哲学者ヒュームとルソーの友情はなぜ壊れたのか?共感の哲学が直面した現実
デイヴィッド・ヒュームは、18世紀スコットランド啓蒙を代表する哲学者であり、同時に歴史家・経済学者としても多彩な業績を残しました。
彼の思想の核心には、理性よりも感情や「共感」に根ざした人間理解があります。
ヒュームが説いた「共感」という思想は、彼が後年、啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーと関わる中で、理論と現実のずれを痛感させられるような経験を通して、改めて問い直されることになりました。
本記事では、若き日のヒュームから、歴史家としての名声、そしてルソーとの出会いと訣別に至る過程をたどりながら、「共感」とは何かを改めて問い直してみたいと思います。
理性は情念の奴隷
ヒュームの哲学は、「人間とは何か」という根本的な問いに向けられたものでした。
彼は、「人間の知識はすべて感覚的経験に基づく」と考え、「経験論」と「懐疑論」の立場から、従来の理性中心主義や合理主義を批判しました。
主著『人間本性論』(1739〜40年)では、「理性は情念の奴隷である」という有名な一節を記し、カントを「独断のまどろみ」から覚醒させるなど、後世の哲学者に大きな影響を与えました。
ヒュームは、道徳の根拠は、理性ではなく感情、とくに他者への「共感」にあると主張しました。
「共感」とは、他者の感情を自分の内に自然と呼び起こす、人間の心の働きです。
人は他人の痛みや喜びを我がことのように感じ、それに応じて「善い」「悪い」と判断します。
この感覚こそが道徳の土台であり、社会の中で他者と生きる人間にとって不可欠な力であるとヒュームは考えたのでした。
名声を得たヒューム・弾圧を受けたルソー
ヒュームはエディンバラ大学で法律を学んだ後、哲学に専念し、『人間本性論』などの執筆に取り組みましたが、当初はほとんど評価されませんでした。
その後、歴史研究に活動の軸足を移して執筆した著作『イングランド史』が大ヒットし、名声を得ます。
1763年、彼はイギリス大使館の秘書官としてパリに赴任し、当時のフランス社交界で歓迎される存在となります。
一方、同時期にヨーロッパを転々としながら活動していた哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは、『人間不平等起源論』(1755年)や『エミール』(1762年)といった著作を通じて、社会制度や宗教に対する急進的な思想を展開していました。
とりわけ『エミール』では、「教育における宗教的中立性」や「原罪の否定」「宗教的寛容の重要性」といった主張が、フランスのカトリック教会・スイスのプロテスタント教会から激しく非難されることとなります。
その結果、ルソーの著作は異端と見なされました。
フランスやスイスでは焚書処分にされただけでなく、逮捕命令や国外追放といった法的措置まで科される事態に発展。
宗教界・政治権力の両方から敵視された彼は、各地を転々とする亡命生活を余儀なくされたのです。
ヒュームとルソーの出会い
1765年、ルソーは亡命先を求めてベルリンを目指す旅の途中、フランス北東部の都市ストラスブールに立ち寄りました。
そこで彼は、貴族の夫人から、自由で寛容と評されていたイギリスへの渡航を提案され、フランスの通行許可証も用意してもらったのでした。
この提案に応じてルソーは進路を変更し、パリへと向かいました。
このとき、すでにヒュームはイギリス大使館付きの秘書官としてパリに滞在していました。
彼はルソーの渡英を支援する意思を示し、滞在先の調整などに協力する用意も整えていたのです。
無事パリに到着したルソーでしたが、表向きには身を潜める形をとっていたものの、その到来はたちまち知れ渡り、名士や知識人たちが次々に訪れ、実質的に凱旋のような熱烈な歓迎を受けました。
このとき、ヒュームもルソーと初めて直接顔を合わせます。
ヒュームはルソーに共感と敬意を抱き、援助を申し出ました。
さまざまな候補地があった中、ルソーはイギリスへの亡命を決意します。
一方、ヒュームの周囲の友人たちは、ルソーの繊細で猜疑心の強い性格を危惧し、「懐にマムシを抱くようなものだ」と忠告します。
しかし、ヒュームはその忠言に耳を貸しませんでした。
ヒュームがルソーを支援した背景には、個人的な善意だけでなく、知識人としての戦略的判断もあったと考えられています。
パリの啓蒙サロンで高く評価されていたヒュームにとって、迫害されたルソーを庇護することは、「自由と理性の擁護者」としての名声を高める行動でもあったのです。
また、イギリスとフランスをつなぐ「知の仲介者」としての役割を果たすことで、国際的な地位を固める狙いもあったでしょう。
さらに、共感を説く哲学者として、その思想を体現する機会としても重要な意味を持っていたのです。
友情の破綻
1766年1月、ルソーはヒュームに伴われ、ロンドンに到着します。
ヒュームは、ロンドン近郊の田園地帯にある知人夫人の邸宅を、ルソーの仮住まいとして手配しました。
しかし、そこにルソーの敵対者とされるスイスの医者の息子が居合わせたことで早くもトラブルが生じ、ヒュームは新たな住居を急遽用意する必要に迫られます。
さらに、ヒュームは国王ジョージ3世に年金支給の嘆願をするなど、ルソーのためにさまざまな便宜を図り奔走しました。
ところが、ヒュームが新居を用意した際の配慮のなさや、移動時の馬車での席順や待遇をめぐって、ルソーは次第にヒュームの配慮を「見せかけ」と捉えるようになり、次第に不信感を募らせていきます。
決定打となったのは、ヒュームの友人が書いた、ルソーを揶揄する偽書簡が新聞に掲載された事件でした。
ヒュームは「友人の悪意のない冗談」と説明しましたが、ルソーには耐えがたい侮辱となったのでした。
「すべてはヒュームによる陰謀だった、彼は政府と通じている」と考えるようになったルソーは、激しい怒りのこもった複数の手紙でヒュームを非難し、6月23日には正式に絶交を宣言。
この一連の騒動は、両者の支持者を巻き込み、新聞での公開論争にまで発展しました。
ヒュームは名誉を守るために沈黙をやめ、自らの潔白を訴える公開書簡を発表しました。
経緯を説明しながら「そのような誤解は残念でならない」と反論しましたが、ルソーの不信感は収まりませんでした。
二人の友情は約半年間で完全に破綻したのでした。
残された哲学的問い
この一件は、のちにルソーが回想録『告白』の執筆に着手する動機の一つとなったと考えられています。
ルソーとの決裂後、ヒュームは私信の中で困惑や落胆を綴ってはいたものの、対外的には一貫して冷静な態度を貫きました。
彼はフランスに帰国するルソーの安全を案じ、友人に保護を依頼する一方で、個人的な中傷や感情的な非難は控えています。
ただし、自身の名誉を守るためには、公的に経緯を説明する公開書簡を発表し、誤解の解消に努めました。
ルソーは、共感の下に見え隠れてしていたヒュームの哲学者として社交人として体裁を保ちたい下心を見抜いていたのかもしれません。
この騒動は単なる個人的な対立にとどまらず、人間関係のもろさや複雑さ、そして「共感」の限界と困難さをも浮き彫りにした出来事だったといえるでしょう。
最後に
ヒュームは、人間理解において「共感」の役割を重視した哲学者でした。
しかし、実際にはルソーとの関係では、その共感が思うように伝わらず、深い誤解と対立を生むことになりました。
どれほど善意で接しても、それが相手に正しく届くとは限らない…。
ヒュームはその厳しい現実を、自らの体験を通して知ることになりました。
理想と現実のあいだで葛藤しながら、それでも誠実であろうと努めること自体が大切なことなのかもしれません。
参考:
『ヒューム – 人と思想』泉谷周三郎(著)
『悪魔と裏切者:ルソーとヒューム』山崎 正一 (著), 串田 孫一 (著)
『人間不平等起源論』ルソー (著) 他
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部