【日本は男尊女卑?】日本の女性の地位を歴史的視点で見る「ジェンダー指数過去最低125位」
日本のジェンダー指数は過去最低の125位
唐突ですが、読者の皆さんは「ジェンダーギャップ指数」という言葉を御存じでしょうか。
ジェンダーギャップとは、性別の違いによって生じる格差のこと。雇用の機会・賃金などで男女にどれだけの差があるといった格差をいいます。
そして、ジェンダーギャップ指数とは、そうした男女格差を数値化したもの。
毎年、世界経済フォーラム(WEF)が、ジェンダーギャップ指数における各国の数値をランキング形式で発表しています。
2023年のベスト3は、アイスランド・ノルウェー・フィンランドと北欧の国々が独占しました。
日本に身近な国に目を向けてみますと、5位にドイツ、15位に英国、40位にフランス、43位にアメリカ合衆国が入り、日本はなんと146カ国中、125位という結果になりました。
ちなみに、基本的人権に疑問符を示される中国は107位、日本より上位にランクされています。イスラム教の厳しい戒律のため、女性の人権が規制されがちな131位のサウジアラビアと大して変わらないということになります。
この125位は、過去最低の結果です。日本は、民主主義を掲げ、基本的人権が憲法で保障された国です。そのような日本でありながら、女性の地位に関しては、実情はこのように低いものなのです。
現代において世界的な水準でみると、決して地位が高いとは言えない日本の女性ですが、実は江戸時代以前はその地位は決して低くなく、江戸時代頃から女性が軽視される傾向(女性蔑視=ミソジニー)が見られるようになりました。
ではここからは、古代・中世・近世・近代と女性の地位に関する歴史を振り返ってみましょう。
古代において女性は「太陽」のような存在だった
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」
これは、1911年(明治44)9月、平塚雷鳥らが発行した女性だけの手による文芸雑誌『青鞜』の創刊の言葉です。
特に「元始、女性は太陽であった」という一文は、この後の女性運動を象徴する言葉になりました。
日本の歴史に女性の支配者が現れるのは、弥生時代後期の邪馬台国の女王卑弥呼でした。
彼女はシャーマンとして、まさに太陽のような存在であったと思われます。
そして、飛鳥時代には推古天皇・皇極天皇、奈良時代には光明皇后・孝謙天皇などの女性の皇族が、内政・外交・軍事と国家として成立した日本を牽引すべく幅広く活躍します。
彼女らは決して同時代の男性の傀儡ではありませんでした。
むしろ、彼女たちの意向により、男性の有力者たちが動いていたことは歴史により証明されています。
ただ、奈良時代に入ると日本はその統治体制として、中国から律令を取り入れました。
それにともない「儒教思想」が浸透していき、一般的に女性の地位は宮廷内では後宮、氏族内などの血縁関係においては影響力をもつものの、男性に隷属的な側面が現れてきます。しかし、女性の財産権や親権は保証されていました。
様々な説がありますが、やはりこの儒教思想というものが、この後の女性の地位に大きな影響を与えていったことは否定できないでしょう。
儒教思想が浸透している中国は、家父長制的な社会が成立しており、律令はその上で成立した政治体系であったからです。
飛鳥・奈良時代にこれだけ女性の天皇が活躍したのに、今も与党関係者などを中心に、天皇の後継問題で父系にこだわるのは、ここに原点があるのです。
またもう一つ、公的な世界から女性が排除された理由として、女性の「性」そのものを「穢れ」とみなす考えが生じてきたことが考えられます。
奈良時代の仏教では、最初の僧侶は間違いなく「女性=尼」でした。しかし、9世紀以降は、正式に受戒を受けて僧になる女性はいなくなります。
この女性の「穢れ」という問題については、なにが「穢れ」なのかということには様々な問題があるでしょう。
出産であるとか、生理であるとか、確かに女性には「血」がつきまといますが、あれだけ「血」を嫌う神道や天皇・皇室が女性に寛容であるのは、一体どうしてなのか。なかなか説明が難しい問題でもあるのです。
そして、平安時代に入ると女性の公的な活動は、ほとんど表面に出なくなります。
ただ、この時代の女性は、自らの所領を有し、その売買・譲与もできました。
そして注目すべくは、紫式部や清少納言など、後宮の女房による女流文学が花開いたことでしょう。
このように女性が、仮名文字を駆使して自由に文学を綴るということは、男性の支配下に女性が置かれている状況では到底叶わないことだからです。
中世において日本人女性は奔放だった
時代が平安から鎌倉に移り中世に入ると、本格的な武士の時代が訪れ、中央集権的な律令の影響は極端に衰えていきます。
この時代は、前時代同様に女性に対する財産権やその分与は保証されていました。事実、鎌倉幕府においては、女性の御家人・地頭も現れます。
また、巴御前・坂額御前などの勇猛な女性も存在しました。
そして、室町も中盤を過ぎた16世紀中頃、日本の女性に対してちょっとドキッとするような証言が残されています。
それは有名なイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが書いた『日欧文化比較』での記述です。
そこには「日本の女性は処女を少しも重んじない。」「日本ではしばしば妻が夫を離別する。」「日本の女性は親や夫に知らせず好きなところへ出かける。」「日本では堕胎はきわめて普通のことだ。」ということが書かれています。
実際に、このような性に対してのおおらかさは、古来より続いていました。
例えば、祭りの時に男女が集まり、自由に性的な交わりを繰り広げる「歌垣」の風習もその一つ。また、現代でもよく使われる言葉である「旅の恥は搔き捨て」も同様でしょう。
確かにフロイスは敬虔なキリスト教徒ですから、そういった奔放さに嫌悪感を抱いていたことは否定できません。
ただ、日本にはキリスト教・イスラム教のような宗教的な論理による規制がなかったことも、この時代の貞操観念に大きな影響があったと考えられます。
また、中世の女性の中には、自立した職業集団を構成する人々が存在しました。その代表が、白拍子・遊女・傀儡などです。彼女らの中には、天皇や貴族の子供を産んだり、勅撰和歌集に詠んだ和歌が採用される者がいるなど、その社会的地位は決して低いものではなかったのです。
さらに『日本霊異記』に語られるように、商売で大儲けをする女性も現れます。彼女たちは、商人として富を蓄積する側にいたのです。
庶民ではありませんが足利義政の正妻・日野富子が、大名たち相手に高利貸しを営んでいたというのも、この時代の女性像を考えると何ら不思議ではないのです。
しかし、こうした「生き生きとした女性の姿」は、室町も終盤を迎えると徐々に姿を消していきます。そこにはやはり、戦乱が吹き荒れる戦国の世の影響があったことは否めません。
高級武士の娘たちの中には政略結婚の道具とされる者もいて、社会的な地位は低下していきます。
とはいえ、戦いに明け暮れている時代ですので、甲斐姫・鶴姫・立花誾千代など、たくましく生き抜いた女性たちもおりました。
朱子学により家父長制が浸透した近世・近代
徳川家康により江戸幕府が開かれると、幕藩体制のもとで儒教思想が広がり、女性の地位は著しく低下します。
その結果、「男尊女卑」の風潮が蔓延してしまうのです。特に幕府が朱子学に重きを置いたことで、男性中心の家父長制をより一層助長させました。
そして、天皇制を利用しながら、藩閥政治の推進を図る明治政府は、国民国家をつくる武器として、江戸幕府以上に朱子学を取り入れます。
ただ、諸外国との関係上キリスト教が解禁され、西洋思想や人権思想が流入してきたことで、女性の社会的地位の低さに対する疑問が持ち上がったのも事実です。
『青鞜』を立ち上げた女性たちは、その機運を逃さずに行動しました。
しかし、その後も長く男女平等の社会が実現しなかったように、明治期の女性活動家たちの歩んだ道は、茨の道と言っても過言ではありませんでした。
明治の女性活動家たちの運動は、「富国強兵・殖産興業」のスローガンのもと、日本が帝国主義を掲げつつ戦争に突き進んでいく中で、挫折の憂き目にあいます。
そして世間一般が、「妻は夫に従うもの」といった保守的な思想に傾き、女性にとっては社会的に活動しづらい方向へと変わっていきました。
しかし、1945年に敗戦を迎えると、日本国憲法により民主主義が保証され、1979年に女性差別撤廃条約が採択されるなど、男女の機会均等を目指す動きが活発化します。そして、1986年には男女雇用機会均等法、1999年には男女共同参画社会基本法が施行されます。
ただ、そうした法律が施行されても、2023年のジェンダーギャップ指数のように、日本の女性の地位は決して高くないというのが現状です。
以上のように、時代ごとに日本の女性の地位について追ってみました。いま日本には、さまざまな課題が山積みとなっていますが、先進国に相応しい女性の地位を保証するというのも、解決するべき重要な課題の一つではないでしょうか。
※参考文献
網野善彦著 日本の歴史をよみなおす(全)ちくま学芸文庫 2024.4
国際女性の地位協会編集 男女平等はどこまで進んだか―女性差別撤廃条約から考える 岩波ジュニア新書 2018.6
中村 敏子著 女性差別はどう作られてきたか 集英社新書 2021.16
文 / 高野晃彰
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