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かつての禁忌の地『五条楽園』は消えたのか?京都の“禁断地帯”の今を歩く

草の実堂

かつての禁忌の地『五条楽園』は消えたのか?京都の“禁断地帯”の今を歩く

世界的観光地・京都にあって、タブーなエリアの一つであった五条楽園

2010年の取り締まりで色街として、その歴史に幕を閉じた後、20年にも満たない期間で大きな変貌を遂げている。

前回に引き続き、今回は五条楽園の現在の姿を、かつての懐かしい情景を織り交ぜながら、その今昔を追ってみた。

再生の一方で取り壊される遊郭建築

画像:五条大橋から見た五条楽園(撮影:高野晃彰)

いま、雑誌やSNSなどのメディアから、五条楽園は大きな注目を集めている。

そうしたメディアでは「往時の花街の風情と貴重な建築が織りなす、懐かしくもお洒落な街」といったイメージでの紹介が多いようだ。
さらに、「かつての色里という“負の遺産”を乗り越え、新たな文化を育む創造の舞台へと生まれ変わる」といった紹介も目立つ。

そうしたことを反映してなのか、いま五条楽園を歩くと、街のいたるところで建築作業の音が聞こえてくる。

それらの多くは、お茶屋や妓楼、カフェーなどの建築をリノベーションし、飲食店やショップ、宿泊施設として再生することを目的とするものだ。

そしてその中心を担うのが、遊郭や赤線とは無縁と思われる若いプロデューサーやクリエイターたちで、彼らはこのプロジェクトに積極的に関わり、これらの建築に新たな価値と未来を創りだそうと奮闘している。

画像:高瀬川沿いに建つカフェー建築(撮影:高野晃彰)

ちなみに「カフェー建築」とは1945年以降、売春防止法が施行された1958年までに、全国各地に存在した赤線地帯で建てられた洋風の建築物を指す。

一般に和風建築物をベースに、円柱・曲線・モザイクタイル・ステンドグラスなどを用いたデザインが特徴で、唐破風など寺社建築を彷彿とさせる妓楼建築とともに戦後の色街で多く見られた。

しかしながら、リノベーション・再生という動きがある一方で、多くの遊郭建築が取り壊しの憂き目にあっている。
そうした現状は、筆者の目には五条楽園の独自の文化が消されていくようにも映り、少なからず寂しさを感じずにはいられない。

繰り返しになるが、五条楽園が色街としての役目を終えたのが15年前だ。

その日から常に五条楽園の変貌が気になり、京都に赴くたびに時間を見つけては立ち寄っている。

画像:五条楽園の象徴だった旧三友楼(撮影:高野晃彰)

いまから5年ほど前の夏だった。

高瀬川沿いのお茶屋で、五条楽園を代表する大店「三友楼」の前でこんなことがあった。

写真を撮っていた筆者に、20代とおぼしき若い夫婦が話しかけてきたのだ。

「この建物、とても風情がありますけれど何なのですか?」

「これは元遊郭のお茶屋で、この界隈一帯ではそれと知れた店だったんですよ。」

すると男性が驚いたように「京都で生まれて30年近くになるけど、全然知らなかった。ずいぶんと歴史を秘めた建物なんですね。」としきりに感心していた。

それから間もなく「三友楼」は、無残にも解体され、跡地には住宅が建てられた。

画像:三友楼の跡地には住宅が建つ(撮影:高野晃彰)

いまや、日本全国どこでもそうだろうが、日々、街は変貌していく。

再開発という名のもとに、その街の歴史や風俗の痕跡が、急ピッチで消滅していっているのだ。

それは、古都京都においても決して例外ではない。
街中に残る貴重な町家が取り壊され、代わりにマンションやホテルが建つ。
仕方のないことかもしれないが、その結果、他の街と見分けのつかない風景へと変わっていく。

「五条楽園には、そうなってほしくない」という強い気持ちに駆られるのである。

妓楼跡の無事を祈りつつ、五条楽園を歩く

画像:高瀬川西岸には旧お茶屋が密集する(撮影:高野晃彰)

今年は全国的に気温変化が激しく、桜の開花が例年より遅れる場所が多かったようだ。

京都も例外ではなく、桜の満開は4月上旬になった。

桜の開花が始まると、普段から人で賑わう京都がさらに観光客であふれかえる。
そうならないうちにと思い、3月上旬に五条楽園を訪れた。

今回の目的はただ一つ。
この地に残る貴重な「妓楼建築とカフェー建築」が無事であることを確認することだ。

まずは、五条通りから歌舞練場小路を北へ、遊郭建築とカフェー建築が混在する、高瀬川の西側を歩いてみる。

このエリアには、五条楽園の再開発で知られるカフェ建築をリノベーションした「五条製作所」や、遊郭建築を改装した「UNKNOWN KYOTO」がある。

画像:五条製作所(撮影:高野晃彰)

昭和初期の建築とされる「五条製作所」は、その内装もほぼ当時の面影を残し、手作りポン酢で人気の「モミポン」をはじめ、数店舗が入る複合施設だ。

また「UNKNOWN KYOTO」は、“仕事もできて暮らせる宿”をコンセプトに、ホテル、レストラン、コワーキングスペースを備えた先進的な施設でありながら、不思議なほど京都の街並みに溶け込んでいる。

画像:UNKNOWN KYOTO(撮影:高野晃彰)

「UNKNOWN KYOTO」から少し歩くと、五条楽園の歌舞練場であった3階建ての「五条會館」が現れる。

歌舞練場は、花街に所属する芸妓や舞妓が、歌舞音曲などの芸を披露する場所である。

画像:五条會館(撮影:高野晃彰)

築100年を数える「五条會館」は、花街としての体裁をとった五条楽園で、歌舞練場のほか、検番・お茶屋組合・置屋組合が入る中心的な存在であった。

老朽化が目立ち始めた同会館は、当初取り壊されてマンションが建つ予定だったが、大手リノベーション会社が落札し、現在再生改修計画が進められている。

そして「五条會館」の近くに建つのが、元お茶屋の「梅鉢」だ。

画像:梅鉢(撮影:高野晃彰)

ほんの数年前まで、“梅鉢”の看板も健在で、優美な唐破風を備えた和風建築がその存在感を放っていた。

しかし、今回訪れると工事中で、看板も外されていた。

画像:工事中の梅鉢(撮影:高野晃彰)

覗いてみたが工事関係者が不在だったため、どのような工事なのかはわからなかった。

取り壊しではなく、リニューアルであることを願うばかりだ。

その他、この一帯で存在感を放つカフェ建築の元お茶屋「芙蓉」「新みかさ」「一力」もそれぞれ健在だ。

もっとも、この3軒は現役の住宅として大切に使われているようなので、当面はその姿を保ってくれるだろう。

画像:カフェー建築の旧芙蓉(撮影:高野晃彰)

変貌する五条楽園の行く末を考えた

画像:高瀬川西岸から見たサウナの梅湯。おおよそ25年前の風景(撮影:高野晃彰)

続いて、「ひと・まち交流館京都」前の高瀬川に架かる上の口橋を渡り、高瀬川の東側、鴨川に挟まれたエリアを歩いた。

上の口橋には、かつて“五条楽園”の電気看板が掲げられ、対岸には銭湯ファンに人気の「サウナの梅湯」がある。

その隣が、2017年に姿を消した某広域暴力団の事務所跡で、2021年に建物が解体された後、しばらく空き地だった。

現在は任天堂創業家が購入し、文化・芸術の拠点として整備を進めているという。

画像:現在のサウナの梅湯。某暴力団事務所は新たな施設に生まれ変わった(撮影:高野晃彰)

筆者は暴力団の存在を肯定する立場ではない。しかし、五条楽園を語る上でこの組織を無視することはできない。

遊郭や赤線と並び、五条楽園の闇の側面を構成する要素ではあるが、この組織について補足しておきたい。

初代は、幕末に京都を守護した会津藩に仕える中間部屋頭で、鳥羽・伏見の戦いに従軍した人物である。

敗戦後、放置されていた会津藩士たちの遺骸を集め、丁寧に葬ったことで知られる。

画像:金戒光明寺にある会津藩墓所(撮影:高野晃彰)

その後、侠客としてこの組織を創設。

初代から数代にわたっては祇園の商人からの寄付を断り、代わりに正月に和菓子を求めたという逸話が残っている。しかし、時を経て、任侠団体は広域暴力団へと変貌してしまった。

なお、初代は昭和歌謡に歌われ、現在も演歌歌手たちによって歌い継がれている。

画像:在りし日の某暴力団事務所(撮影:高野晃彰)

20年ほど前に遡るが、車で上ノ口橋を渡った際、若い組員が一人飛び出してきたことがあった。

窓を開けて「五条通りに抜けるだけだ」と説明すると、彼は一礼して事務所に戻っていった。おそらく、当時からそれなりに警戒態勢にあったのだろう。

だがいま、上ノ口橋から事務所跡を眺めると、静かな早朝に若い組員たちが箒を手に辺りを清めていた光景が蘇る。
これもまた、五条楽園の失われた歴史の一コマといってよいだろう。

木屋町通りを五条通り方面へ進むと「ホテルリブマックス」が見えてくるが、その手前がかつてのお茶屋「三友楼」の跡である。

ホテルと「三友楼」跡の間にある六軒通りを鴨川方面へ進むと、いまも妓楼建築と思しき建物が多く残っている。

また、元々妓楼だった建物を住宅として利用していると思われるものもある一方、宿泊施設として再利用された建物も目立つ。

画像:五条楽園でひときわ目を引く妓楼建築(撮影:高野晃彰)

その中で、妓楼名は定かではないが、唐破風を持つ大きな遊郭建築として、五条楽園に関するサイトなどで頻繁に紹介される建物が、建築用のシートで覆われているのを見つけた。

画像:改修工事中の妓楼建築。どのように再生するか注目したい(撮影:高野晃彰)

その大仰な作業の様子から、ひょっとして取り壊しなのかと心配になり、作業員に尋ねたところ改修工事中だと分かった。

「三友楼」の亡き後、この建物の命運を案じていたが、解体ではなく改修と聞き、本当に胸をなでおろした。

そこからは細い路地を縫うように、七条通りへと歩を進めた。

画像:平岩旅館(撮影:高野晃彰)

途中、赤線廃止とともに旅館に生まれ変わった「平岩旅館」や、築80年の茶屋をモダンな複合施設に再構築した「五条モール」を眺めつつ、「任天堂」の旧本社をスタイリッシュなホテルに変貌させた「丸福樓」へと向かう。

今や、ゲーム関連の企業として世界的にリードする「任天堂」。
その始まりが、ここ五条楽園であったことはほとんど知られていないだろう。

そもそも「任天堂」の始まりは「灰孝本店」という工事現場や建設現場で扱うセメントを販売する土木関連会社だった。
創業者の山内房治郎氏は、土木関連会社とともに「任天堂骨牌」を創立し、花札製造販売を開始した。

「なぜ花札?」と思うかもしれないが、それはこの地域で需要があったからだ。

画像:旧任天堂本社をホテルとして再生した丸福樓(撮影:高野晃彰)

「任天堂」の旧本社は、昭和初期の趣を濃厚に湛えたモダンレトロな佇まいで、この一帯でひときわ目を引く存在だった。

妓楼建築とは異なるが、五条楽園の歴史を語る上で欠かせないシンボルの一つだった。

しばらくは空き家となり、その存続が心配されたが、往時の意匠をしっかりと受け継いだこの地に相応しい佇まいのホテルとして、建築家・安藤忠雄氏の設計・監修によって生まれ変わった。

入り口には、「トランプ・かるた製造元 山内任天堂」と書かれた当時の社名板が残されている。

画像:創業当時の社名板(撮影:高野晃彰)

さて、筆者自身の追憶を含め、五条楽園のいまについて述べてきた。

五条楽園を歩いていると、世界中から人々が集まる京都という街のなかで、かつて色街だった頃の生々しい痕跡がふと感じられる一方で、この地が歴史的要素を数多く秘めたエリアであることを実感させられる。

そんな五条楽園には、建築や施設などまだまだ紹介しきれていない魅力が多く、機会があればさらに詳しくお伝えしたいと考えている。

画像:五条楽園を流れる高瀬川。約5年間の風景(撮影:高野晃彰)

五条楽園が過去に抱えていたものの多くは、確かに負の遺産である。

ここは、さまざまな事情を抱えた女性たちが、不特定多数の男性と関係を持たざるを得なかった場所でもあった。
こうした背景は、ジェンダーの観点から見ても決して看過されるべきものではないだろう。

だが同時に、そうした過去の歴史や痕跡を封印し消し去ってしまうことが、本当に望ましいことなのだろうか。

画像:五条楽園を流れる高瀬川。現在の風景(撮影:高野晃彰)

両岸に繁る樹々を伐採し整備され、明るい雰囲気になった高瀬川のせせらぎを眺めながら、そんなことを考えさせられた。

文 / 写真 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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