エル・グレコの謎〜なぜ人物を異様に縦長に描いたのか?〜
スペインの古都トレドを歩いていると、まるで天に向かって伸びるような、不思議に引き延ばされた人物たちの絵画に出会います。これらはエル・グレコ(El Greco, 1541-1614)の作品です。 彼の描く人物は、現実の人間よりもはるかに縦長で、まるで別世界の住人のような神秘的な雰囲気を湛えています。なぜエル・グレコは、これほどまでに人物を縦長に描いたのでしょうか。この謎に迫ってみましょう。
エル・グレコとは何者だったのか
《受胎告知》エル・グレコ, El GRECO (Domenikos Theotokopoulos) - Annunciation - Google Art Project
エル・グレコ、本名ドメニコス・テオトコプーロス(Domenikos Theotokopoulos)は、1541年にギリシャのクレタ島で生まれました。「エル・グレコ」とは「ギリシャ人」を意味するスペイン語で、本名よりもこの通称で知られるようになりました。
若い頃はビザンティン様式のイコン画家として修業を積み、その後ヴェネツィアでティツィアーノ(Tiziano Vecellio, 1488-1576)らの工房で学び、さらにローマでも活動しました。そして1577年頃にスペインのトレドに定住し、亡くなるまでの約37年間をこの地で過ごしました。
代表作品に見る「縦長の人物」
エル・グレコの代表作を見ると、その独特な人物表現がよくわかります。
《オルガス伯爵の埋葬》(1586-1588年頃)は、トレドのサント・トメ教会に今も掲げられている傑作です。この作品では、画面下部の現実世界と上部の天界が描かれていますが、特に天界の人物たちは極端に引き延ばされています。聖母マリアやキリスト、そして天使たちの身体は、まるで炎のように上へ上へと伸びているのです。
《聖マウリティウスの殉教》(1580-1582年頃)では、中央の聖人たちが異様なまでに縦長に描かれています。この作品は、エル・グレコがフェリペ2世(Felipe II, 1527-1598)から依頼されたエスコリアル宮殿の装飾画でしたが、あまりにも独特すぎる表現のため、結局は採用されませんでした。
《聖マウリティウスの殉教》(1580-1582年頃), Martirio de San Mauricio El Greco
《受胎告知》(1596-1600年頃)では、マリアと大天使ガブリエルの姿が、まるで重力を無視するかのように上方へと伸びています。特にマリアの首から頭部にかけての長さは、現実の人体プロポーションを大きく逸脱しています。
《受胎告知》(1596-1600年頃), Domenikos Theotokopoulos, El Greco - The Annunciation - Google Art Project
トレドという環境の影響
『略奪』エル・グレコ, El Expolio, por El Grecot
エル・グレコの表現様式を理解するうえで、彼が活動の拠点としたスペイン・トレドという都市の宗教的・文化的環境は、極めて重要な要素です。
16世紀後半のトレドは、かつてイベリア半島の宗教的中心地であった中世的性格を色濃く残しており、カトリック教会の影響力が極めて強い都市でした。特に当時は、カトリック改革(対抗宗教改革)の進行により、精神的内面の浄化と神との個人的結びつきを重視する傾向が高まっており、同時代の神秘思想家たち、たとえばテレサ・デ・アビラや十字架の聖ヨハネの思想が、トレドの宗教文化に深く根ざしていました。
こうした神秘主義的雰囲気の中で制作されたエル・グレコの宗教画には、超越的・形而上的な世界を視覚化しようとする試みが随所に見られます。縦に引き延ばされた人物の姿態や、現実感を希薄にした空間構成は、地上の物質世界を超えた霊的次元への志向を象徴していると考えられます。
また、トレドの聖職者たちはエル・グレコのこうした独自の表現を高く評価し、彼の主要な顧客層となっていました。このような宗教的・思想的に高度に感受性のある都市環境が、彼の象徴性豊かな作風の発展を後押ししたことは疑いありません。
16世紀スペインの宗教的背景
16世紀のスペインでは、テレサ・デ・アビラ(Teresa de Ávila, 1515-1582)や十字架のヨハネ(Juan de la Cruz, 1542-1591)といった神秘主義者たちが大きな影響力を持っていたことは歴史的事実です。彼らは、神との直接的な体験や法悦状態について著述し、当時のスペイン社会に深く浸透していました。
また、エル・グレコが活動した16世紀後半は、美術史上「マニエリスム(様式主義)」と呼ばれる時代に該当します。この時代の特徴として、古典的調和よりも人工的で洗練された表現が好まれたことは、美術史の定説となっています。
同時代の画家たちとの比較
アロンソ・サンチェス・コエロ「オーストリアのアンヌ」(ハンター美術館、グラスゴー), Alonso Sánchez Coello Anne of Austria (Hunterian, Glasgow) large.jpg
エル・グレコと同時代の画家たちと比較すると、その独自性がより鮮明になります。
スペイン宮廷画家として活躍したアロンソ・サンチェス・コエーリョ(Alonso Sánchez Coello, 1531-1588)の肖像画は、極めて写実的で、人物のプロポーションも正確です。また、イタリアのカラヴァッジョ(Caravaggio, 1571-1610)は、むしろ現実的すぎるほどリアルな人物描写で知られています。
こうした中で、エル・グレコの表現は確実に異彩を放っていました。《羊飼いの礼拝》(1612-1614年頃)では、羊飼いたちの身体が縦に引き延ばされ、まるで天使のような超自然的な存在として描かれています。
現代への影響と再評価
エル・グレコの作品は、長い間「奇怪な絵」として軽視されてきました。しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけて、その独創性が再評価されるようになりました。
特に、ピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)をはじめとする近代画家たちは、エル・グレコの表現主義的な側面に強い影響を受けました。現実を忠実に再現するのではなく、内面的な真実を表現するという姿勢は、まさに近代美術の先駆けだったのです。
なぜ人物を縦長に描いたのか?諸説を検証
『聖マルティンと乞食』エル・グレコ, El Greco - San Martín y el mendigo
これまで見てきた事実的な背景を踏まえて、エル・グレコの縦長表現について提唱されている主要な説を検証してみましょう。
説1:視覚障害説
かつて一部の研究者や医師の間では、エル・グレコの人物が極端に縦長であるのは、本人の視覚に何らかの障害があったためではないか、という説が唱えられたことがあります。たとえば、乱視や水晶体の変形といった眼疾患により、画面上の人物を実際よりも細長く知覚していたのではないかという見解です。
しかしこの説には、複数の論理的・実証的な問題点があります。まず、視覚障害によって対象が歪んで見える場合、それは世界全体に等しく影響を及ぼすため、画家自身はそれを「歪み」として認識しません。つまり、見えている世界そのものが正しいと感じられるため、あえて補正しようとすることもなく、そのまま通常の比率で描くことになります。
また決定的な反証として、エル・グレコの風景画《トレド風景》などでは、建築物や自然の描写に著しい歪みは見られません。遠近法や空間構成も正確に処理されており、視覚的な問題が制作に影響を与えていた形跡は認められません。加えて、同時期の肖像画でも、モデルの身体比率が極端に誇張されているわけではなく、むしろ写実的に描かれているものも少なくありません。
こうした点から、視覚障害説は現在ではほぼ否定されており、エル・グレコの縦長表現は病理的な原因ではなく、あくまで芸術的・思想的な意図に基づいたものとみなされています。
説2:意図的な様式選択説
現在、美術史の分野で最も広く支持されているのが、エル・グレコが人物を縦長に描いたのは、視覚的な錯誤ではなく、あくまで意識的な様式的選択だったという説です。
その根拠としてまず挙げられるのが、彼の出自に関わる文化的背景です。エル・グレコはギリシャのクレタ島出身であり、当時この地は依然としてビザンティン文化圏に属していました。ビザンティン美術、とりわけイコン(聖像画)の伝統には、神聖性や霊性を強調するために、人物の形態を意図的に様式化・抽象化する手法が確立されていました。そこでは、写実性よりも宗教的意味や精神性の表現が重視されていたのです。
美術史家ハロルド・ウェセイは、エル・グレコがビザンティン的な象徴表現と、イタリア・ルネサンスで学んだ遠近法や人体表現を独自に融合させたと指摘しています。つまり彼の縦長表現は、伝統的な宗教美術の精神性を保ちつつ、マニエリスム的な洗練を加えた、極めて自覚的なスタイルだったと解釈されています。
また、風景画や肖像画の中には写実性を保った作品も複数存在しており、彼が「現実をどう描くか」を自在にコントロールしていたことを示しています。この点からも、人物が縦長に描かれるのは偶然ではなく、宗教的主題にふさわしい様式を、意図して用いていたと考えるのが自然です。
Wethey, Harold E. El Greco and His School. Princeton University Press, 1962.
説3:神秘主義的表現説
エル・グレコの縦長表現を、「神秘主義的宗教観の視覚的具現」とみなす解釈も、近年多くの研究者に支持されています。美術史家ジョナサン・ブラウンは、人物の異様な縦長化を、単なる造形的誇張ではなく、「神との法悦的な合体」や「魂の天界への上昇」といった霊的体験の視覚化であると読み解きました。
この解釈を補強する重要な要素として、エル・グレコが活動の拠点としたスペインの都市トレドの宗教的風土が挙げられます。16世紀後半のトレドは、カトリック改革の中心地として知られ、特に神秘思想が深く根づいていました。テレサ・デ・アビラや十字架の聖ヨハネといった神秘主義者たちの思想が、当時の宗教界に強い影響を及ぼしていたのです。
こうした霊的志向に満ちた文化的環境の中で、エル・グレコは神秘主義的信仰を視覚的に表現しようとし、人物の縦長化という手法を通して、物質世界を超えた次元の存在感や神性を強調したのではないかと考えられます。これは単なる様式の一部ではなく、宗教的体験そのものの視覚化であった可能性があります。
もちろん、エル・グレコ自身がこのような意図を明言した文書は残されていません。しかし、彼の作品に満ちる神秘性と、それが同時代のトレド社会と共鳴していた事実は、この説に一定の説得力を与えているといえるでしょう。
Brown, Jonathan. El Greco of Toledo. Yale University Press, 1982.
説4:マニエリスム的表現説
エル・グレコの縦長表現を、当時の美術潮流である「マニエリスム」の文脈に位置づける説も有力です。マニエリスムとは、ルネサンス期の調和や均整から意図的に逸脱し、誇張されたポーズや不自然なプロポーションによって、洗練された人工美を追求する様式です。
実際に、エル・グレコが若き日に影響を受けたとされるイタリアの画家パルミジャニーノ(Parmigianino, 1503–1540)の《長い首の聖母》(1534–1540年頃)では、聖母の首が極端に引き延ばされ、空間構成も非現実的なバランスで構成されています。この作品は、マニエリスムの代表例として広く知られており、エル・グレコの人物表現にも通じるものがあります。
美術史家フレデリック・ハルト(Frederick Hartt)は、エル・グレコの縦長表現が、単なる個人的スタイルというよりも、当時の美的価値観と密接に結びついていたと指摘しています。すなわち、縦長の人体表現は、ルネサンスの模倣から脱し、新たな精神性や美のあり方を探るマニエリスム的実験の一端だったというのです。
Hartt, Frederick. History of Italian Renaissance Art. Prentice Hall, 1987.
まとめ
エル・グレコが人物を縦長に描いた理由について、現在の美術史学では単一の要因ではなく、複数の要素が絡み合った結果という見解が主流となっています。
確実な事実として挙げられるのは以下の点です。
・エル・グレコがビザンティン美術の伝統的背景を持っていたこと
・16世紀スペインが神秘主義的思潮の影響下にあったこと
・当時のマニエリスム様式の中で非古典的表現が受け入れられていたこと
・トレドが宗教的に重要な都市であったこと
一方で、エル・グレコ自身がこの表現方法について明確に語った記録は残されておらず、その真意については研究者による解釈に依存している部分が大きいのが現状です。
エル・グレコにとって、絵画は単なる現実の模写ではありませんでした。それは、神の国、魂の昇華、そして宗教的法悦といった、目には見えない世界を可視化するための手段だったと考えられます。縦長の人物表現は、まさにその理想を実現するための、彼なりの芸術的解答だったのではないでしょうか。
今日、私たちがエル・グレコの作品を見るとき、その「異様さ」に驚きつつも、どこか心を揺さぶられるものを感じるのは、彼が単なる技巧を超えて、人間の精神的な深奥に迫ろうとしたからかもしれません。トレドの教会で、400年以上の時を経ても変わらずに私たちを見つめるエル・グレコの人物たちは、今なお私たちに問いかけているのです―「あなたは、目に見える世界の向こうに何を見るのか」と。
参考文献・出典
主要参考文献
・Brown, Jonathan. El Greco of Toledo. Yale University Press, 1982.
・Wethey, Harold E. El Greco and His School. Princeton University Press, 1962.
・Hartt, Frederick. History of Italian Renaissance Art. Prentice Hall, 1987.
・Gudiol, José. El Greco. Rizzoli, 1973.
美術館・研究機関
・プラド美術館(Museo del Prado)- エル・グレコ作品コレクション
・メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art)- エル・グレコ研究資料
・エル・グレコ美術館(Museo del Greco, Toledo)- 作家専門資料
・国立西洋美術館 - 「エル・グレコとその時代」展カタログ(2012年)
学術論文・研究資料
・Davies, David. "El Greco's Religious Art: The Illumination and Identification of the Individual ・Soul." Art History, vol. 15, no. 3, 1992.
・Mann, Richard G. "El Greco and His Patrons: Three Major Projects." Cambridge University Press, 1986.
・Álvarez Lopera, José. "El Greco: Identity and Transformation." Museo Thyssen-Bornemisza, 1999.
作品所蔵先
・《オルガス伯爵の埋葬》- サント・トメ教会(トレド)
・《聖マウリティウスの殉教》- エスコリアル修道院
・《受胎告知》- プラド美術館(マドリード)
・《トレド風景》- メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
・《長い首の聖母》(パルミジャニーノ)- ウフィツィ美術館(フィレンツェ)