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#3 『斜陽』に関するエトセトラ――高橋源一郎さんが読む、太宰治『斜陽』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#3 『斜陽』に関するエトセトラ――高橋源一郎さんが読む、太宰治『斜陽』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

作家・高橋源一郎さんによる太宰治『斜陽』読み解き #3

隠され続けたのは、私たちの「声」なんだ──。

「一億玉砕」から「民主主義」へ――。言葉は変われどその本質は変わらなかった戦後の日本。そんな中、それを言われると世間が困るような「声」を持つ人たちがいました。酒におぼれる小説家・上原、既婚者・上原を愛するかず子、麻薬とアルコール中毒で苦しむ弟・直治。1947年に発表され爆発的ブームを巻き起こした『斜陽』に描かれる、生きるのが下手な彼らの「声」に、太宰治が込めた思いとは何だったのでしょうか。

『NHK「100分de名著」ブックス 太宰治 斜陽』では、『斜陽』の登場人物が追い求めた「自分の言葉で」「真に人間らしく」生きるとはどういうことなのか、そして太宰が「どうしても書きたかったこと」に、高橋源一郎さんが迫ります。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第3回/全5回)

『斜陽』に関するエトセトラ

『斜陽』は、生前の太宰にとって最大のベストセラーであり、戦後文学最初のベストセラーといってもいいだろう。「斜陽族」という流行語を生み、後の「社用族」「太陽族」「みゆき族」といった「××族」という一群のことばの先駆となった。そこには、人びとの心をとらえるなにかがあったんだ。

『斜陽』についての構想が太宰の口から語られたのは、執筆の前の年の一九四六年の終わり頃だ。太宰は依頼を受けた長編小説のタイトルを『斜陽』、さらに「チエホフの『桜の園』の日本版、実家の津島家をモデルにして、没落してゆく名門旧家の物語を書く」と明かした。しかし、実際の執筆で内容は大きく変わってゆく。それには、かねてから懇意にしていた太田静子の存在があった。執筆へ意欲を見せる静子に、太宰は「日記を書くよう」勧めた。太宰が静子から日記を受けとったのが翌一九四七年二月。そのまま、静岡の旅館に泊まって、太宰は一気に『斜陽』を書きはじめた。太宰は、連載二回分を四月頃までに脱稿。その後五月、静子は太宰を訪問。太宰の子を受胎したことを告げた。太宰はさらに『斜陽』を書きつづけ、六月には完成した。完成した『斜陽』は、後に単行本化されることになる「日記」(『斜陽日記』というタイトルで刊行された)に、多くの部分が似ていた。実は、刊行は『斜陽』の方が先だったので、静子の『斜陽日記』は『斜陽』をパクったとの疑惑を持たれたぐらいだった。もちろん、太宰が「日記」から事件や登場人物たちのしゃべることばを大量に『斜陽』に持ちこんだのである。だが、それは、太宰の小説の書き方そのものだった。太宰は魅力ある素材を見つけると、それに「同化」する、あるいは一体化することのできる能力の持ち主だった。太宰は、「日記」を読み、さらに読みこんで、その書き手である「太田静子になる」ことができた。そして、太宰がなりきった「太田静子」を「かず子」に変えて『斜陽』の世界を作り上げたんだ。そのとき、同時に、「津島家の物語」のはずだった『斜陽』は、「太田家の物語」になっていったのである。

 それは、どんな世界だったんだろうか。その前に、太宰が最初に書く予定だった、『桜の園』の話をしよう。

『桜の園』は、ロシアの劇作家、アントン・チェーホフの代表作。というより、世界演劇史上に残る不滅の名作。膨大な数の短編小説と、いくつもの傑作戯曲を書いたチェーホフは、日露戦争のさなか、第一次ロシア革命の半年前の一九〇四年に僅か四十四歳という、太宰を思わせる若さで亡くなっている。

『桜の園』は、ロシアのある大地主の、「桜の園」と呼ばれる、美しい桜を誇るある領地での物語。ラネーフスカヤ夫人は兄のガーエフと共に「桜の園」を所有している。けれども、借金のせいで「桜の園」は競売に出されようとしているのだ。そんな「桜の園」に、久しぶりにラネーフスカヤ夫人はパリから戻ってくる。夫人は夫の死後、情事に耽り、やがて愛人とパリに出奔していたんだ。もちろん、その金は領地から出ていた。だが、結局、金も尽きた。「桜の園」に、ラネーフスカヤ夫人、兄のガーエフ、夫人の娘アーニャ、養女のワーリャ、召使たちが集まる。そして、そこには、かつて父親や祖父が農奴でいまや大金持ちになったロパーヒンも。「桜の園」を救うことはできるのか? それとも、誰かの手に渡ってしまうのか? 右往左往し、美しい過去の記憶にすがろうとする、働く能力のない、古い地主の末裔たち。その一方で、力を持って伸びてゆく新しい階級の人間。結局、ロパーヒンが「桜の園」を競売で買い取ったことがわかる。意気揚々と、会場から戻ってきたロパーヒンはこういうのだ。

「負債額の上に九万ルーブルを積んで、わたしが取ったのです。今や桜の園はわたしのもの、わたしのものです!(声をたてて笑う)(中略)もし、うちの親父や祖父さんが柩の中から起き上がって、この顚末を、餓鬼の(中略)エルモライが、世界中に比べるものもないほど美しいこの領地を買ったのを見たら、何と言うだろう! 祖父さんや親父が奴隷だった、台所にさえ入れてもらえなかった、その領地をわたしは買った。わたしは夢を見ている、ただそんな気がしているだけなんだろうか……。(中略)皆さん、揃って見に来て下さいよ──このエルモライ・ロパーヒンが斧を取って桜の園を打ちのめすところ、樹々が大地にひれ伏すさまをね! いやというほど別荘を建てるぞ。そしておれたちの孫や曾孫に、この土地の新しい暮らしを見せてやろう……」(小野理子訳、岩波文庫、以下同)

 このロパーヒンのセリフは、ぼくたちもいろんなところで聞いてきたんじゃないだろうか。古いものなんかいらない、新しいものに、もっと金目のものに、もっと役に立つものに、変えちまえ。ぼくたちの国では、豊かさに直進することがいいことだとされてきた。そんな戦後の七十数年間だった。桜の園なんか斧で倒し、別荘を建てて儲けるんだ、って。

 まだ戦禍が生々しく残る一九四七年に太宰が、この『桜の園』に基づく小説を構想したのはなぜだったんだろう。戦争の被害から出発すること、新しい時代に向かって希望を作ること、それが目指されていたのに、このロパーヒンのことばの中には、それは見いだせない。ただ存在しているのは、自己中心的な飽くなき欲望の肯定だ。そのためには、古き善き美しいものなんかいらない。いや、いらない、というより、目障りだ。そんなもの、滅ぼしちまえばいいんだ。

 ロパーヒンのセリフにショックを受けたラネーフスカヤ夫人に対し、娘のアーニャはこういって慰める。

「桜の園は人手に渡って、もう無くなった。その通りよ。でも、泣かないで。ママの人生はまだこれからだし、ママの美しい心だって、そのままなんだもの……。御一緒に、ここを出て行きましょう! あたしたちの手で、ここより立派な新しい園を作るわ。ママはそれを見て、おわかりになる──静かで深い喜びが、ちょうど夕方の太陽のようにママの心に降りてくるのがね……。そしてにっこりなさるでしょう。行きましょう、ママ、行きましょう!」

 アーニャのいう「夕方の太陽」こそ、『斜陽』の発想のスタート地点だった。新しい金持ちが、古い「桜の園」を打ちのめし、彼らの新しい国を作ろうとしている。けれど、古い時代に属する者たちは、ただ、寂しく退場していくだけの存在じゃない。迫り来る「新しい国」よりも、もっと「立派な新しい園」を作ることができるんじゃないだろうか。それは、「夕方の太陽のように」心に降ってくるものなのだ。

 アーニャのいう「立派な新しい園」は、この『桜の園』には描かれていない。チェーホフ自身の作品の中にも見当たらない。もしかしたら、太宰も、日本の『桜の園』である『斜陽』を構想したときには、思いついてはいなかったのかもしれない。けれど、太田静子の「日記」を手にしたとき、太宰には、「立派な新しい園」がどんなものであるのか、あるいは、どんなものであるべきなのかが、わかったんだ。

『斜陽』は、ロシアの作家チェーホフが脳裏に浮かべた「新しい園」、いや「新しい国」を、極東の作家・太宰治が渾身の力をこめて作り上げたものだった。では、その「新しい国」とは、どんな国だったんだろうか。

著者

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
広島県生まれ。作家。1981年「さようなら、ギャングたち」で第4回群像新人長篇小説賞を受賞しデビュー。1988年『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞、2002年『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞、2012年『さよならクリストファー・ロビン』で第48回谷崎潤一郎賞を受賞。他の著書に『一億三千万人のための『論語』教室』『「ことば」に殺される前に』(河出新書)、『これは、アレだな』(毎日新聞出版)、『「読む」って、どんなこと?』(NHK出版)など多数。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス 太宰治 斜陽 名もなき「声」の物語』(高橋源一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。

*本書における『斜陽』の引用は、新潮文庫版(平成二十七年二月二十日百三十刷)によっています。『散華』は『太宰治全集6』(ちくま文庫)に、それ以外の太宰作品は新潮文庫版によっています。

*本書は、「NHK100分de名著」において、二〇一五年九月に放送された「太宰治『斜陽』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「太宰治の十五年戦争」「おわりに」を収載したものです。

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