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オフコース デビュー55周年!流行りを追いかけず、次の時代を切り開いた異端のグループ

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2025年04月05日 オフコースのアルバム「コンプリート・シングル・コレクション」発売日

1970年「群衆の中で」でデビューしたオフコース


2025年4月5日、オフコースの『コンプリート・シングル・コレクション』がリリースされる。1970年のデビュー曲「群衆の中で」から1988年のラストシングル曲「夏の別れ」までのシングル曲およびカップリング曲が網羅されたボックスセットだ。1970〜1980年代を代表するグループとして今も引き合いに出されるオフコースだけれど、振り返ってみれば、彼らはむしろあの時代において異色のグループだったのではないか。

オフコースの母胎となるグループの活動がスタートしたのは1964年のことだ。当時高校生だった小田和正、鈴木康博らがバンド活動をはじめ、別々の大学に進学してからも断続的に活動は続けられた。そして、1967年に彼らはグループを “ジ・オフコース” と名付け、1969年にはヤマハ主催のアマチュアコンテスト、第3回『ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』のフォーク部門に東北代表として出場する。横浜出身の彼らが東北大会に出場したのは、当時、小田和正が東北大学工学部に在籍していたという事情もあった。

全国大会でオフコースは2位となったことで(1位は赤い鳥)、ヤマハのバックアップを得てプロとしてデビュー。1970年にシングル「群衆の中で」を発表する。しかし、「群衆の中で」もB面の「陽はまた昇る」も彼らのオリジナル曲ではないことで、メンバーはスタッフに対する不信感を持つ。スタッフサイドとすれば、彼らのオリジナル曲や演奏力にキャッチーさが足りないと感じ、よりヒット性が高いと思われるプロ作家の曲でデビューさせようとしたわけだが、フォーク系シンガーソングライターがヒットメイカーとして認知されていなかった当時は仕方のないことだった。

結局、オフコースは自作曲ではないシングル曲を受け入れはしたものの、ステージではこれらの曲をほとんど歌わなかったし、スタッフが取ってきたメディアの仕事にも非協力的だった。そういった事情もあって当然にもレコードは売れず、オフコースは長い不遇の時代を過ごす。

ボーナストラックとして収録されているカバー曲


オフコースがブレイクしたのは1979年のことだ。1月にリリースされた「愛を止めないで」と6月に出た「風に吹かれて」が中規模のヒットを記録、そして年末に発表された「さよなら」が大ヒットして彼らはメジャーアーティストとして認知されることになった。

だからオフコースは、レコードデビューからブレイクまで9年かかったという点でも異色のグループだった。もちろん、彼らも売れたくなかったわけではない。けれど、それは自分たちがめざしてきた音楽性を捨てて達成したい成功ではなかった。彼らは、あくまでも自分たちの音楽で勝負をすることにこだわり続けていたのだ。

オフコースは1960年代アメリカのフォークソングムーブメントに強い影響を受けたグループで、アマチュア時代にはブラザーズ・フォアやPP&M(ピーター・ポール&マリー)のレパートリーをカバーしており、『ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』でもPP&Mの「ジェーン・ジェーン」などを歌っている。この時のライブ音源は今回の『コンプリート・シングル・コレクション』のボーナストラックとして収録されている。

洋楽テイストをもったオリジナリティある音楽性


オフコースのルーツはフォークソングだけではない。ミュージカルや映画音楽なども含めた1960年代のアメリカンミュージックが彼らの初期のレパートリーを飾っていた。

オフコースの音楽的ルーツを垣間見ることができるアルバムがある。1974年にサードアルバムとして発表された『秋ゆく街で / オフ・コース・ライヴ・イン・コンサート』だ。同年に東京・中野サンプラザホールで行われたオフコースのリサイタルを収録したこのアルバムでは、オフコースのオリジナル曲だけでなく、マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」や、ビートルズ、カーペンターズ、スタイリスティックス、エルトン・ジョンなどの洋楽ヒット曲メドレーも聴くことができる。

こうしてオフコースは、1970年代のフォークムーブメントとは一線を画した洗練された洋楽テイストをもったオリジナリティある音楽性を打ち出していった。はっきり言って、それは70年代前半から中期にかけてのメインストリームの音楽ではなかったから、マスメディアでクローズアップされることは少なかった。だからヒット曲こそなかったけれど、音楽性の高さと精力的なライブ活動によって確実にコアなファンを増やしていき、知る人ぞ知る実力派グループとして音楽ファンの中での認知も広がっていった。

前期オフコースの最高傑作「ワインの匂い」


僕自身も、まだ彼らにそれほど注目をしていなかった頃、仕事仲間だったPAエンジニアに “これ、すごくいいアルバムだよ” とオフコースの『ワインの匂い』(1975年)を勧められたことを覚えている。『ワインの匂い』は、オフコースが最初に注目された「眠れぬ夜」が収録されているが、他の曲も含めてオフコースならではの繊細な美意識が高く、前期オフコースの最高傑作と評価してもいいのではないかと思う。

デビュー間もなくメンバーの脱退があり、小田和正と鈴木康博のデュオというスタイルで活動してきたオフコースだったが、『ワインの匂い』に続くアルバム『SONG IS LOVE』(1976年)で、レコーディングに元 “ザ・ジャネット” の松尾一彦(ギター)と大間ジロー(ドラムス)が参加し、翌1977年のアルバム『JUNCTION』では元 “ザ・バッド・ボーイズ” の清水仁(ベース)がレコーディングに参加するなど、その後の5人編成のバンドスタイルになる動きが進められていく。

オフコースは、デュオからバンドスタイルになることで、楽曲面だけでなくサウンドづくりにおいてもオリジナリティを強めると共に、レコードとライブのサウンドの落差を解消していった。こうしてレコードだけでなくライブでも、ストイックな精神性とバンドサウンドを融合させたオフコース・サウンドをアピールすることができるようになり、彼らはフォークとシティポップがハイブリッドした魅力を持つグループとしてファン層を広げていった。

そして、1979年8月には6,000人以上を収容するテニスの野外競技場・田園コロシアムで2日間にわたるライブを成功させるなど、いつ大ブレイクしてもおかしくない状況になっていった。そして、この年の12月に発表された「さよなら」によって彼らはトップグループへと昇りつめていく。

次の時代を切り開いた異端のグループ


今、オフコースの曲を聴くと、そのソフトなロックサウンドはまさに1970〜1980年代そのものと感じられるのではないか。けれど、彼らの1970年代の足跡を見ていくと、オフコースはけっして時代の流行を追いかけていたわけではないこと、むしろ時代の風潮と戦いながら自分たちならではの音楽を主張してきたことがわかる。

同じことは、時代を代表する音楽をつくった多くのアーティストたちに言えることだ。その時代の主流として認知されているものに迎合するのではなく、簡単に時代に受け入れられなくても自分たちのオリジナリティを主張していった異端のアーティストこそが、次の時代に輝く新しい魅力を生み出し、新たなメインストリームをつくることができるのだ。

オフコースもまた、その音楽性こそソフトだけれど、1970年代の風潮と果敢に戦うことで次の時代を切り開いた異端のグループだったのだと思う。

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