再開発で姿を消した吞兵衛の町、立石の老舗「しらかわ」最後の一日
NHKスペシャルやクローズアップ現代の特集を手掛けた取材班が、日本全国で相次ぐ再開発計画を徹底検証した『人口減少時代の再開発 「沈む街」と「浮かぶ街」』が発売されました。本記事では、かつて“吞んべ横丁”として親しまれた立石の再開発について、老舗店最後の一日への密着取材から、新しい街づくりの意義を考えます。
再開発地域にある老舗「しらかわ」
2023年8月末、吞兵衛の〝聖地〟が姿を消した。葛飾区・京成立石駅北口の一帯、およそ2・2ヘクタールを再開発することが決まり、地区内にある「吞んべ横丁」も取り壊されることになったのだ。京成立石駅周辺では三つのエリアで計画が進んでおり、北口再開発は、この中で初の事業化となる。
当初、2028年の竣工を予定していたが、解体工事が想定よりも長期化する見通しとなり、2030年に変更された。計画では106軒の住宅や店舗を解体した後、高層ビル2棟や交通広場を建設する。36階建ての西棟にはマンションや商業施設、13階建ての東棟には葛飾区の総合庁舎が入ることになっている。「吞んべ横丁」があるのは対象地区の南東部分。2本の細い通路に木造の店舗がひしめき合う。
頭上にトタンのアーケードが掛かっていることもあり、ほの暗く、昼間は人けがまるでない。しかし、日が落ち店々に明かりが灯ると、ぞろぞろと人が集まり、あっという間に熱気がこもる。肩をくっつけながら酒を飲み、サラリーマンが赤ら顔でマイクを握りしめている横で、お兄さんが恋愛相談をしていたりする。常連にとっては慣れ親しんだ昭和風情に浸れる場であり、若い人にとっては未知の世界を体験できる空間となっている。近くを通りかかれば、思わず足が向いてしまう魔の横丁である。
初めてこの場所を訪れたのは、解体工事が始まる1か月前のことだった。10店舗ほどが営業しているはずだったが、すでに退去した店もあり、路上には不要になった食器類が「ご自由にどうぞ」という張り紙とともに雑然と置かれている。まだ午後3時で、早く来すぎたかとも思ったが、どこからともなく味のあるデュエットが聞こえてくる。歌声をたどっていくと、奥まった場所に暖簾が掛かっているのを見つけた。横丁に店を構えて40年、スナック「しらかわ」である。広さは3坪ほど。L字カウンターの奥には年季の入ったカラオケ用のテレビが鎮座し、客席のスペースは極めて狭い。壁に背中をつけて座る形になる。
ママの玉井征子さん(80 歳)が「何にします?」と冷たいおしぼりを渡してくれた。レモンハイとつまみを注文すると、玉井さんは手早く冷凍の枝豆を流水で解凍し、その間にボトルと炭酸を準備する。すべての動作が数歩の範囲内で淀よどみなく行われ、年月に裏打ちされた職人技のようである。話を聞くと、もとは夜からの営業だったが、馴染みの客たちが早く来たいと要望し、徐々に開店時間が早くなっていったという。これだけでも玉井さんの人柄の良さがよくわかる。
玉井さんは福島県白河市の出身。店名は故郷から取った。高校卒業後、集団就職で上京した。結婚して3人の子どもをもうけるが、離婚し、40歳で夜の世界で飛び込んだ。「女一人で子どもを養うのに当時は選択肢があまりなかった」と話す。それから40年、玉井さんは一人で店に立ち続けてきた。しかし、移転先が決まらず、いったんは店を閉じることにした。
店の売りは玉井さんの歌声。雑誌に「立石のスーザン・ボイル」と紹介されて以来、ママとカラオケを楽しむために訪れる人も多い。「夕陽の丘」を入れた70代の男性は、鉄鋼メーカーの会社員として仕事一筋で働き続けた。帰りに寄るカラオケはいい息抜きになったという。定年を迎え、気付けば、歌う場所も同世代の曲で盛り上がる仲間も限られるようになっていた。
「今の年寄りってみんなカラオケやるんだよね。ここはね、ママと二人でデュエットして、別に古い歌を歌おうが何しようが関係ない」と男性は熱っぽく話し、玉井さんは優しく「誰も文句言わないしね」と応える。
日が暮れると、カウンターはすぐに埋まった。その中に一眼レフカメラで玉井さんの姿を収める女性がいた。消えゆく街の姿を残さなければと4年前に立石に引っ越してきたという。
「人がつくってきた歴史とか、そこで紡つ むがれてきた物語とかいっぱいあると思うので、それが全部近代的な建物になったり、便利なものになったりするというのは、無個性なことになると思いますし、すごく寂しい」
女性が切り取った玉井さんや客たちの表情は自然で、翌月もこの先もこの光景が見られるような気分になる。街ごと消えるというのはあまりに現実味がない。
「しらかわ」には他にも多種多様なバックグラウンドを持った人が集まる。区外から仕事の愚痴を聞いてもらうために通う若者もいれば、ちびちびと一人で飲みに来る80代の常連もいる。中にはプロのカメラマンもいて「その画角でいい映像撮れるの?」とご指導をいただいたりもした。玉井さんのモットーは「一い ち見げんさんが常連の始まり」。地位も職業も通っている回数も関係ない。互いの名前を知らないことさえある。ディープで近寄りがたい雰囲気もある横丁だが、ひとたび足を踏み入れれば、その懐の深さに気が付く。
「しらかわ」最後の日
玉井さんは大家から店舗を借りて商売を営む借家人である。基本的には通告があれば、立ち退きをしなくてはいけない。その代わり、移転費用や営業補償など再開発に伴い発生する諸費用が「通常補償」として支払われる。現状と同程度の建物を借りるための費用も含まれている。現店舗の家賃は約7万5000円だが、周辺で同価格帯の物件は見つからず、「10万円を超えると採算が取れない」と語る。横丁の中には、採算ラインであっても、店舗面積が著しく狭くなることから移転を保留している店もある。80歳の玉井さん。あと何年店を続けられるかわからない中、新たに店を構えることにはためらいがある。仮に移転できたとしても、客がそのままスライドしてくる確証もない。
梯子する客や雰囲気を楽しみに来ている人も多い。駅前という優位性も失う。子どもたちは既に独立しており、生活上の必要性は薄れた。しかし、人生の半分をこの店で過ごし見知った顔もある。再開発がなければ、体が動く限り店を続けるつもりでいた。
「自分で辞めるのと、辞めさせられたのとは、やっぱ違うってことよね。辞めさせられたっていうんじゃないけど、出てけってことは、そういうことでしょ。自分の意思で辞めたわけじゃないからね」と悔しさを滲ませる。
「しらかわ」最後の日。開店時間をいつもより早め、午後1時から営業することにしていた。下ごしらえをしながら、玉井さんは「いよいよ今日で終わりだわ。まだ実感がちょっと湧かないけどね。悲しくなってくるわ」とこぼす。この日、長年連れ添ったクーラーが上手く作動しなくなり、店内は一層蒸し暑くなっていた。
時間になると、常連客を中心に店はすぐいっぱいになり、外には行列ができた。取材の中で知り合った人も多く、最終日にもかかわらず私を温かく迎え入れてくれた。少しでも多くの人が入れるようにと、1、2杯で勘定を済ませ、結局時間を置いて戻ってくる客もいた。中には最終日だということを知らずに立ち寄る人も。いつもであれば「一見さんが常連の始まり」になっていたはずである。皆口々に「何とか頑張って次の店を探して」「私が場所見つけます」と言う。客同士で新店舗の構想を練るが、玉井さんは「入れるといいね」とどこか諦めているようだった。二人の娘も店に駆け付けた。次女の美幸さんは、子どもたちに肩身の狭い思いをさせまいと懸命に働く母の背中を見てきた。
「優しいと思うし、本当に強いと思いますね。泣いている顔なんて、叔父が亡くなった時しか、私見たことないかも。影で泣いているかもしれないんですけど」と団扇であおぎながら話す。玉井さんは「泣いている場合じゃなかったもの」と冗談っぽく笑った。
仕事の合間を縫って子どもたちを北海道旅行に連れて行き、成人式には新品の振袖を買いに行った。独立した今でも、一緒に野球を見に行く仲だ。美幸さんは母を労ねぎらいつつ、今後については冷静に捉えていた。
「やれる環境があるんだったら、もちろんやってほしいですよ。ただ、年齢的なものもあるし、この辺が(再開発で)逆に地価が上がっちゃっているということもあって、それを考えると厳しいかなって」
氷が底を尽き、閉店の時間が迫ったころ、玉井さんがマイクを握った。店を辞めるときに歌おうと決めていた曲があるという。郷愁を誘うイントロとともにテレビ画面にタイトルが映る。ちあきなおみの「紅とんぼ」。新宿の店を畳むママの心情を歌った曲だ。澄んだ声で歌い上げ、サビに到達すると歌詞をアレンジし、より力がこもる。
〈立石駅裏「しらかわ」よ、思い出してね、時々は―― 〉
客たちはなかなか区切りをつけることができず、お開きになったのは夜11時過ぎ。多くの人に見守られながら、玉井さんは暖簾を下ろした。撮影に入る前、この瞬間は湿っぽくなるだろうと想定していた。しかし、客や玉井さんは終始楽しげで、小学生のように途中まで一緒に帰っていった。心中寂しいことに変わりはないが、これが「吞んべ横丁」流の最後なのだと思う。
再開発の実現に25年を要した
下町の解体を惜しむ声が根強くある中、なぜ再開発が必要なのか。事業を率いる再開発組合理事長の德田昌久さん(87歳)は災害リスクの低減が一番の理由だと話す。
「老朽化した木造の密集地である立石は、火がついたら一発で終わり。しかも、その木造密集地に面している道路は狭きょう隘あい道路。はっきり言って大きな車が入れない。消防車のような車が入るにも、いろいろルートを考えながらやって来ないといけない」
德田さんは立石で生まれ育ち、父が所有していた「吞んべ横丁」の土地と建物を受け継いだ。街の盛衰を誰よりも間近で見てきた。かつて立石は多くの工場が立ち並ぶ地域として知られた。大手玩具メーカーの生産拠点があり、パーツをつくる下請工場がしのぎを削った。その他にも、さまざまな種類の工場が存在し、德田さんの父は、国鉄や官庁向けのゴム引きレインコートを生産していた。戦時中、防火帯を造成するために一部で建物疎開が行われ、德田さんの土地も対象となった。終戦に伴い、その役目を終えると住民らの生活を支えるために「立石デパート」を建設する。食料品店や生花店、手芸店など約40の個人店が軒のきを連ねる、今でいうショッピングセンターで、夕方になると買い物客でにぎわったという。1950年代に入るとスーパーの台頭などにより、徐々に店舗が撤退。労働者らが立ち寄る飲み屋に取って代わった。いつの頃からか「吞んべ横丁」と呼ばれるようになる。
建物は築70年近くになり、戦後間もなくにつくられたということもあって、通路は複雑に入り組んでいる。ほとんどが歩行者用の通路で車両は区画の奥まで入ることができない。德田さんに町内を案内してもらったが、「吞んべ横丁」以外にも似たような通りが点在している。ひとたび火災が起きれば、連鎖的に延焼する可能性がある。地区の一部は、東京都が公表した「火災危険度」の中で最も高い「レベル5」に該当する。消防署から指導が入ることもあり、店主らと防災訓練を念入りに行ってきた。
しかし、それでは抜本的な対策にはならないと德田さんは考えている。幾度も火災の危機に見舞われ、そのたびに空襲の風景と重なった。また、立石はゼロメートル地帯にあたり、浸水エリアに入っている。このままでは住民の生活が脅かされてしまうと、德田さんは危機感を募らせる。
「震災に対してどれだけ今の街が防御できるのか。安全がいったん崩れた場合、貴重な生命、財産を失うことになるんです。しかも災害はいつあるかわからない。災害があってから開発するということではなく、事前に再開発をしたほうが当然、費用も安く済むわけじゃないですか」
災害対策の緊急性を認識しつつも、再開発の実現には25年の歳月を要した。京成押上線の四ツ木駅~ 青砥駅を立体交差化する計画が持ち上がり、線路に接した土地が部分的に買収されることから、この機に乗じて再開発を推し進めようとしたのだ。1996年に德田さんら6名の地権者が素案の作成を始めるが、住民からの猛烈な反対に遭う。
多くは「ここで生まれ育ち、ここで死ぬんだから、そっとしておいてもらいたい」という意見だった。賛成派の中でも意見が割れた。住民からは、景観を壊さないように建物は3階程度に抑え、道路を拡幅するという提案も出たが、德田さんたちは現実味に欠けると判断した。低層ではわずかな保留床しか生み出せず、採算が取れないというのだ。「はっきり言ってペイできない。皆さんがお金を持ち出すなら別ですが」と德田さんは語る。
事業費を捻出するために一定の保留床を確保できる高層ビルの建設が大方針として固まった。その後、ビルの棟数や用途を検討しながら現在の形に落ち着く。下町に住む人々にとって馴染みの薄い高層ビルの計画はさらなる波紋を呼ぶ。
「どういう形でもって、反対の人たちと接しながら理解を得ていくのか試行錯誤しました。ポスティングするために文章を書いたりもしましたが、これでは駄目ですね。やっぱりフェイス・トゥ・フェイスで話をする。これが一番理解を得る方法でした。大変ですよ、そういう意味では」と当時を振り返る。
德田さんは一軒一軒、説得に回り、時には反対派の集会にも出席し、矢面に立った。徐々に賛同を集め、2017年に都市計画決定、108いる地権者の同意率も満たし、2021年にようやく再開発組合が設立された。德田さんは交渉に関わる分厚いファイルを見せてくれた。住民から聞き取りした内容をとめたものだ。計画の賛否や説得の感触などがA4用紙にびっしりと書き込まれている。時期を遡るごとに紙は茶けていき、時の経過を感じさせる。発起人の多くはこの世を去り、組合の一員として解体を見届けることができたのは德田さん、ただ一人だった。
区の総合庁舎も再開発ビルに入る
德田さんらの地道な努力もありながら、同意を取り付けることができたのは別の要因もある。立石の人口は、近年減少傾向にあり、高齢化も進んでいる。街には空き家が目立つようになったほか、住み続けている人にとっても自宅や商店の老朽化は長年の課題となっていた。組合の関係者は「高齢化した地権者の中には自分たちで建て替えできない人もいる。同意数を確保できた理由の一つ」と語る。
また、「吞んべ横丁」の解体を疑問視する声が計画の再考に結びつきにくかった側面もある。現行の制度では地権者以外の人々は組合設立に関与できない。「しらかわ」のママ、玉井さんも借家人のため、同意数のカウントには入らない。今回の再開発は「吞んべ横丁」をめぐり注目を集めたが、事業の主眼は専ら住環境の改善や交通の利便性向上などにあり、横丁存続の是非は周縁的な事柄に留まった。あくまで区民や地権者のための計画というわけである。駅周辺を取材する中で「昔は通ったこともあったが、今では区外の人が大半。近隣住民のための場所ではない」という声も聞いた。
では、具体的にどのような街を目指すのか。德田さんはやや間を空け、「これから建物が建ってくるわけですから、その辺のソフトの面の勉強会を開いたりですね、皆さんにご理解をいただく、その努力がこれからあるわけ」と言うにとどまった。すでに解体工事は進んでいるが、京成立石駅北口再開発も全国的な資材費、人件費高騰のあおりを受けている。工事費は2022年時点で696億500万円としていたが、2024年5月に行った組合への取材では「費用は上がる見込み。着工に向けて関係者と協議を進めている」としている。
地権者の発意だが、区の動向を前提とした事業
地元、葛飾区は都市計画決定や京成立石駅周辺の各プロジェクトの総合調整を担ってきた。加えて、今回の再開発では、新しく建設される高層ビル内に総合庁舎を移転することになっており、組合とは資産を売買する関係にある。
現総合庁舎は1962年竣工の本館・議会棟と、1978年竣工の新館で構成されている。耐震性能の目標を満たしていないほか、来庁者が利用しにくい動線となっていることなどが施設更新の理由だとしている。
1991年から建て替えの検討が始まり、移転先として京成立石駅北口以外に二つの案が上がっていた。一つは現庁舎敷地での建て替え。新たな用地取得が不要である一方、仮庁舎の建設が必要となる。もう一つは青戸平和公園に建設する案。こちらは住民合意に課題があるとされた。結果的にアクセスが良く、再開発によって人口の流入を見込める京成立石駅北口に移転することが決定した。
2009年以来、4期連続で区長を務める青木克德さんは一貫して再開発に賛成の立場を示してきた。高齢化や少子化対策の観点からも意義があると語る。
「新しく来た人も住みやすい、住んでみたいと思ってもらわないと、街は活性化しないですよね。人口が減ってしまうのはまずいわけですから。今いる人たちも幸せ、そして新しく来る人も住みやすい。そういうふうに思ってもらえる街にしていきたい」
葛飾区は、再開発地区内に立石地区センターと駐輪場管理事務所を所有している。
庁舎にも充てられる権利床は2330平方メートルほど。新庁舎の大部分は保留床の取得によって賄われる。庁舎と公共駐輪場のための保留床購入金額は約267億円。備品購入費などと合わせ、移転に掛かる総額は約282億円にのぼる。区は2014年に3候補地の整備コストを概算している。『新総合庁舎整備の総合説明書』によると、現敷地案が約240億円、青戸平和公園案が約275億円、立石駅北口案が約264億円としている。同資料では「整備コストは変動するが、3候補地で著しい経費の差はない」としている。2014年の試算と現状の計画で約18億円の開きがあることについて、青木区長は「(原因は)建築費が上がったことがあると思います。これがやはり大きな要素ですし、土地の値段も上がっていますので、最終的には権利変換計画をつくる時の価格確定があったわけですけれど、その結果がこの金額になったということだと思います」と答えている。区は2007年度から庁舎移転の基金を積み立てているが、当初、約200億円としていた目標額を260億円に修正している。
再開発の総事業費は2022年末時点で、約932億7000万円を見込んでいる。そのうち約4割を国や区の補助金などで、残りを保留床処分金で賄う計画だ。再開発組合とともに事業を推し進める三つのデベロッパーはマンションなどが入る西棟の床を主に購入し、東棟の大部分を区が取得する。
区が支出する保留床処分金は総事業費の約3割を占める。補助金と合わせれば、公金の割合は68%になる。総合庁舎の移転は条例で定められており、白紙になる可能性は低い。組合にとっては、一定の処分金を担保されたことになる。地権者の発意で計画が始まったことは間違いないが、結果的に区の動向を前提とした事業になっている。9月に首都圏情報ネタドリ!で「急増!“駅前・高層”再開発」を放送した後、再び立石を訪れた。すでに店舗や住宅からの退去は完了し、フェンスの設置が着々と進んでいた。「吞んべ横丁」も遠目でしか見ることができない。この場所に区の庁舎がそびえたつことになる。
様変わりした風景を目の当たりにし、「しらかわ」最後の夜に交わされた客同士のやり取りを思い出した。
「もう新しい建物が建っちゃうと前の建物を思い出せないんですよね。だから、それで生きていけるんだと思っている」
酔った女性は、切り捨てるというよりも自分を納得させているように見受けられた。聞いていた男性は「それはつらいっす」とうつむき、つぶやいていた。
再開発によって連綿と築かれてきた人々の営みは一度リセットされることになる。女性客が言うように、思い出は徐々に薄れていき、新たな高層ビルに慣れる日が来るかもしれない。横丁に通いつめてみて、防災の必要性も身に染みてわかった。それでも街の個性、その豊かさと共存する道はなかったのか考えざるを得ない。
著者プロフィール
NHK取材班
2024年1月20日放送のNHKスペシャル「まちづくりの未来 ~人口減少時代の再開発は~」を制作したチーム。また、クローズアップ現代にて「再開発はしたけれど 徹底検証・まちづくりの“落とし穴”」、首都圏情報ネタドリ!にて「急増!“駅前・高層”再開発 家選び・暮らしはどう変わる?」等を制作。ウェブ「NHK首都圏ナビ」内に「不動産のリアル」を連載している。