やなせたかしの弟・千尋はなぜ戦死したのか?駆逐艦呉竹の悲劇【あんぱん】
NHK朝ドラ「あんぱん」第62回では、嵩(たかし 演・北村匠海)の弟、千尋(演・中沢元紀)の戦死が伝えられました。
史実でもやなせたかし(本名・柳瀬嵩)氏の弟の千尋さんは、太平洋戦争中、海軍少尉としてバシー海峡で戦死しています。
なぜ、千尋さんは命を落とさなければならなかったのでしょうか。
今回は、千尋さんの最期と、やなせ氏の胸に刻まれた亡き弟への思いをたどります。
(以下敬称略)
一瞬にして命を失った千尋
昭和19年12月30日、千尋は、輸送船団を護衛する駆逐艦「呉竹」に乗船していました。
輸送船やタンカーは、敵の潜水艦や航空機の攻撃に備えて船団を組み、海軍の艦艇が護衛して航行します。
アメリカ海軍は、昭和18年半ばから魚雷の精度を向上させ、それまでの不発や早発といった不具合を大幅に改善していました。
また、日本の商船の暗号解読に成功したこともあって、フィリピン沖のバシー海峡では、日本の輸送船が、次々と米軍潜水艦の魚雷攻撃によって沈没する事態となっていたのでした。
海軍少尉・柳瀬千尋は、分隊士として対潜水艦探知室(水測室)で、敵の潜水艦の位置を調べる任務についていました。
一瞬の遅れが命取りとなるため、全神経を集中して正確に音を聞き分け、敵が気付く前に敵の潜水艦の位置を把握しなければなりません。
しかし、この時の呉竹は、前回の戦闘で損傷したスクリューから異音が生じている状態でした。
正確に音を判別するには、艦を減速させ、スクリュー音を消さなければならないのですが、敵の潜水艦が待ち伏せしている中、速度を落とすのは危険極まりない行為です。
一刻も早く敵の潜水艦の位置を把握しようと、水測室にはジリジリとした緊張の時が過ぎていきます。
そして、「戦闘爆雷戦、前進全速!」。
艦内に吉田艦長の声が響き渡りました。敵よりも先に潜水艦の位置を確認したのです。
艦内中に安堵の声がもれたのもつかの間、「右に雷跡!」の叫び声が上がりました。
確認した潜水艦とは別の艦から放たれた2本の魚雷が、右斜め後方から迫ってきていたのです。
1本目はなんとかかわしたものの、呉竹は速度が上がっておらず、2本目はかわしきれません。
魚雷の命中と同時に、すさまじい爆音をあげ、呉竹の前方部分が吹き飛びました。
不運にも魚雷が命中した前方部分には弾火薬庫があり、さらなる爆発を生んだのです。
千尋のいた対潜探知室は、一瞬にして跡形もなく消え失せました。
この日、艦長を含む140名が呉竹とともに海に沈みました。
生存者はわずか18名。
23歳の柳瀬千尋は、帰らぬ人となったのでした。
弟の戦死を聞いても泣けなかった嵩
上海近郊の農村で終戦を迎えた嵩は、昭和21年1月23日、上海港から復員戦に乗り込み、帰国の途につきました。
原爆が落とされた広島や、空襲で焼かれた街々に唖然とする嵩でしたが、降り立った御免駅の風景は昔と変わらず、懐かしい思いが胸にこみ上げてきます。
埃っぽい田舎道を歩き、柳瀬医院の裏木戸を開けて、
「お母さん、ただいま帰りました」
と言ったところ、伯母のキミは、さぞびっくりしたのでしょう。あわてて出迎えてくれました。
何の連絡もせずに6年ぶりに帰って来たのですから、無理もありません。
嵩の突然の帰還に、キミは歓喜の声をあげ、足早に駆け寄りました。
けれど、その笑顔は長くは続きませんでした。
顔をゆがめ、堰を切ったように大粒の涙を流してその場に崩れ落ちると、
「ちいちゃんは……、戦死した」
と息を吐くように言ったのです。
千尋の戦死を知った嵩は、とくに驚くこともなく、涙も出ませんでした。
小倉で会ったきりで、亡くなったところを実際に目にしたわけでもなく、実感がわかなかったのです。
それ以前に、嵩には千尋の戦死の予感がありました。
立派な海軍の制服を着て、千尋がわざわざ小倉まで訪れてきた時から、その覚悟をしていたのかもしれません。
嵩は戦地で幾度となく千尋の夢を見ました。「兄貴!」と呼びかけては、なにか言いたそうにスーッと消えてしまう千尋は、戦死を伝えようと枕元にたったのかもしれないと嵩は思っていました。
その晩は、伯母が用意してくれたすき焼きをたらふく食べて床についたものの、なかなか眠れませんでした。
弟が死んでしまったのに、自分は生きていてよかったのだろうか。考えても、考えても答えは出ませんでした。
一枚の木札が入っただけの遺骨箱
千尋は船とともに海に沈んでしまったため、遺骨はありません。
軍から送られてきた白木の遺骨箱の中には、「柳瀬千尋」と書かれた木札が一枚入っているだけでした。
嵩は遺骨箱を白布で包み、父と伯父の眠る山の墓地へと向かいました。
途中、行きかう人はみな、お辞儀をしてくれます。
骨のひとかけらも入っていない箱は軽く、ただただ弟がかわいそうでなりませんでした。
千尋の墓は、兄弟で遊んだ山の上にあります。
嵩と千尋は幼い頃、祖母が一人で住んでいた父親の生家で夏休みを過ごしました。
一緒に川で泳いだり、山にのぼったり。祖母の焼いてくれる甘い卵焼きをお腹いっぱい食べて、父の遺してくれた本を読み、兄弟喧嘩をしていたかと思うと二人で腹を抱えて笑ってみたり。
二人が楽しい時間を過ごした場所に、千尋は静かに眠っているのです。
「兄ちゃん、兄ちゃん」と言って自分のあとをついて来た、たった一人の弟。
嵩がどんなに年を重ねても、嵩の中の千尋は、いつも時が止まったままでした。
年月とともに深まる弟への想いと悲しみ
千尋の戦死に実感が持てなかった嵩でしたが、弟を失った悲しみは、年を経るごとに強くなっていきました。
「千尋が生きていればよかったのに」という思いが頭から離れず、奇跡的に南の島で生きている弟に会えるのではと思うこともありました。
「中学時代、ケチらずに漫画の懸賞金をもっと弟にやればよかった」、ふいにそんな昔のことも考えてしまいます。
妻の暢に、「戦地であなたはお父さんに守られていたのね」と言われたときも、「だったら千尋のことも守ってくれればよかったのに」と思う一方で、「もしかすると父親は、ちょっと寂しくて弟を呼んだのかなあ」という気もしてくるのでした。
嵩と千尋の名前は、父親が山と海にちなんで名付けたものです。
嵩は幼いころから、千尋が海彦で自分は山彦だと思っていました。
千尋への鎮魂歌として書かれた『おとうとものがたり』には、「海彦・山彦」と題された詩があります。
「海彦・山彦」
ぼくは今でも
海をみるたびに
かなしみとなつかしさのいりまじった
心になる
海彦
千尋
弟がそこにいる
つぶらな眸(ひとみ)をして
いくぶんかまぶしそうに
はにかみながら
弟がそこにいる
ぼくはいまだに生きながらえているが
海に指をひたせば
その海の中に
弟がいる
海彦やなせたかし著『おとうとものがたり』「海彦・山彦」より一部抜粋
千尋はその名前の通り、「千尋の海」に還っていったのでした。
参考文献
やなせたかし『おとうとものがたり』フレーベル館
やなせたかし『ぼくは戦争は大きらい』小学館
越尾正子『やなせたかしのしっぽ』小学館
文 / 草の実堂編集部