【失明しても来日】5度も渡航に失敗した「鑑真」の壮絶な旅 ~日本仏教に尽力
奈良時代の仏教と聞くと、多くの人が東大寺の大仏や全国に建立された国分寺を思い浮かべるだろう。
また、鑑真(がんじん)が来日したことも広く知られている。
鑑真は、単に僧侶として来日したわけではなく、日本仏教の基盤を整えるために重要な役割を果たした。
鑑真がなぜ日本を目指し、日本で生涯を終えたのか、その背景と功績について詳しく見ていこう。
鑑真が日本に招聘された背景
仏教伝来の時期は諸説あるが、古墳時代の末期に日本に伝わり、飛鳥時代を経て次第に国中へ広がっていったとされている。
しかし、朝鮮半島を経由して日本に伝来したため、伝えられた戒律や教義には不完全な部分が多く、本来の仏教とは異なる側面が強かった。
奈良時代に入ると、僧侶の中には「私度僧(しどそう)」と呼ばれる者たちが現れ、修行せずにただ税金を逃れるために出家する、堕落した僧侶が増えていた。
本来、僧侶としての資格は、寺院に設けられた「戒壇(かいだん)」で授戒の儀式を受けた者にのみ与えられるべきだが、当時の日本には正式な戒壇が存在せず、自己申告で僧侶になるという状況が続いていた。
この混乱を正すために、仏教に深く帰依していた聖武天皇は、唐から正式な授戒を行える高僧を招聘することを決意する。
733年、興福寺で法相教学を学んでいた栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は、聖武天皇の命を受け、伝戒師を唐から招くべく第十次遣唐使に参加して唐へ渡った。
二人は、洛陽の大福先寺で「三師七証」の儀式を経てで具足戒を受ける。
そして、大福先寺にいた名僧・道璿(どうせん)に、来日を要請した。
こうして、まずは道璿が鑑真に先立ち、日本に招かれたのである。
736年、道璿はインド出身の菩提僊那(ぼだいせんな)や、ベトナム出身の仏哲(ぶってつ)と共に日本へ渡来した。
なお、道璿は後に日本の天台宗の開祖である最澄の師・行表を育てることとなる。
菩提僊那や仏哲は聖武天皇からの信任が厚く、東大寺の大仏開眼供養の際には、菩提僊那は導師をつとめ、仏哲は舞を披露したとされている。
その後、唐で約10年を過ごした栄叡と普照は、742年に戒律の僧として高名だった揚州大明寺の鑑真に拝掲し、戒律を日本へ伝えたいと懇請した。
鑑真は、まずは弟子たちに日本行きの希望者を募ったが、当時の渡海は危険であり誰も手を挙げなかった。
これを受け、鑑真は自ら日本への渡航を決意し、最終的には弟子21人も随行することとなった。
5度の日本渡航失敗
日本への渡航を決意した鑑真は、743年からその挑戦を開始する。しかし、その道のりは極めて困難なものであった。
最初の試みは、鑑真の日本行きを嫌った弟子の如海が「あの日本僧は実は海賊だ」と虚偽の密告をしたため中止となった。鑑真が唐を離れることに反対していた弟子たちは多かったのだ。
2度目は744年、鑑真は軍艦を購入して準備を整えたが、出航後まもなく嵐に見舞われ、船が大破してしまった。
3度目の試みも失敗に終わる。
鑑真の渡日を惜しむ者たちが、再び唐の当局に虚偽の密告を行い、この時は栄叡が逮捕されるという事態に発展してしまった。
その後、栄叡は病死を装って監禁からの脱出に成功する。そして現在のルート(江蘇や浙江)からの出航は困難と判断し、福州からの出発を計画する。
しかし、この4度目の渡航計画も、鑑真の弟子・霊佑が安否を心配し、役人に渡航を阻止するよう訴えたため失敗に終わった。
それでも栄叡はあきらめなかった。748年、再び鑑真を訪ね、渡日を強く懇願した。鑑真はこの熱意に動かされ、5度目の渡航を決意する。
748年6月、再び唐を出航するも11月に激しい暴風に遭遇し、船は14日間も漂流した末に、はるか南方の海南島に漂着してしまった。
鑑真一行は751年にようやく揚州へ戻るが、その過程で栄叡は病に倒れ、命を落とすこととなる。
また、鑑真自身も疲労と過酷な航海の影響で、両目の視力を失ってしまったのである。
しかし、鑑真の渡日への決意は揺るがなかった。
753年11月、遣唐使が日本へ帰国する際、鑑真はその船に内密に乗船し、6度目の渡航を試みる。
そして同年12月7日、鑑真の船は日本の屋久島に無事到着し、ついに渡日は成功を収めたのである。
日本の戒律制度の整備と日本での生活
翌754年2月4日、普照や鑑真一行は長年の苦難を乗り越え、ついに平城京へ到着した。
この到来は聖武上皇や光明皇太后、そして孝謙天皇らから熱烈な歓迎を受けた。孝謙天皇は勅を発し、戒壇の設立や授戒に関する一切を鑑真に委ね、彼に全面的な信頼を寄せたのである。
鑑真は東大寺に住まいを構え、東大寺大仏殿に戒壇を築いた。
4月には聖武上皇をはじめ、僧尼約400名に菩薩戒を授け、これが日本における正式な戒律制度の礎となった。
その後、鑑真は大宰府の観世音寺と下野国の薬師寺にも戒壇を設置し、東西で授戒が行える体制を整えた。
これにより、正式な僧侶としての道を歩むための戒律が、日本に広く普及することとなったのだ。
759年、鑑真は淳仁天皇から新田部親王の旧邸宅跡を与えられ、この地に私寺として唐招提寺を建立した。
ここでも戒壇を設け、日本全国に戒律を広める活動を続けた。
鑑真は唐招提寺で余生を送りながら、彫刻や薬草の知識も活かし、弟子たちに教えたとされている。また、非田院を設立し、貧困に苦しむ人々の救済にも尽力した。
鑑真は、盲目となりながらも日本に渡り、76歳で生涯を終えた。その功績は、日本の仏教発展において計り知れないものである。
現在、唐招提寺は律宗の総本山であり、奈良時代に建立された金堂や講堂がそのまま残る貴重な寺院として、天平文化の豊かさを今に伝えている。
参考 :
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
・唐招提寺公式サイト
文 / 草の実堂編集部