年生投手で臨み、8回まで0対6と大量リードを許しながら、終盤大逆転劇を演じて7対6で勝利する。そして決勝戦は松坂が登板して、京都成章をノーヒットノーランで下し、春夏連覇を達成――。
あの夏、高校球児たちは、新しい高校野球を始めていた。そんな変わり始めた彼らが、2000年代に入り、海の向こうのMLBでも大勢活躍しているのは承知の通りだ。一方、高野連が延長戦にタイブレーク制度を完全導入するのは、この試合から25年後の2023年である。