【逃げ上手の若君】 鎌倉幕府の滅亡は何が原因だったのか?
近年、大きな人気を博しているアニメ『逃げ上手の若君』。
鎌倉幕府の滅亡という壮大な歴史を背景に、若き北条時行の逃亡劇を描いている。
本作は週刊少年ジャンプにて連載中の原作を基にしており、その第一話では、早々に鎌倉幕府が滅び、幼い時行が逃亡を余儀なくされる姿が描かれている。
では、なぜ鎌倉幕府は滅亡に至ったのか?今回は、その滅亡の背景について触れていきたい。
天皇家の家庭事情が招いた悲劇
平安時代以前は、政治の実権を朝廷が握り運営していくことで、優雅で華やかな文化が育っていた。
しかし、源平合戦を経て武士の時代が到来し、鎌倉幕府が成立すると、朝廷は政治の実権を失うこととなる。
このような時代背景の中で鎌倉幕府が滅亡したのは、ある天皇の家庭事情が始まりだったと言えよう。
第88代後嵯峨天皇(ごさがてんのう)には複数の子供がいたが、兄・後深草天皇(ごふかくさてんのう)と、弟・亀山天皇(かめやまてんのう)が後々の問題となる。
後嵯峨天皇は、まずは兄・後深草天皇に皇位を譲り院政(上皇による政治)を開始するが、途中で弟・亀山天皇に譲位するように促した。さらに弟・亀山天皇の子を皇太子に任命すると、そのまま後継者を決めることなく崩御してしまう。
これにより、兄・後深草天皇の血統と、弟・亀山天皇の血統の二つが残ってしまったのである。
鎌倉幕府の命令による不本意な皇位継承
その後、朝廷では二つの血統による派閥争いが起こった。
持明院統(じみょういんとう、北朝、兄・後深草天皇の血統)と大覚寺統(だいかくじとう、南朝、弟・亀山天皇の血統)による対立である。
この対立を制御するため、鎌倉幕府は両統迭立(りょうとうてつりつ)という方式を提案した。それぞれの皇統から交互に天皇を輩出するというものだ。これは、朝廷が皇位継承という最重要事項まで、幕府の命令に従わなければならない状態であったことを意味する。
しかし、両統迭立は結果的に、二つの勢力が相容れない状態を恒常化することにも繋がってしまった。
後醍醐天皇による倒幕計画
この状態をよく思わず、不満を抱いていたのが後醍醐天皇(ごだいごてんのう)である。
彼は大覚寺統の天皇であり、実子に皇位を継承できないこと、上皇となって権力を行使できないことに不満を抱いていたのだ。
そして、後醍醐天皇は倒幕を決意する。
しかし元亨4年(1324年)、この倒幕計画は明るみに出てしまう。(正中の変)
後醍醐天皇は無罪として釈放されたが、関係者が処分されるなど苛烈な粛清が行われた。
この出来事をきっかけに、これまで幕府に不満を抱いていた寺院勢力や御家人たちの間で、反幕府の動きが広がり始め、倒幕を目指す勢力が次々と立ち上がることとなった。
後醍醐天皇の挙兵
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は挙兵する。
後醍醐天皇は自らが正当な統治者であることを示すため、国中の武士たちに呼びかけた。しかし、鎌倉幕府は迅速に対応し、大軍を動員して天皇の拠点であった笠置山を包囲した。
後醍醐天皇はわずかな手勢で笠置山に立てこもったが、幕府軍の圧倒的な軍勢の前に抵抗することはできず、ついに山は陥落した。天皇は捕えられて廃位され、謀反人として隠岐島へ流罪となった。(元弘の変)
しかし、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう)や赤松円心(あかまつえんしん)、楠木正成(くすのきまさしげ)ら、討幕のために立ち上がった勢力は、各地で活動を続けていた。
諦めなかった後醍醐天皇は、元弘3年(1333年)隠岐島から脱出し、再び挙兵したのである。
足利高氏(尊氏)の裏切り
この頃、和泉(現在の大阪府南西部)と河内(大阪府東部周辺)を制圧していた楠木正成は、山城の千早城を築城し、籠城した。
幕府軍は10万もの大軍で千早城を包囲したが、準備万端だった正成を攻めきれずにいた。
こうした倒幕軍の勢力を鎮めるため、幕府軍は鎌倉から足利高氏(尊氏)を派遣する。
しかしなんと、その足利高氏が突如裏切り、倒幕軍に加わってしまったのである。
高氏が倒幕を決意した理由については諸説あるが、元々執権の北条氏に対する源氏の御家人からの不満が大きく(北条は家来筋の家系な上に平氏)、源氏の名門・足利氏に期待が集まっていたことや、父・貞氏の死没直後に上洛を命じられ法要が満足にできなかったこと、高氏が個人的に後醍醐天皇を敬愛していたことなどが挙げられる。
鎌倉幕府の滅亡
高氏は幕府を裏切ると、幕府の出先機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とした。
一方、関東方面では、高氏の裏切りにより幕府軍の力が大幅に削がれていた。
この隙を突いて、同じく源氏の名門・新田義貞(にったよしさだ)が、上野国(現在の群馬県)で挙兵した。
最初は150騎ほどであったが、義貞は短期間で関東の御家人たちの軍勢を集結させ、鎌倉への進軍を開始。
義貞の軍勢は圧倒的な勢いで進み、わずか半月ほどで鎌倉に到達し、激しい戦闘の末、幕府の本拠地である鎌倉を制圧した。
鎌倉が陥落すると、執権・北条高時は自害し、ついに鎌倉幕府は滅亡したのである。
北条家の後継者は「逃げ上手の若君」
鎌倉幕府の最後の執権となった北条高時。
この自害した高時の次男が、逃げ上手の若君の主人公、北条時行である。
時行は新田義貞の鎌倉攻めから、諏訪頼重(すわよりしげ)の手によって逃げることができた。
その後は、諏訪家の本拠である信濃国の諏訪大社に匿われたという。
室町時代の始まり
その後、後醍醐天皇は公家中心の政治を行うようになるが(建武の新政)、それに不満を持った武士たちは足利尊氏の元に集うようになる。
尊氏と後醍醐天皇は対立することとなり、足利軍は一時は敗れて九州まで逃げたものの、最終的には1336年の「湊川の戦い」で天皇軍に勝利し、京都を制圧した。
この勝利により、尊氏は室町幕府を開くこととなり、これが室町時代の幕開けとなった。
しかし、二つの血統の問題は残ったままであり、「南北朝時代」の始まりにもつながる。
ちょうどこの時期を生きたのが北条時行である。
アニメ『逃げ上手の若君』の主人公である北条時行は、この激動の時代をどのように生き抜いていくのだろうか。今後の展開が楽しみだ。
参考文献:日本史パノラマ大地図帳
文 / 草の実堂
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