『中国最後の死刑執行人』99人で引退の掟を破り、300人斬った処刑人の末路とは
大金を一瞬にして稼げる仕事
清朝時代の中国には、少ない労力で大金を得られる職業があった。
しかし、その職業に就ける者は限られていた。色々な意味で誰もが行える仕事ではなかったのだ。
その仕事とは「死刑執行人」である。
特に斬首刑を担当する死刑執行人は、一撃で囚人の首を落とす高い技術が必要とされ報酬も大きかったが、社会から孤立する覚悟も必要だった。
清朝最後の斬首刑執行人として名を残した鄧海山(とう かいざん)は、生涯で300人以上の命を奪い「恐怖の象徴」として恐れられた。
しかし、手にした財産の代償として、彼の晩年は厳しい現実と孤独に満ちていた。
鄧海山の生い立ち
鄧海山(とう かいざん)は、湖南省の貧しい農家に生まれ、幼少期に両親を相次いで亡くした。生年は不明である。
幼い彼は物乞いや近隣住民の助けを借りてどうにか生き延びていたが、食事さえままならないほど困窮した日々だった。
そんな中、「死刑執行人」という職業が大金を得られると知り、生活のためにやむを得ずこの道を選んだ。
鄧海山が、この仕事を選ぶ直接のきっかけとなったのは、優れた腕前で知られていた処刑人・佟紹箕(とう しょうき)との出会いだった。
佟紹箕は、正確な太刀筋で罪人の苦痛を最小限にする「慈悲深い処刑人」として知られており、罪人の家族が賄賂を積んで依頼するほどの腕前だった。
彼の技に心を打たれた鄧海山は、弟子入りを志し、ちょうど引退を考えていた佟紹箕に弟子として迎え入れられたのである。
苦しい修行と覚悟の試練
斬首刑執行人には、長期間にわたる厳しい訓練が必要だった。
まず、鄧海山は鶏や鴨を使った斬撃の練習から始め、次にカボチャや冬瓜に引いた赤い線を、正確に一刀両断する訓練を行ったという。
この訓練では、正確な力加減とタイミングが何より重要で、人間の首の骨を一撃で断つためには、高い技術と冷静な精神力が求められた。
また、師匠の佟は「斬首の瞬間、目を背けてはならない」と教え、処刑人としての覚悟を叩き込んだ。
こうして数年の修行の末、鄧は師の教えを忠実に守り、一流の技を身に付けていったのだ。
初仕事の報酬と繁忙な日々
修行を終えた鄧海山は、師匠の佟と共に処刑場に通い、処刑人としての仕事を学び続けた。
彼の初仕事の報酬は、当時の一般的な農民の半年分の収入に相当する4大洋(4元)だった。鄧にとってこの報酬は、貧困から抜け出すための大きな一歩であり、さらなる技術の習得への大きなモチベーションとなった。
清朝末期には犯罪者が増加し、処刑人の仕事は途切れることなく続いた。鄧は確かな技術で仕事をこなし、評判と共に相当な財産を築くことができた。
しかし、この仕事には深刻な精神的負担も伴った。
彼は処刑が終わるたび、朝廷の施設で「死者の霊が取り憑かないようにする儀式」を行い、竹で自分を打たせることで心を鎮めていたという。
「99人目で刀を置く」慣習を破る
当時、処刑人の間には「99人目で刀を置く」という不文律が存在していた。
これは、100人目以降も処刑を続けると報いを受けるという、因果応報を避けるための慣習のようなものだった。
しかし、鄧海山はこの掟を破り、100人目を超えても処刑を続けた。
彼が掟を破った背景としては、清朝末期ごろは特に社会が乱れ犯罪者が多かったうえに、執行人の職業はただでさえ人気がなく、跡継ぎも現れなかったのであろう。
最終的には300人以上の刑を執行したとされている。
その後、清朝の滅亡と刑法の銃殺刑への変更により、彼はついに職を失うこととなった。
出家の拒絶
鄧海山は過去の罪を悔い、出家して僧侶になることで心を清めようとした。
しかし、何度も寺を訪ねて住職に弟子入りを懇願したにもかかわらず、「あまりにも多くの命を奪ってきた」という理由で断られてしまったのである。
出家が叶わなかったことで「せめてもの償いがしたい」と財産の寄付を申し出てはみたものの、寺だけではなく他も受け入れてくれなかった。
鄧海山は、社会から完全に見放されてしまったのだ。
孤独な晩年と心の葛藤
鄧海山はその後、社会から疎外されていくばかりだった。
彼には友人もなく、若い頃から処刑人の技術しか身に付けていなかったため、他の仕事に就くこともできなかった。
当初は貯めていた財産でなんとか生活していたが、やがて寂しさから酒に溺れ、財産も失い、再び貧困に戻ってしまう。
彼の最後は、まるで呪われたように孤独だった。
荒れた草むらの中で彼の遺体が発見され、表情には苦悩と絶望が刻まれていたという。
かつて人々を恐れさせたその威厳も、冷たい風の中で虚ろな残骸と化し、人々は遺体に近づくことすら恐れて立ち去っていった。
そんなある夜、年老いた一人の通行人が鄧海山の遺体に気づき、そっと瞼を閉じて安らかな姿に整えた。そして、自分の古びた上着を亡骸にかけると、静かに去っていったという。
鄧海山の最後は、人々に恐れられ、嫌われ続けた生涯の象徴のようだったが、その瞬間だけは静かで小さな尊厳が与えられたのかもしれない。
参考 : 『邓海山 抖音百科』『邓海山 清朝最后一名刽子手』他
文 / 草の実堂編集部