第22回【私を映画に連れてって!】元フジテレビ局員が語る〝フジテレビ騒動〟で顧みる〝フジテレビイズム〟とは。そしてテレビ局とは、映画とは、ドラマとは。
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
昨年末あたりからのフジテレビへの風当たりの強さは、この40数年間、一度も経験したことのないほどの衝撃である。
思えば、1980年10月2日。大学4年生の就活で初めて訪れた河田町のフジテレビ。当時の視聴率は民放5局中、4位前後。当時の浅野賢澄社長は郵政省(現総務省)からの通称、天下り。この年、ニッポン放送からフジテレビに副社長で転じた鹿内春雄氏は若干35歳。鹿内家は創業時から特別である。面接時もほとんど鹿内氏としか会話をした記憶がない。
この年の1つの出来事が1年後からの飛躍、視聴率3冠王への布石となる。
1971年の制作局廃止とともに、ドラマやバラエティ番組はすべて外部委託していた。それを1980年、一気に制作局を局内に復活(その後編成局に編成部や制作部体制に)、これを機会に「オレたちひょうきん族」(1981~1989)など新しい番組が続々と誕生する。
入社してすぐに、各番組での研修。制作部に久々に戻った横澤彪プロデューサーの元、新入社員は会議にも出席した。番組タイトル案などの議論があり「われらひょうきん隊」などの中から「オレたちひょうきん族」となった。横澤プロデューサーとタクシーで同乗した際「振り返れば(最下位の)東京12チャンネル(現テレビ東京)だよ。新しいことやるしかないし、底だから上がるしかないよ」というような会話があり、「何でもありか」と思ったものである。
鹿内改革は目覚ましく、「今時、ゴールデンタイムで15分刻みで番組やってる局なんか無いだろ」と開局以来の人気番組(当時はすでに1桁の視聴率)だった「スター千一夜」(もう一つの15分番組は「クイズグランプリ」)の終了を画策。営業としては開局以来、旭化成グループの1社提供であり、重要なスポンサーである。
その時、営業部長から編成局長に抜擢されたのが日枝久氏である。
ここからは鹿内&日枝の二人三脚とも言える改革が始まる。
旭化成には19時45分からの「スター千一夜」15分枠(月~金曜日)を、まとめて火曜日21時の1H枠に統合移動の提案。新番組は王東順プロデューサーの「なるほどザ・ワールド」(1981年10月~1996年3月)。営業や編成のせめぎ合いは色々あっただろうが、新番組はどれも快進撃となる。いくつか要因はあり、王プロデューサーらは雨傘番組の制作(ナイターが雨の中止時の代打番組)など、絶えず、番組のクリエイティブの鍛錬を続けてきた人たちである。今は「コンテンツ」等と一括りにされるが、当時は番組=作品制作に必死の想いで取り組んでいたと思う。
新機軸の決定打は連続ドラマ「北の国から」(杉田成道監督/1981年10月~1982年3月)であろう。通常、連ドラは数人のディレクターが受け持つが、クリエイティブにすべて責任を持つこのドラマは「監督」が相応しい。通常のドラマ制作費の2倍とか3倍の費用をかけたとも言われたが、「フジテレビのドラマ」をブランドまで押し上げた功績は大きい。ぼくが『病院へ行こう』(1990/滝田洋二郎監督)を2億5千万円の制作費で創っていたころ、特番「北の国から‘89帰郷」は5億とかそれ以上の制作費だと聞いたことがある。
1980年10月スタートの「笑ってる場合ですよ!」もお昼の時間帯(12時~13時)の概念を大きく変えた。その後「森田一義アワー 笑っていいとも!」になり2014年まで続くことになる。
これらだけではなく、報道面、事業面、スポーツ番組なども新機軸を連発した。上記はすべて1980~1981年にスタートした番組である。
この流れが無ければ、『南極物語』(1983)も到底、誕生しえなかっただろう。大ヒットしたあと鹿内氏は「映画スタッフみんなで熱海に泊りがけで行こう!」と100人以上を引き連れ、大抽選会を行ったことは忘れ難い。ぼくもおこぼれで家具調こたつが当たった。日枝氏からは「お前、会社のために仕事するなよ! 自分の為にしろ、それが結果、フジに還ってくるんだ」と言われ、「?」となったが、その後の自分の行動を考えると、それに近い価値観で映画製作をやっていた気がする。両者に共通していたのは「外の人を大切に。フジが良い時もダメな時も、外部の人が一緒に仕事をしたい! と思ってくれるように」
▲1983年公開の『南極物語』の関係者の集まり。日本ヘラルド映画の配給で、フジテレビとの二人三脚で大ヒットに仕立てた。スピーチをしているのは日本ヘラルド映画常務の原正人氏。写真前部のテーブルには日枝久氏の顔も見える。日枝氏の隣はメガホンをとった蔵原惟繕監督だろうか。筆者は司会を務めた。筆者曰く、原氏と日枝氏が両方写っている写真は珍しい、と。この二人の決断で、後にシネスイッチ銀座が開館することになる。左端には荻野目慶子の姿も見える。
1982年から1993年まで12年間、民放の視聴率3冠王を続けられたのは、この改革のお陰である。社員が、外部の人が、楽しく、面白く番組を創り、視聴者はフジテレビが何を見せてくれるかを期待してくれていた時代である。
この体制の中でぼくも『私をスキーに連れてって』(1987)からミニシアターのシネスイッチ銀座設立(1987)など、様々な映画に関われることになる。シネスイッチ銀座にて最初の日本映画『木村家の人びと』(滝田洋二郎監督/1988)の完成披露試写会を行なった。そこに鹿内春雄氏も駆けつけてくれ、2階席でひとりだけ特別大きな声で笑っていたのを覚えている。「面しれえじゃないか!」と笑顔で去っていった……。
まさか、その数日後(4月16日)に亡くなるなど信じられなかった。42歳。フジテレビ、産経新聞社、ニッポン放送の会長であり、フジサンケイグループの議長だった。ぼくらは鹿内春雄氏(面接)の一期生でもあり、新入社員の時から、色んな話をしてくれた。フジサンケイグループのシンボル(通称、目ん玉マーク)も役員会の時、誰も賛成しなかった話は印象的だ。それまでの「8」チャンネルをもじったばかりのデザインの中で、唯一無二の独創性。一度見たら忘れられない……。「これで行く!」と押し切った? 話を笑いながら生き生きとしてくれた。好奇心抜群、人がやったことの後追いはしない。新鮮で、見ている人を驚かせたり、楽しくなるようなことを考えよう!……これは最後まで変わらなかった。
▲『南極物語』公開初日に、日比谷映画(当時)の前で。蔵原惟繕監督、夏目雅子、荻野目慶子、渡瀬恒彦らに交じって、鹿内春雄氏(左から2人目)も写っている。
もう一つ、情に熱い人でもあった。ニッポン放送からフジテレビに転籍し、「三匹の侍」(1963~1965)などヒット作を連発した五社英雄氏がいる。実はフジテレビの最初と2番目の映画『御用金』(1969)と『人斬り』(1969)は共に五社英雄監督作品である。1969年にはフジテレビ映画部長になる。ところが1980年7月に拳銃所持の銃刀法違反容疑で逮捕される。諸事情はあったようだが。その3か月後にぼくがフジテレビの面接を受けた時、そのニュースは聞いていた。そして半年後、ぼくは、五社氏がかつて映画部長をしていたその「映画部」に配属。五社氏はすでに、依頼退職していた。
退職後、東映からのオファーを受けた『鬼龍院花子の生涯』(1982)の大ヒットで復活。当時の五社監督のテレビ放映権の多くはフジテレビが購入した。『極道の妻たち』(1986)の際だったか、鹿内春雄氏から「ちょっと手伝ってやれや……」というようなことを個人的にも言われ、公開時、番組での応援などをやった記憶がある。五社監督は喜んでいた。特に製作にフジテレビが関わっているわけではないが、「元フジテレビ」の五社英雄氏には特別な思いもあったのかもしれない。ぼくが担当していた「ゴールデン洋画劇場」枠で放映した。
他にも、製作に直接関わっていない映画に多数参加する機会があった。鹿内&日枝コンビの指令で? 市川崑監督の『幸福』(1981)などにも参加した。入社した年で、初めての映画の現場だった。と言っても、フォーライフレコードが出資・製作で、フジは放送権を購入(先買い)しながら、主に番組での宣伝・応援などをやった。
市川崑監督とも初対面で、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」(フジテレビ/1981)に映画の宣伝で出演依頼をした。「いやぁ、僕、入れ歯なんで、喋ってるときに外れるとまずいから……」と言われたので「録画番組なので、撮り直せますので」と言って出演してもらったような……。
2008年、亡くなるちょっと前に市川監督から「『幸福』は公開上映したきりDVDにもならず、なんとか今一度上映、それとブルーレイとかに……」と依頼された。色んな事情はあったのだが、自分がやらなきゃ実現できないと思い、製作にフジテレビが関わっている映画ではなかったが、国立アーカーブ(当時はフィルムセンター)やイマジカの協力を得て、難しい銀残し(シルバーカラー)作業を行なった。東京のイマジカではもうその作業は出来ず、大阪イマジカにも行って作業した。完成版は汐留FSホールで完成披露試写会を行ない、主演の水谷豊さんも登壇してくれ、二人で映画のトークをした。
▲筆者が新入社員の年に担当した1981年10月10日公開の映画『幸福』。エド・マクベインの小説『87分署シリーズ』の一篇「クレアが死んでいる」を原作にした作品で、メガホンをとったのは市川崑監督。市川監督は、60年の自身の映画『おとうと』で試みた特殊現像処理法「銀残し(シルバー・カラー)」に再度挑戦した。妻に去られ二人の子どもを育てる刑事(水谷豊)と、恋人を殺され報復に燃える若い刑事(永島敏行)を主人公に、事件が解決される過程で、現代社会における幸福とは何かを描く。キネマ旬報ベスト・テン第6位に輝き、永島敏行は『遠雷』とあわせてキネマ旬報ベスト・テン主演男優賞に輝いた。谷啓、中原理恵、市原悦子、草笛光子、加藤武らも出演。
さらに『瀬戸内少年野球団』(篠田正浩監督/1984)がある。夏目雅子主演で、様々な賞に輝き、ヒットもした。ほぼ、全額フジテレビ出資の映画だが、クレジットには「フジテレビ」及び関係者のクレジットはない。元々、原作者である阿久悠さんのために「YOUの会」の有志で結成され、映画化を目指していた。そこにぼくの師匠筋でもあるヘラルド・エースの原正人社長が中心となり、映画にするにあたりフジテレビに相談、出資の大部分はフジテレビが持つことになった。今では考えにくいが「製作:YOUの会+ヘラルド・エース」のクレジットでフジテレビ関係クレジットは無い。ぼくも製作、宣伝と走り回り、夏目雅子さんを自宅に送っていくこともあった。でも、なぜか、そのフジテレビのスタンスを、当時「カッコいいな」と感じた。「楽しくなければテレビじゃない……」だけでは無い、裏方に回って良い作品を生み、前面に出ずに公開する。フジテレビの「余裕」すら感じた。外部ではあるが「人」に乗ったのである。ビジネス以前の何かに……。これが「フジテレビイズム」だと思った。
松本隆監督のデビュー映画『微熱少年』(1987)はじめ、会社から「手伝ってこい!」と言われ、様々な映画に関わった。その場合の多くは事前に放送権を購入(先買いで先方の映画制作費に充当)、テレビ宣伝面での協力だった。
その頃は、本当に多くの周りの方から期待もされ、それに応えようとした。フジテレビの視聴率が良いことが背景にもあったが、イズムとしては「面白いことを一緒に出来る」会社であったように思われていたと思う。
ぼくは『スワロウテイル』(1996)製作のため、フジテレビを1995年に出る(ポニーキャニオンへ出向)ことになる。12年間、民放視聴率3冠王を続け、1993年に途切れた翌年である。
1997年、新宿区河田町から港区台場に本社移転。8月にフジ・メディア・ホールディングスとして株式上場。
そこから10数年、フジテレビに戻らず、ある時に突然、お台場勤務になった。
社風というか雰囲気が大きく変化していた。新しいことにチャレンジする機運が落ちていた。過去が良かった……とは安易に言えないが、クリエイティブに関しては昔の「イズム」は消えていた。「自分の会社が中心」で、やたら「コンプライアンス」とかの言葉が飛び交う。上場した影響もあるだろう。
年齢に関係なく、自由にモノが言えた昔の風土。若者がアイデアを出し、経験者がジャッジ、サポート、フォローする……。ぼくが『私をスキーに連れてって』のプロデューサーをやったのは28歳の時だった。
▲淡路島出身の阿久悠の自伝的長編小説の映画化で、終戦後の淡路島を舞台に、野球を通じて女教師と子どもたちとの心のふれあいと絆を描いた1984年6月23日公開の『瀬戸内少年野球団』。女教師を演じた夏目雅子の遺作となった。監督は篠田正浩、脚本は田村孟が手がけた。撮影の宮川一夫、美術の西岡善信、衣装考証の朝倉摂、音楽の池辺晋一郎ら、スタッフの技が光る映画だ。両親を亡くした級長を演じていたのは、当時12歳の山内圭哉。現在は、NHKの連続テレビ小説「おむすび」での佐野勇斗演じる四ツ木翔也の父親役、映画『ゴールデンカムイ』、舞台『パラサイト』『花と龍』などで活躍中である。伊丹十三、大滝秀治、加藤治子、ちあきなおみ、郷ひろみ、岩下志麻らに加え、渡辺謙が郷ひろみの弟役で映画デビューを果たしている。また、三上博史が、転校生の少女(佐倉しおり)の兄役で出演している。製作発表には、篠田監督、夏目、佐倉、岩下、阿久らが出席した。山内少年の顔も見える。
今回のフジテレビ騒動の矢面に立っているのは、良い時のフジテレビを経験してきた役員などのメンバーである。
過去には芸能事務所、特に旧ジャニーズ事務所などとの仕事関係は可笑しいことがたくさんあり、反省すべき点は多い。ジャニーズのタレントを中心にキャストが決められ、主題歌もそのタレントが歌うことが当たり前のようになっていった。人気に頼り過ぎ、まるで枠ごと乗っ取られている気もした。
それでも「君の瞳をタイホする!」(1988)から始まる〝月9ドラマ〟等もある時までは、脚本の登場人物に相応しい俳優、一番良いと思う主題歌を真剣に追い求めていた。新しいことに貪欲だった。
ただ、昨今言われている「上納文化」などは聞いたことも無く、それが企業風土の温床になっているということも無いと感じている。あったとすれば、事務所やタレントに対する過度の〝忖度〟であろう。これは直ちにリセットされるべきだろう。
もちろん、個々の行動に関しては、テレビ局特有の「非常識」と思われる点があることは否定しない。
ぼくは映画を中心に40数年間フジテレビに関わってきた。ここに記した『瀬戸内少年野球団』のようなことは稀有だが、元々、フジテレビイズムはそこにあった気がする。
クリエイティブは年齢に関係ない。それを良い形で具現化するには勿論、それなりの経験者は必要である。フジテレビは1980年の「改革」に立ち返り、新たなチャレンジャーとして、再起してほしいと願う。ある意味ではゼロスタートになるかもしれない。
「楽しくなければテレビじゃない」から「愛がなければフジテレビじゃない」くらい思い切った志を掲げて。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。