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岩井俊二監督劇場長編映画第1作『Love Letter』で、中山美穂は多数の女優賞に輝いた

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岩井俊二監督劇場長編映画第1作『Love Letter』で、中山美穂は多数の女優賞に輝いた

連載 第9回【私を映画に連れてって!】


~テレビマンの映画武者修行40年


文・写真&画像提供:河井真也

1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。

『河童』(1994)、『ACRI』(1996/共に石井竜也監督)と並行して製作していたのが、『Love Letter』(1995)と『スワロウテイル』(1996/共に岩井俊二監督)だ。
 きっかけは安田成美さんの当時のマネージャーの一言だった。
「昨夜の深夜のドラマ、見ましたか?」と問われ「どこの局?」「フジテレビです!」と。当時のフジテレビは3階のフロアに編成局(編成部や制作部、映画部も)や報道局が同居のように入っており、僕のいる映画部の隣が編成部で、担当プロデューサー(と言っても『私をスキーに連れてって』を一緒に作った後輩だが)に同録のVHS(ベータか)を借りて見た。

▲1995年に中山美穂、豊川悦司主演で公開された映画『Love Letter』は、岩井俊二の劇場用長編映画監督第1作である。テレビドラマ「ifもしも『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』」で、日本映画監督協会新人賞を受賞していた岩井監督の名は、業界ではかなり知られる存在であり、その監督の劇場版長編第1作ということで、注目を集めた。神戸に住む渡辺博子は、婚約者で山岳事故で亡くなった藤井樹の三回忌に参列したあと、彼が昔住んでいた小樽の住所へ「お元気ですか」とあてのない手紙を出す。ところが来るはずのない返事が博子に届く。それは、樹の中学の同級生であり、同姓同名の女性の藤井樹からの返事だった……。中山美穂は、博子と女性の藤井樹の二役を演じ、ブルーリボン賞主演女優賞、報知映画賞、高崎映画祭最優秀賞主演女優賞、ヨコハマ映画祭主演女優賞など多くの賞に輝き、豊川悦司もヨコハマ映画祭主演男優賞をはじめ、多くの映画賞で最優秀助演男優賞を受賞している。岩井俊二もまた、報知映画賞、ヨコハマ映画祭、おおさか映画祭の監督賞、芸術選奨、日刊スポーツ映画大賞の新人賞などを受賞し、映画は、ヨコハマ映画祭、おおさか映画祭の作品賞、文化庁優秀映画作品賞などに輝き、モントリオール世界映画祭では観客賞を受賞している。共演者の少女時代の樹を演じた酒井美紀、少年時代の樹を演じた柏原崇も新人俳優賞を受賞している。そのほかにも、加賀まりこ、田口トモロヲ、光石研、塩見三省、范文雀、鈴木慶一、篠原勝之らが出演している。

「GHOST SOUPゴーストスープ」(1992)という、深夜ドラマ枠「La cuisine」の1本で1時間弱の作品だった。テレビドラマなのに〝映画〟を観たような味わい。
 一方で、家で見たサザンオールスターズの「シュラバラバンバ」(1992)のPVは見る度に気になっていた。桑田佳祐さんの周りで踊るボディペインティングの女性たち。音楽と映像の見事なマッチング。
 この2つの作品を手掛けていたのが<岩井俊二>だった。しかも、後に気が付くのだが、サザンオールスターズのこの楽曲をプロデューサーとして手掛けていたのが『スワロウテイル』で一緒になる小林武史氏だった。

 珍しく、此方から銀座の中華料理に岩井俊二監督を誘った。
 僕は最も多くの映画を手掛けていた時期で、初対面で、此方から大作を含む企画を投げて見た。全く興味が無さそうで、彼から手渡されたのが『スワロウテイル』の原型に当たるロングストーリー(トリートメント)だった。こんな企画、ストーリーには出合ったことがなく、読み終わった時から「やろう!」と決めた。マイノリティー目線の群像劇のようで、社会性もあり、自分の関心、興味の度真ん中の企画だった。
 ただ、映画の実現化までにはここから3~4年の月日を費やすこととなる。
 当時、自身で設立した<シネスイッチ銀座>は『ニューシネマパラダイス』(1989年12月公開)のヒットなどのお陰で、邦画なら1億円程度の製作費は掛けられた。
 ずば抜けた才能は感じながら、初対面時では29歳で映画の経験は無く、この1億円のサイズが妥当とも考えた。ただ、架空都市で繰り広げられるストーリーには、オープンセットを組む等して、世界観を具現化する方が良いに決まっていて、そうすると4~5億円の製作費が想定できる。それはシネスイッチのサイズではない。
 2度目に会った時だろうか。この規模感のどっちを希望するか聞いてみた。答えは「高い方で……」。恐らく、「どちらでも」と答えられたら<シネスイッチ>の1作品として製作していたのかもしれない。
 映画のシナリオは2時間尺で、だいたい100ページプラスα(当時は1ページ1分と言われた)であり、製作費100万円でも100億円でもほぼ同ページだ。最初の第一歩とも言える、ここでの見極めがプロデューサーの最重要課題と言える。

「4~5億円」コースを選択した。もちろん、フジテレビの出資や製作は難しいであろう。予想通り〝中味〟の複雑な社会性(今の難民問題にも通じるが)に異論が多数だった。まあ、地味だった。それと製作費の回収の目途で誰も「黒字」になる予想が立てられなかった。そして、テレビ局として最も正論である「5億円かけてゴールデンタイムで何%数字獲れる?」の問いかけ。正直言って、10%以上の視聴率が獲れる気がしなかった。最低15%以上必須の時代だった。

▲2016年、第29回東京国際映画祭でのJapan Now部門で、『Love Letter』が上映された。同部門で開催された「監督特集 岩井俊二」の1作品として上映されたもので、そのほかには『リップヴァンウィンクルの花嫁』『スワロウテイル』『ヴァンパイア』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』が上映された。上映後には、中山美穂と岩井俊二監督がトークショーを行い、観客からの、流行語にもなったセリフ「お元気ですか」の投げかけに、中山美穂は「わたしは元気です」と満面の笑みで応え、大歓声を浴びた。

『スワロウテイル』を実現化する為、戦略変更&方向転換をした。
 幸いにフジテレビ社内にはすでに〝岩井シンパ〟が存在していた。映像企画部(ビデオ部)なら、昔で言う〝Vシネ〟が制作出来る。そして腕試しではないが、編成枠で、ゴールデンタイムで視聴率を獲れる2Hドラマを制作出来たら。

 僕のプロデュース作品でなくとも『スワロウテイル』に繋がることを願っていた。言い方を変えれば<岩井俊二>そのものをプロデュースして、評価が高まったところで『スワロウテイル』の実現化を目指すというような。

 ビデオ作品として『Undo』(1994/45分)と『Picnic』(1994/公開は1996/72分)が作られた。『Undo』には既に岩井俊二シンパとも言うべき豊川悦司&山口智子が主演してくれた。一方『Picnic』は『スワロウテイル』の布石ともなるCharaと浅野忠信が主演してくれた。ここでCharaは試されたとも言える。

 世間にも岩井シンパが現れていて、ビデオストレート予定だった『Undo』はシネスイッチ銀座で限定レイトショー公開をやり大盛況となった。後に『Picnic』も劇場公開になる。

 最初のハードルは「Love Letter」の2時間ドラマでの制作だった。色んな見解があるが、自分の理解では編成サイドからの「視聴率が獲れそうにない」だった。決めるのは優秀な編成部だ。自分でもそう感じてはいた。主演の女優の件など他にも問題はあったが、やはり15%以上の数字の壁は厚かったのだろう。

 テレビドラマとしての「Love Letter」が無くなり、ちょっと計画が狂った。

 強引だとも思ったが、ここで引くわけにも行かず『Love Letter』の映画化を試みることにした。当然、会社としては後ろ向きだった。決定的にNOになったのは、僕が中山美穂を主演にして進めようとした時だった。
 この問題も個人としては理解が出来たが、若気の至り? もあり、突っ走る道を選んだ。フジテレビ及びポニーキャニオンからの出資はゼロ。しかも中山美穂の事務所の社長は大反対。今、考えると先方の言うことの筋は通っている。遡ること3年前の『波の数だけ抱きしめて』(1991)に主演してもらい、興収20億円前後のヒット作になった。月9ドラマを中心に彼女は20%の視聴率ドラマの主演の常連だった。ちょうど「世界中の誰よりきっと」(1994)の歌が大ヒットしている頃だ。
 事務所の社長からは「河井さんがやるならメジャーでヒット出来る映画に出演させて下さいよ」。これは御尤もで、逆の立場なら僕も同意見だったかもしれない。当時、社長も、中山美穂も岩井俊二の存在は知らなかった。まだ長編映画のデビューもしていなかったのだ。マネージャーは前向きで応援してくれ、中山美穂本人も前向きだった。

▲『Love Letter』は、1999年には韓国と台湾でも公開され人気を博した。韓国では、日本映画、ドラマ、歌などすべてが禁止されている状態だったが、金大中大統領になり、98年10月に日本の大衆文化の流入制限を段階的に開放し始め、最初は3大国際映画祭のグランプリ作品である『影武者』『うなぎ』『HANA-BI』が上映されたが2週間で打ち切りになりヒットしなかった。その後、国際映画祭でいずれかの賞を獲得した作品に幅が拡げられ、モントリオール世界映画祭で観客賞を受賞していた『Love Letter』もその枠に入り、公開が決まった。日本ではWOWOWで放送済だったため、韓国では多くの大学生たちがそれをダビングしたビデオを回し合って観ていたという。公開時には筆者も岩井俊二監督と共に何度も韓国にいき、大学で講演した際に、7割くらいの学生がWOWOWダビングコピーで観ていたことを知り驚いたという。それでも公開するとソウルを中心に大ヒットし、韓国で初めてヒットした日本映画とされている。25年以上経った今でも、実写の日本映画の興行記録は破られていない。公開後はどこへ行っても「お元気ですか」と声をかけられたという。「お元気ですか」というセリフは、韓国で流行語になった。撮影地の小樽にも200万人以上の韓国人が〝聖地巡礼〟に訪れたという。その波は、中国、アジアへと拡がっていった。

 人生は縁である。
 ここで過去の出会いが活きてくる。それはなぜか『水の旅人 侍KIDS』(1993)だった。久石譲さんの作曲で「あなたになら…」(作詞は中山美穂)を主題歌として制作した。ロンドンレコーディングを行ない、その時、中山美穂と映画に対する希望など色々話した。そこから彼女の映画のことはぼんやりと考えていて、紆余曲折はありながら『Love Letter』に結び付いた。製作出資金ゼロ、事務所の社長の大反対を覆してくれたのは意外なことにキングレコードだった。2つのハードルが一遍に解決に。
 自分では『水の旅人~』の主題歌がそんなにヒットした実感がなかったが、当時、キングレコードの幹部の方々から大いに感謝された。ヒットのお返しに「河井さんが、もし資金的なこととかキングが協力できることがあれば言って下さい」との言葉を思い出したのだ。事務所の社長とキングの幹部は当然懇意で、どんな話が行なわれたのかはわからないが、両者からゴーサインが出た。
 自分の出した提案は「ビデオ権のMGとして1億2000万円」だった。コピーライツ(製作著作)はフジテレビに残してもらった。フジテレビ時代に自分が関わった映画で唯一、ポニーキャニオンではなく、キングレコードからビデオが発売され、大ヒットセールスになった。今でもキングレコードの方々には感謝している。
 これでシネスイッチ銀座で上映できる映画の製作までは漕ぎつけた。
 小樽で10月撮影開始。岩井監督の希望もあり、日産のCM等の演出を依頼されたりする仲で、CM制作会社の<ROBOT>のスタッフと『Love Letter』を作りたいということになり、阿部秀司社長にお願いに行った。その後、映画界で大活躍されたが、先頃(2023年12月)亡くなられたことは残念で仕方ない。色んな迷惑をかけながら、この映画を誕生させていただいた。会社としては『Love Letter』が初めての長編映画への参加になったはずである。

 1994年7月の初頭だったか、突然の異動の内示を受ける。入社から13年余り、映画部一筋だったが、今回の単独犯? としては、ある意味、当然の処置だったかもしれない。その夜、代官山で岩井監督と豊川悦司さんとのミーティングに行ったが、監督の「ここまで出来てるから何とかやれますよ」の言葉に救われ、映画部には担当プロデューサーが付いて引き継いでやってもらうことになった。
 視聴率で何年も1位を独走しているフジテレビの中核、編成部の(ドラマ)企画担当になった。正直、ドラマのイロハはよくわからなかった。それでも2Hドラマの担当なので、中原俊監督らと何本かのドラマは作った。時間を見つけて、『Love Letter』の小樽の現場にも行った。
『Love Letter』は大ヒットではないが、確実に岩井俊二の名前を高めてくれた。嬉しかったのは中山美穂さんがブルーリボン賞などで主演女優賞に輝いた事である。その後、韓国などで上映され(今でも実写日本映画としては興行1位)、アジア中心に多くの人が支持してくれる映画になった。
 振り返ると、たった1年ちょっとの編成部経験になったが、とても面白い時間を過ごさせてもらった。当時のフジテレビの強さを目の前で体験できた。一応、僕もその中のメンバーなのだが、周りは皆、僕はいずれ映画部に戻る、という認識だったように思う。
 ある日、小泉今日子さんと、ドラマプロデューサーからの依頼もあり、編成担当としてキョンキョン主演の月9ドラマの企画を書いた。中味は大きく変更になり、最終的に「まだ恋は始まらない」(1995月10月期/脚本:岡田惠和)というタイトルで放映がスタートした。ただ、僕は、その時は既に編成部と、フジテレビから離れていた。
 当時、キョンキョンに言われた一言「(河井さんと)やるなら、やっぱり映画が良い!」
 これが決定打になった。

▲1993年の大林宣彦監督映画『水の旅人 侍KIDS』の主題歌「あなたになら…」(作曲は久石譲)のレコーディングはロンドンのタウンスタジオで実施された。その際の中山美穂と筆者のプライベート・ショット。この頃、中山美穂から、「自分が将来、親になったとき、子供に『こんな映画に出ていたのよ!』と言えるような映画に出たい」と言われた筆者。気持は常に内に秘めている中山美穂だっただけに、気持を振り絞って言ってくれたことでグッときたという。ロンドンでのこの時間が無ければ、『Love Letter』は、安田成美か、鈴木保奈美で撮影されていたかもしれない。岩井俊二監督のリストにあがっていた2人である。やはり、すべては巡り合わせなのである。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。

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