やなせたかし氏に「ずるくなれ」と説いた母・柳瀬登喜子 〜史実でも気高く美しかった
子どもたちの「お母さん」の声に呼応するように、くるくると回りながら遠ざかる白いパラソル。
朝ドラ『あんぱん』で描かれた幼い兄弟と母親の別れは、やなせたかし氏の実体験を忠実に再現したシーンです。
松嶋菜々子さん演じる柳井登美子は、派手な着物のよく似合う美人ですが、彼女のモデルである、やなせたかし氏の実母・柳瀬登喜子さんもとても美しい人でした。
躾に厳しく、時には物差しでぶつこともありましたが、やなせ氏にとっては自慢の母だったそうです。
幼い子供を他家へ託し、再婚の道を選んだ柳瀬登喜子さんとは、どのような人物だったのでしょうか。(以下敬称略)
大地主の家に生まれ何不自由なく暮らすお嬢さま
やなせたかしの母、登喜子は1894年(明治27年)1月11日、高知県香美郡在所村に生まれました。
母親の鐵(てつ)は15の時に広島から谷内保定のもとへ嫁ぎ、6人の子をあげましたが、男の子三人は早逝し、登喜子は三姉妹の真ん中でした。
谷内家は大地主で、父親の保定は芸者を呼んで大遊興する派手好きな面を持つ一方で、高知発祥の自由民権運動に参加する情熱家の一面ももつ人物だったそうです。
登喜子は恵まれた環境でぜいたくに暮らし、高等女学校へと進みます。
高知県立高知第一高等女学校で学ぶ登喜子は、美しく髪を結い、華やかな着物の良く似合うあか抜けた女学生でした。
当時の女学校は良妻賢母の育成が目的であり、いわゆる花嫁学校です。嫁探しの場として授業参観も認められていたため、有力者や嫁取りに奔走している母親などがこぞって訪れ、見初められた女学生は結婚を理由に退学するのが常でした。
家柄もよく容姿端麗だった登喜子には、ふってわいたように縁談が次々と舞い込んできたのでしょう。在学中に豪商と結婚しています。
ただし、この結婚は長くは続かず、離縁後、彼女は谷内家へと戻りました。
柳瀬清と結婚、二人の子に恵まれる
1918年(大正7年)、24歳の登喜子は、柳瀬清と結婚します。
清は県費留学生として上海の東亜同文書院大学に留学した秀才で、卒業後、日本郵船上海支店に勤務し、講談社へと転職していました。
結婚の翌年の1919年(大正8年)2月には、長男の嵩(たかし)が誕生。手のひらにのるくらい小さな超未熟児だったそうです。
悪しくもスペイン風邪が大流行しており、小さな子どもを抱えた両親の心配はいかばかりかと察せられますが、後に登喜子は嵩にこう語ったそうです。
「あなたのお産はとても楽だった。おなかもあまり目立たなくて、誰も気づかなかったの」
梯久美子著『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』より引用
意外と、あっけらかんとした性格なのかもしれません。
3人は北豊島郡滝野川町(現・東京都北区滝野川)のこぢんまりとした借家に住んでいました。
家には蓄音機があり、童謡からクラシックまで、音楽があふれている家庭でした。
嵩が生まれた2年後の1941年(大正10年)、父・清は朝日新聞社からヘッドハンティングされ記者となり、この年の6月には弟の千尋が生まれています。
翌年、中国語が堪能だった父は広東特派員として単身中国へ渡ります。まだ子どもが小さかったため、夫の不在中、登喜子と子どもたちは、実家で暮らすこととなりました。
夫の急死と自活への道を模索する登喜子
中国へ赴任してから1年半が経った、1924年(大正13年)5月16日、柳瀬清は急病により31歳の若さで帰らぬ人となってしまいます。
この時、登喜子は30歳。5歳の嵩とまもなく3歳になる千尋を抱え、彼女は寡婦になったのでした。
弟の千尋は、後免町(現・高知県南国市後免町)で開業医をしている父の兄に引き取られました。
兄夫婦には子どもがなく、清の生前から千尋が養子になる約束がなされていたためです。
千尋を手放した登喜子は高知市内に家を借り、嵩と夫の保定亡き後、家族とうまくいかなくなり、家を出ていた実母の鐵の三人で暮らすことになりました。
息子と母親を抱え、登喜子は自活の道を探し始めます。
大正時代には、「職業婦人」とよばれる働く女性が誕生し、女性の社会進出が進みましたが、特別な資格を持たずに働ける職業はそうそうなく、専門的な技術を習得しなければ、女性が自立して生きていくのはたやすいことではありませんでした。
茶道や華道、書道に琴に三味線、はては洋裁まで、ありとあらゆる稽古ごとにつぎ込み、登喜子はなんとか手に職をつけようとします。
幼い嵩が見てもわかるような濃い化粧で香水をまとい、しょっちゅう家を留守にするのでした。
凛々しい濃い眉と印象的な大きな瞳。もともと華やかな雰囲気の社交的な登喜子の周りにはいつも男性が群がり、嵩は母親が陰口を叩かれるのを幾度も耳にしたといいます。
それでも幼い嵩は、母親が家を空けるのは自活しようとしているからであり、時折ヒステリーを起こすのも父親の死を悔いているからだと理解していました。
事実、登喜子は夫とともに中国へ行かなかった自分を生涯責め続けたそうです。
そんな母を自慢に思っていた嵩に、ある時、登喜子はこんな忠告をしました。
「おまえみたいに真っ正直だと、馬鹿を見るよ。生きていくには、もっとずるくならないと」
梯久美子著『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』より引用
「ずるくあれ」と言った登喜子は自活をあきらめ、庇護してくれる男性のもとへ嫁ぐことを選択したのでした。
子どもを置いて再婚の道を選んだ登喜子
世間の風は冷たく、お嬢さん育ちで何ができるわけでもない登喜子に、家族3人の暮らしを支える力はありませんでした。
明らかに家計はジリ貧の一途をたどっていたにもかかわらず、嵩は自分の家が貧乏だと露にも思わなかったそうです。
家にいない母に代わって世話を焼いてくれた優しい祖母と、最愛の母に大切にされていたからでしょう。
近所の子どもたちの中で幼稚園に行っていないのは自分だけということに気付かないほど、ささやかな生活に子どもは満足していたのかもしれません。
そんな綱渡りの生活に終止符が打たれたのは、嵩が小学2年生のときでした。
弟・千尋の住む開業医の伯父の家で、登喜子は嵩にこう告げます。
「嵩はしばらくここで暮らすのよ。病気があるから伯父さんに治してもらいなさい」
やなせたかし著『人生なんて夢だけど』より引用
あでやかな新しい着物を身にまとった登喜子は、白いパラソルをさし、去って行きました。
遠ざかる母と白いパラソルを、嵩は終生忘れませんでした。
必ず迎えに来るという登喜子の言葉を信じ、近所の人が再婚した母を悪く言うのにも耐え、本当のことがうすうす分かるようになっても母を思う気持ちは変わりません。
けなげにも、早く丈夫になろうと乾布摩擦をしたそうです。
登喜子の再婚相手は、東京在住の官僚で子どももいる人でした。
結局、登喜子はその再婚相手にも先立たれ、夫が遺してくれた東京の家に住んだのち、田舎に移り、一人で暮らしたそうです。
東京で学生生活を送っていた嵩は、母の住む家をときどき訪れており、弟の千尋も京都帝国大学に在学中、登喜子と会う機会があったのでしょう。二人が一緒に写った写真が遺されています。
登喜子が子どもたちを迎えに行くことは生涯ありませんでしたが、彼女と二人の息子の絆は途切れることなく続いたのでした。
参考文献
梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』文芸春秋
やなせたかし『人生なんて夢だけど』フレーベル館
文 / 草の実堂編集部