「女の子にはできないの?」勝ち気な老舗の末っ子が、女性ワイン醸造家のパイオニアになるまで
山形県上山市で、ワインの醸造とその原料となるブドウの栽培を行うタケダワイナリー。社長を務める岸平典子さんは、国内初の女性栽培・醸造責任者としても知られる女性醸造家の草分け的存在です。跡継ぎの兄と比べられ悔しい思いをした幼少期の思い出、そして男性社会の醸造業を変革するために心がけていることとは。
山形県と宮城県を隔てる、蔵王連峰の麓に位置する上山市。雄大な自然が眼前に広がるこの地に、1920年創業の老舗タケダワイナリーはあります。
社長を務めるのは、5代目の岸平典子さん。国内の女性としては初となる栽培・醸造責任者を務める岸平さんですが、歴史ある老舗の「跡取り」になるとは夢にも思っていなかったといいます。
4歳離れた兄の伸一さんがいたため、いつも自分は二の次。周囲からは何かにつけて「伸一は長男で後継ぎ。お前は女の子だから」と言われ、後回しにされがちな幼少期でした。
「私が農業やワインづくりに興味を持っても、『女の子だから』と相手にされていなかった感覚はありましたね。こどもの頃からずっと『女の子だからという理由で、なんでそんな扱いを受けなければならないんだろう』と思って生きてきました」
高校卒業後、山形から上京して玉川大学農学部の農芸化学科(当時)に進学。大学に入学した1980年代は短大に進学する女子が多かった頃で、母親からも短大を勧められていました。しかし、父親が「勉強したいのなら行ってもいい」と背中を推してくれたこともあり、4年制大学への進学を決めます。
「大学進学では醸造に特化した学科ではなく、発酵についてより広い視野を得られそうな微生物学を学ぶことができる学科を選びました」
家業のことは意識していたものの、兄がいたこともあり継ぐことまでは考えていなかったという岸平さんは、糸状菌が代謝する植物ホルモンの研究に没頭します。所属していた研究室も厳しい指導で知られ、3年生の後半から卒業までは研究室にこもりきりで実験など研究に勤しみました。
ワインの醸造に欠かせない酵母、そして、食品の衛生管理において天敵である細菌も微生物の一種です。多忙な日々を送りながらも充実していた大学での微生物についての学びは、現在のワイナリーでのさまざまな仕事にもリンクする、ベーシックエデュケーションになったといいます。
その一方で、4年制大学に進学する女子は男子に比べ圧倒的に少なく、理系には特に女子が少なかった時代。同じ学部内でも、女子学生は数えるほどしか在籍していなかったといいます。
「私自身は男子のなかでも気負わずに学びたいと思い進学したこともあり、学生時代にジェンダーギャップなどを感じるシーンは多くなかったと思いますが、まだまだ男尊女卑的な雰囲気は強かった時代です。周囲の男性から、『どうせ卒業したら田舎に帰って結婚するんだろう』などと嫌味を言われることは珍しくなかったですね」
周囲のそんな予想を裏切り、大学卒業後は化学系メーカーの研究所で働いたのち、ワインの名産地として名高いフランス・ブルゴーニュ地方の国立マコン・ダヴァイ工醸造学校に留学。その後はボルドー大学醸造研究所などでも研修し、ワインづくりの基礎を学びます。
大学進学時にはあえて微生物学を専攻しながら、本場のフランスではワイン醸造を学ぶ。その選択をした背景には、岸平さんなりの小さな”反抗”がありました。
「ちょうどその頃、ワイナリーを継ぐために兄がフランスでワイン修行をしていたため、私も行きたいと直談判したのですが、両親には『女の子を一人で海外には行かせられない』と言われてしまって。それでも、『お兄ちゃんが行けるのに、なんで私は行っちゃいけないの?』という気持ちを抑えることはできませんでした」
バルザックやスタンダールなどのフランス文学が好きだったこともあり、「とにかくフランスに行ってみたかった」という岸平さんは、渡仏のために何か理由をつけようと思い立ちます。そこで、本場のブドウ栽培とワインづくりを学びたいという大義名分のもと、帰国後は兄を手伝うという条件で1990年にフランスへと旅立ちます。
こうして、ワイン修行という理由はいわば「後付け」だったフランス留学でしたが、現地で目にしたのは生活に根付いているワインの存在でした。産業としても文化としても多くの人に親しまれていることに衝撃を受け、ワインづくりを一生の仕事にしたいと思えるようになったのだといいます。
「日本にいる時にも興味がなかったわけではありませんが、ワインづくりに携わりたいと強く思うようになったのはフランスに行ってからです。当時は一流の醸造家たちと交流する機会があったこともあり、彼らと同じ立場として働いてみたいと思ったことも大きいですね」
日本では酒蔵が女人禁制とされ、長きにわたり女性が醸造に携わることができなかったことで知られています。フランスも今でこそ女性ワイン醸造家が多く活躍していますが、当時は現在と比べるとまだ珍しかった頃。年配の人には「女が蔵に入るとワインが腐る」と言われたこともあったと岸平さんは話します。
また、遠い日本でワインづくりをしているという事実も現地の人々にとっては衝撃で、さらに女性が家業を手伝うために留学してきたということで、非常に珍しがられたといいます。ある時には地方紙の取材を受け、「日本からはるばるワインづくりを学びにきた女の子」として地元の有名人になった…なんてことも。
4年の修行を経て帰国した日本でも、「女性」というだけで色眼鏡で見られてしまうことが少なくなかったといいます。
ましてや、岸平さんが飛び込んだのは、ほとんどを男性が占める醸造業の世界。女性で活躍している人の前例がなかったこともあり、何をするにも「女のくせに」と陰口を叩かれることも日常茶飯事でした。
当時社長を務めていた父親の代理で組合の会合に出席しても、「女は関係ない」と辛辣な言葉をかけられたことさえあったといいます。しかし、持ち前の忍耐力を発揮しながら地道にコミュニケーションを続け、地元農家と連携したブドウの品質向上など、山形ワインの発展にも貢献してきました。現在では、ワインはもちろん、日本酒や焼酎の醸造においても多くの女性醸造家が活躍しています。
「業界全体が変化してきているのはすごく嬉しいですね。同業者の会合でも、女性同士で情報交換をする機会が増えています」
国内初の女性栽培・醸造責任者として、自分にできる働きかけも積極的に行っていると話します。
「私たちが『男女格差をなくそう!』と声を上げるだけでは難しい部分もありますから、女性である私が率先して何かを担当したり、同業者でイベントを開催する際には必ず運営メンバーに女性を入れてもらう。そうした地道な努力は今でも意識して続けています」