第14回【私を映画に連れてって!】 日韓合作によりヒーローの知られざる実像を炙り出した映画『力道山』
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
香港との合作映画『孔雀王』(1988)の経験はあったが、その時は相手のゴールデンハーベスト社とフジテレビの関係からスタートした。
今回の2006年日本公開の日韓合作映画『力道山』は個人的な関係から始まった。
きっかけは、日本で『八月のクリスマス』(1998/韓国映画)の試写会に配給会社から招かれ、新橋で映画を観たことだった。上映終了後、ホ・ジノ監督を紹介され、「とても面白かった!」と言ったあとに、あまりに主演女優に魅かれたのか「シム・ウナ主演で一緒に映画やりませんか!」と僕が言ったらしい。「らしい」というのは自分の記憶が定かでないからだが、その後、監督は1年以上に渡り、シナリオ執筆をすることになる。
ここで、プロデューサーでもあり製作会社(ウノ・フィルム)の社長でもあったチャ・スンジェ氏との出会いがその後の『力道山』、それだけでなく、その後何十回と韓国に行くことにもなる。僕が最もリスペクトする映画人である。彼は『ほえる犬は噛まない』(2000)や『殺人の追憶』(2003)などのポン・ジュノ監督作品から、日本のドラマの映画化『私の頭の中の消しゴム』(2004)など幅広く製作し、同世代で初対面時から気が合った。
ちょっと残念だったのは、ホ・ジノ監督がシナリオ執筆中に、シム・ウナが突如引退してしまう。シナリオが1年以上かかって遅れていたが、何より「シム・ウナ主演」が無くなったことで、日本の出資者も一旦いなくなってしまう。
そんな時、香港の監督で、プロデューサーでもあるピーター・チャンから連絡が来る。彼との付き合いは『孔雀王』くらいからと古く、彼の監督作『君さえいれば/金枝玉葉』(1994香港/レスリー・チャン&アニタ・ユイ&カリーナ・ラウ)は大好きな映画だ。
思えば僕が『リング』(1998)を製作した時も連絡があり「一緒にホラーでオムニバス合作しようぜ!」と。僕はやってもいいかと思ったが中田秀夫監督のノリもイマイチ? でそれは流してしまった。その映画のタイトルは最初『FOUR』と言った。4人の監督で4作のオムニバス。日本が抜けて『THREE/臨死』(2002)となり、3人の監督(キム・ジウン『甘い人生』&ノンスィー・ニミブット『ナンナーク』&ピーター・チャン」)で香港・タイ・韓国の3か国合作映画となり、日本でも公開された。紆余曲折あっても実現化する香港パワーおそるべし。
そのピーターがホ・ジノ監督に興味を示し、僕がやっているのを知って、製作にも参加したいと。ただ、シム・ウナの件もあり、自分では前に進みにくい感じだったが、「やろう! やろうよ!」とのことで、韓国でチャ・スンジェら皆で会った。ピーターの親友のジャッキー・チェンもいて、なぜか朝までジャッキーともカラオケに行った記憶がある。覚えているのはちょうど『ラッシュアワー2』(2001/米)の頃で、「ハリウッドのギャラ幾ら?」と聞くと「16億円位(当時のレート)」と答えてくれた気がする。「韓国や日本映画だと全く値段が合わない!」と言うと「その場合は1億円以下で良いんだ!」と言ったような。カラオケの途中の会話なのでさて……。『孔雀王』(1988)の時は,此方からジャッキーにオファーしたが、「1億2000万の出演費」と香港サイドから言われて諦めたことは覚えている。
▲2005年10月22日から30日に開催された第18回東京国際映画祭。オープニング上映は、チャン・イーモウ監督、高倉健主演の中国映画『単騎、千里を走る』で、クロージング上映には、ソン・ヘソン監督、韓国のスーパースターであるソル・ギョング主演の日韓合作映画『力道山』が選ばれた。アジアのコラボ映画が映画祭を彩った年と言えるだろう。韓国での公開は前年の2004年で、日本での公開は2006年4月の公開だった。日本公開版はオリジナルの2時間11分に編集を加え、18分長い特別バージョンになっている。キャッチコピーは、〝日本人がいちばん力道山を知らない〟。朝鮮人としての側面にフォーカス・オンし、肯定的、否定的な側面をすべて盛り込み、作品は高評価を得た。東京国際映画祭での10月30日のクロージング上映の際には、主演のソル・ギョング(写真中央)、プロデューサーのチャ・スンジェ(左)、ソン・ヘソン監督(右端)も舞台挨拶に出席し、喝采を浴びた。
香港人の行動は世界一速い。香港映画祭だったか、ピーターがセットして「記者発表」も行われ、タイトルは『春の日は過ぎゆく』(2001)とした。僕も参加し、ジャッキーも一緒だった。出演も何も無いが……。シム・ウナ無きあと、イ・ヨンエが主演してくれ、韓国で最も権威のある青龍映画賞では最優秀作品賞、東京国際映画祭の最優秀芸術貢献賞も受賞した。
結局、日本は松竹が製作参加してくれることになり、その後は僕は一歩引いた。松竹のプロデューサーには感謝している。チャ・スンジェには当初、僕が出資の半分の調達を前提に進めていたので、大きくファイナンスは変わってしまったが、むしろ、成立したことに御礼を言ってくれた。韓国、香港、日本の合作となり、ピーター・チャンもしっかりプロデューサーにクレジットされている。
その頃、日本で出版された『もう一人の力道山』(李スンイル:著)を読んだことから力道山の映画化への興味が俄然湧いてきた。
力道山が朝鮮出身であることは何となく知っていたが、このノンフィクションを読んだ後は、これまでの認識とは全く違う力道山の姿を想像し、脳裏から消えなくなってしまった。
正直、<力道山>に熱狂した世代からは10年以上遅れて生まれているので、当時の記憶はあまりない。ただ、日本で日本人としてスーパースターになった男が、遂に、死ぬまで祖国(北朝鮮)に帰ることは許されなかった。朝鮮戦争が起きなければ、北と南に分断され無ければ、娘や家族の待つ故郷に帰れたであろう、悲しい運命。光と影の物語だ。
好きだった映画『ガキ帝国』(1981)の井筒和幸監督は奈良高校の6年先輩である。井筒監督も力道山の映画には思いが強かったが、色んな理由で実現には至らなかった。力道山を扱うテレビ番組も殆ど無く、映画も無かった。
リサーチしているうちに何故、<力道山>がテレビ番組「知ってるつもり」(NTV)にも取りあげられなかったのかが徐々にわかってきた。力道山(日本名:百田光浩)には息子さんが2人いて、共にプロレスラーだった。お兄さん(百田義浩)が2000年に54歳で急死された後、弟の百田光雄さんに会えたことで、企画は前に進みだす。お兄さんは生前、力道山にまつわる映像化に反対されていた。兄弟ともに父親の出生に関しては聞かされずに育ち、徐々に周りからそのことを聞くことになる。今さら、そのこと(親父の出生等)をほじくり出されることの不快な思いが反対の主な理由だったと聞かされた。今でもお会いした際の弟の光雄さんの言葉ははっきり覚えている。「親父が亡くなって(1963没)もうすぐ40年。これからもし40年、誰も力道山を語らなければ皆、力道山を忘れてしまう」
百田家から、映画化の許諾はその後いただけた。
日本の脚本家とシナリオ制作をしながら、大沢たかおさんにちょっと太ってもらって、筋力も付けてもらって……などと考えているときに、韓国のチャ・スンジェプロデューサーから連絡が入った。彼も<力道山>の映画化を、僕よりも前から考えていた。北朝鮮では英雄だが、韓国でもヒーローであると。その頃の韓国は、いつか北ともう一度一つの国になることを期待する人が多かった。それは力道山の願いでもあった。
韓国の映画人も行動力はあり、いきなり韓国人監督(ソン・ヘソン)を渋谷のセルリアンタワーに連れてきた。僕は日本人監督を考えていたが、チャ・スンジェとソン・ヘソン監督のパワフルさに圧倒され、それもありかと。ただ、多くのシーンは日本であり、日本語映画とも言える。それでも、朝鮮人としての悩みや苦しみは、僕にはわからないことが多かった。シナリオも監督が書くことになった。
その頃、チャ・スンジェは『殺人の追憶』(ポン・ジュノ監督)を製作中だった。韓国の現場に来てくれとのことで撮影場所を訪ねた。もう、数か月撮影しているが、終わりの気配は無かった。夜のシーンでは日本の照明と比較すると7~8倍の量で撮影していた。もちろん35ミリフィルムだ。しかもASA100と感度の悪いフィルム。これも監督の拘りだ。日本は当時、感度の良いHDメインの撮影に移行していた。ポン・ジュノ監督は今村昌平監督をリスペクトしていて「今村監督ならもっと凄い撮影してますよね」というような話をしていたと記憶している。ソン・ヘソン監督も今村昌平監督に傾倒していて、『うなぎ』(1997)なら全カット覚えていると、僕に各シーンの狙いを説明してくれるほどだった。
『Love Letter』(1995)が、韓国でヒットした1999年頃は、韓国の映画人たちに会うと「いつかは岩井俊二監督のようになりたい」と言う監督たちが大勢いた。ただ、『殺人の追憶』の現場にいて思ったのは韓国人の「映画」に対する向き合い方の真摯さ。それは企画のこと、脚本制作の長さ、撮影、ポスプロ、海外への目の向け方……あらゆる点において日本と比べて〝抜かれた感〟を覚えずにはいられなかった。結果、『殺人の追憶』(2003)は世界に通用する映画になった。この辺りがある意味では韓国映画の勢いの起点となった時期ではないか。そして16年後、ポン・ジュノ監督は『パラサイト/半地下の家族』(2019)でアカデミー賞に輝くのだ。
『力道山』の撮影にあたり、板門店、38度線の国境などにもシナリオ・ハンティングで訪れた。
『力道山』の製作で、予想外のことは主役のキャスティングだった。誰が力道山をやるのか。出来ればプロレスシーンも吹替でなく。チャ・スンジェから出た名前はソル・ギョングだった。当時のスーパースター俳優、ソン・ガンホ、チェ・ミンシュクと並び3大役者の一人。釜山映画祭の野外上映で観た『ペパーミント・キャンディー』(2000/イ・チャンドン監督)は素晴しい映画だった。同じ監督の『オアシス』(2002)もソル・ギョング主演で良い演技だったが、役の上とは言え、60キロ代の体重に思えた。
僕が初対面の時に「90キロ位が理想で……」と言ったら「そうします(撮影時は実際に25キロ増量してきた)。プロレスも吹替なしでやります! 日本語勉強します」と。これが韓国の「映画俳優! だ」と、その場で決定した。
ただ、力道山以外のキャストはほとんど日本人だ。後見人(タニマチ)の役は藤竜也さんにお願いした。格闘家の船木誠勝さん、プロレスラーの橋本真也さん(残念ながら映画完成前に急死された)、武藤敬司さん、秋山準さんらホンモノの方にも参加してもらった。
ヒロイン(妻)は日本の女優にしたかった。日本での公開の事もある。ちょうど、秋の釜山国際映画祭の時期で、『リング』『らせん』でも一緒だった中谷美紀さんが、韓国映画にとても興味があり、韓国に行ってみたい! とのことで一緒に参加することになった。彼女は初めての韓国だ。僕は20数回目だろうか。チャ・スンジェとソル・ギョングが気をきかして焼肉屋を、夕飯にセットしてくれた。そこにはなんとソン・ガンホとチェ・ミンシュクも。僕はアンニョンハセヨとしか言えない中、初韓国のはずの中谷さんは、いきなり通訳無しで俳優たちと会話を始めた。おそるべし女優。僕とは向き合い方、パッションが違う! そんなこんなで、ヒロインは中谷美紀さんに決定。
▲撮影前に中谷美紀のエスコートで、新橋の花柳界へ韓国チームを招待し、「東をどり」など、日本の伝統芸を満喫した。前列に力道山役のソル・ギョングと中谷美紀。右端が筆者。
スタッフは韓国人50人以上、日本も同様。100人を軽く超えるスタッフだが、同じ顔をしているのに、言葉が通じない。ここは合作の時の悩みの種である。相当数の通訳に助けられる。撮影のやり方も韓国と日本は随分違う。日本が今では特殊かもしれないが、監督が韓国人なので韓国スタイルに出来るだけ合わせたいがこれもギクシャクあり。また、ロケ・撮影等においては日本は発展途上国、或いは後進国か……。結局、新橋駅前の街頭テレビのプロレス中継シーン等もソウルで撮影することになった。桜のシーンだけはGWに青森弘前公園で撮影できた。ギリギリだった。
『殺人の追憶』のスタッフらも参加し、撮影監督は同じで、『殺人の追憶』の撮影は1年以上かかったという。今回はそんなことはあるはずはないと考えていたが、2004年4月にクランクインして、9月にやっと撮影終了となった。半年かかった。12月15日、力道山の命日に韓国では公開になった。
▲筆者は、映画『力道山』の製作にあたり、力道山の次男で、プロレスラーで、当時プロレスリング・ノアの副社長でもあった百田光雄氏に話を訊くために、江東区のノアの道場には何度も通った。もちろん、プロレスの試合も幾度となく観戦した。当時、ノアの社長で、2009年に試合中にバックドロップを受け意識不明、心肺停止状態に陥り46歳で亡くなった三沢光晴選手(右の写真)や、ノア所属のレスラー、小橋建太選手(左の写真)とも懇意になった。
▲餅つきにも参加し、百田光雄氏と一緒に餅をついたことも。ノア所属のレスラー、杉浦貴選手(左)、モハメド ヨネ選手(右)の姿も見える。
一方で、日本側のファイナンスや、製作体制は二転三転した。当初、僕が所属していたアミューズや、キー局などが参加予定だったが、予期せぬ出来事も続々と起き、すべて失くしてしまった。それだけ<力道山>の映像化(映画化)を行うことはタブー視されてきたことを実感として受け止めるしかなかった。それでも個人プロデューサーとしてやらせてくれたアミューズには感謝している。
百田さんの許諾と共に、映画に登場する、例えば力道山を赤坂で刺した男、力士時代の周囲の方々等、多くの関係者に事前の了解や伝達をしておくことは重要だった。百田光雄さんが役員のノア(プロレス団体)には本当にお世話になった。またアントニオ猪木さんはじめ、プロレスラー力道山周りの方々にも協力してもらった。それでも上映直前には映画館側から〝危険〟を感じるというシアター報告もあり、大きく上映チェーンは変更になってしまった。
結局、日本の出資はゼロ、すべて韓国サイドで、主にCJエンターテインメント(この後に『パラサイト/半地下の家族』等を製作・配給)が担当してくれた。感謝。日本はソニー・ピクチャーズが、撮影開始前にMG(ミニマム・ギャランティ)で日本のオールライツを事前購入(配給権など)してくれた。これも担当者に感謝。
韓国は目標の500万人動員には届かず300万人程度の観客数だったが、日本でも興行チェーンも変更を余儀なくされ、思った興行には至らなかった。
それでも、東京国際映画祭のクロージング作品に選んでもらい、Bunkamuraオーチャードホール(当時は渋谷開催)に監督、キャストらで舞台挨拶が出来たことは、日韓合作映画としてはとても良かったと思う。
『力道山』は、あくまでもフィクション映画だ。それでも実際に生きていたスーパースターの物語だ。今でも、力道山が39歳(実際は41歳か)で亡くなった死因は謎の部分もある。
『シュリ』(1999)や『JSA』(2000)で過去の闇を見事に浮き彫りにしながら、エンタテインメント映画として成立させた韓国映画界。最近のアメリカなら『オッペンハイマー』(2023)か。
僕も含めてだが、この分野での日本映画の奮起を願うところである。
▲韓国でのクランクアップの時の集合写真。中央に中谷美紀、ソン・ヘソン監督、浴衣姿のソル・ギョング、藤竜也。向かって左2番目に筆者の顔も見える。
▲韓国での完成披露試写会には、百田光雄氏(左)と息子の百田力氏(右)も訪れた。光雄氏は1970年にプロレスラーとしてデビュー戦を飾った。大病を患ったりしたが、医師からも現役続行のお墨付きを得て、〝生涯現役〟を誓い、現在もトレーニングを続けているという。光雄氏の息子百田力氏は、後にプロレスラーになり、〝力道山三世〟と呼ばれた。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。