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将軍継承問題や幕閣の権力争いが続く伏魔殿・江戸城跡周辺を訪ねる。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の四】

さんたつ

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ドラマ『べらぼう』では、次の将軍を選ぶための陰湿な争いが描かれ始めた。第10代将軍徳川家治(いえはる)の嫡男・家基(いえもと)が謎の死を遂げ、さらに真相を突き止めようと動いた老中首座の松平武元(たけちか)も、5カ月後に急死。田沼意次の毒殺ではないか、という噂が城内で広まっていく。そしてドラマでは、意次が懇意にしている平賀源内に調査を依頼。だが確固たる証拠が見つからぬまま、それ以上の探索はかえって事件を拡大させる恐れがあると感じた意次は、調査の打ち切りを決定。真相に迫っていると感じていた源内は憤慨する。そんな源内の元には、怪し気な人物が近づいてくる。

【今回のコース】幕府関係者にまつわる地が集中している皇居周辺を歩く

広大な芝生となっている大奥跡。

平賀源内の最期に関しては諸説あるようだが、殺傷事件を起こし獄死した、というのが一般的だ。どうしてそのような状況になったのか、ドラマ『べらぼう』の展開はなかなか見事。前半の影の主人公と言える源内の最期を残念と感じている方々は、ぜひ前回紹介した浅草・橋場に残る墓所へ足を運んでほしい。

今回のコースはこんな感じ。

JR神田駅→(15分)→神田橋門跡(15分)→カレーハウスボルツ→(5分)→一橋徳川家屋敷跡→(5分)→平川門→(1時間)→江戸城内見学→(20分)→佐野善左衛門宅跡→(20分)→田安門→(15分)→清水門→(15分)→馬琴硯の井戸跡→(15分)→JR飯田橋駅

将軍が通る御成門でもあった神田橋門

散歩の起点、神田駅西口。

今回の散歩コースは、陰謀渦巻く幕府関係者にまつわる地が集中している皇居周辺を訪ねてみたい。皇居は言わずと知れたかつての江戸城である。その東側にあたる江戸城本丸、二の丸、および三の丸の一部は、「皇居東御苑」と呼ばれ一般公開されている。そこを目指し、まずはJR神田駅に降り立った。

東京駅寄りにある西口から南に向かい、斜めにぶつかる道を皇居方面にたどると、かつて江戸城築城の際に資材を陸揚げした鎌倉河岸跡の案内板がある。そこをさらに直進し、左に首都高速入り口がある交差点の左奥に小さな公園が見える。そこがかつて、将軍が上野寛永寺や日光東照宮に出かけるときに使った、「神田橋門」があった場所だ。

小さな公園となっている神田橋門跡。

ほかに芝崎口門、神田口門、大炊殿橋門(おおいどのばしもん)とも呼ばれた。将軍が通る御成道だったため、門の警備は厳重であったという。今では奥に置かれた喫煙所に、サラリーマンが集まっている風景がスタンダードのようだ。田安門、半蔵門、外桜田門、常盤橋門と合わせ「江戸五口」に数えられた。

そんな神田橋門内には、田沼意次の屋敷があった。現在では経団連会館から東京消防庁が立っている、とても広大な敷地。それらのビルと堀の間には、「大手町川端緑道親水広場」と呼ばれる遊歩道がある。そこを歩いていると、東京という大都会にいることを忘れてしまうだろう。

田沼意次の屋敷があったことを示す解説板。
都会とは思えない大手町川端緑道親水広場。

激辛カレーの先駆者『ボルツ』でおなかを充電

親水広場は錦橋のところで終わっているので、橋を渡り錦町河岸交差点へと向かう。この交差点を斜向かいへ渡り、路地を入れば目指す『カレーハウスボルツ』の看板が見えてくる。この名前を聞いて懐かしさを感じた人の多くは、1970年代から80年代にかけて青春時代を過ごし、デート時は辛いカレーでおなかを満たしていた世代に違いない。

1974年に1号店が開店し、最盛期だった80年代末には約50店舗を展開していた、カレーチェーンの一大勢力であった。お邪魔した神田錦町の店は、1980年からこの地で営業を続けている。

その特徴は辛さが通常のマイルドやホットだけでなく、2倍から30倍までが選べる、それまでの日本流カレーとは一線を画す「自分の好みの辛さのカレーを楽しむ」というもの。この辛さを選ぶシステムは、『ボルツ』が発祥なのだ。80年代には若者を中心に大人気となり、第一次激辛ブームの立役者となった。

『カレーハウスボルツ神田店』。

現在は親会社の方針転換により、残っているのは3店舗のみで、東京は神田店だけとなってしまったが、昔と変わらず「本場インドの香りが楽しめる」カレーが味わえる。カレー粉や小麦粉は使わず、十数種類の香辛料と肉や野菜をじっくり煮込むことで、サラッとしたシャープな辛味と味わいが口に広がる。

カレーは800円からで、辛さだけでなくチキンやビーフ、アサリ、エビ、ベーコンというメイン食材にトマトや野菜、玉子などを組み合わせることができる。今回注文したのは、昔からいつも注文していたチキンとトマトに玉子をトッピング、ご飯大盛りで辛さは3倍ホット(1050円)。今でも石臼で挽いている香辛料を、古里の南インドから直輸入。その奥深い香りと辛さが具材とよく合わさり、さらにスープカレーのように食べやすく、瞬く間に完食してしまった。おかげでこの先も元気に歩いていけそうだ。

チキンとトマトにゆで玉子をプラス。玉子は輪切りになってルーに沈んでいる。

『カレーハウスボルツ神田店』
●東京都千代田区神田錦町3-17-2
●03-3233-3067
●11:30〜19:00、土・日・祝休

将軍継嗣問題の核心地から江戸城内へ

『ボルツ』でフル充電した後は、御三卿のひとつである一橋家の屋敷があった場所に向かった。その前に、堀に架かる一ツ橋の上に立つと、日本橋川の岸にわずかに高石垣が残されているのが見える。これは「一橋門の石垣」で、築かれたのは寛永6年(1629)。

日本橋川に残る江戸期の石垣。手前の高くなっている部分が一橋門の石垣跡。

「一橋徳川家の屋敷」は、この門の内側に元文5年(1740)に建てられた。現在では丸紅本社ビルから合同庁舎までが含まれる、広大な屋敷であった。その西側一画に庭園風の植え込みがあり、石柱や解説板が設置されている。生田斗真さん演じる一橋治済(はるさだ)は、次期将軍選びの争いで、今後ますます暗躍するであろう。

徳川吉宗の四男宗尹(むねただ)が興した家が一橋家で、ふたりの将軍を輩出した。

一橋屋敷跡の目の前には、江戸城の広大な濠があり、少し右手を見ると「平川門」が目に入る。この門は三の丸の正門に当たり、元和6年(1620)に伊達政宗ほか6名の大名により築かれた。本丸の大奥に通じていたことから、お局門という別名があった。また城内で亡くなった人や罪を犯した人が出ていくのもここだったため、不浄門とも呼ばれた。

皇居東御苑に入るための3つの門のひとつ平川門。
明暦の大火で3代目の天守が焼失して以来、石垣だけが残された江戸城天守台。

そんな平川門から皇居東御苑に入る。ここは皇居附属庭園として、1968年9月に完成。同年10月1日から宮中行事に支障がない限り、無料で一般公開されている。皇居の一部であるとともに、江戸城跡でもあるので、城郭の遺構も多く見られるのだ。

門を抜けて道なりに進んで最初の分かれ道を右手へ進み、梅林坂を上ると天守台の裏手に出る。天守台はスロープ付きの展望台になっていて、江戸城本丸を一望することができる。眼下に見える広い芝生は、大奥があった場所。今では何も残されていないので、かえって芝生の広さだけが印象的であった。

スロープが付けられ楽に上り下りができる。
天守台に上れば江戸城本丸跡が一望できる。

『べらぼう』とは直接関連はないが、せっかく訪れたのなら本丸地区に現存する唯一の櫓(やぐら)、「富士見櫓」を近くで見ておこう。これは江戸城の遺構の中で、最も古く立派なものである。本丸周辺を散策するだけで、歴史的な見どころが多い。樹木類もとても豊かなので、ここだけでも十分に満足できるであろう。

富士見櫓は外国人観光客に大人気であった。

見事な石垣と濠が楽しめる道をたどる

皇居東御苑には大手門と平川門、それに北桔橋(はねばし)門という3カ所の出入り口が開放されている。内濠である平川濠と乾濠の間に架かっている橋が北桔橋で、その名の通り有事の際には跳ね上がる仕組みになっていた。かつては門を入るとすぐ、天守が聳えていたので、とても重要な役割を果たしていたのだ。現在は冠木(かぶき)門と橋だけが残っているが、門には橋を上げる際に使った滑車を吊るしていた金具が今も付いている。

北桔橋の冠木門上部には金具が残されている。
散歩やランニングを楽しむ人が多い代官町通り沿いの歩道。
石垣と土塁と水濠が見事な絵になる半蔵濠。

この門を出ると、目の前には代官町通りが通っているので、左へと向かう。皇居の周りを走るランナーとともに、内堀通りまで出たら、北西方向に位置する大妻女子大学の門を目指す。その門前の歩道には、佐野善左衛門政言(まさこと)の屋敷があったことを示す案内板が立てられている。この人物は『べらぼう』で矢本悠馬さんが演じていて、すでにドラマに登場している。この先、幕府を揺るがすような重大事件を起こすのであるが、それはドラマをお楽しみに!

この先、大きな事件の主人公となる佐野善左衛門宅があった場所。左は大妻女子大学。

北の丸から鬼平役宅、そして馬琴井戸へ

そして日本武道館への入り口に当たる田安門へと向かう。この門内に御三卿のひとつ、田安家の屋敷があった。8代将軍徳川吉宗の子、宗武が立てた一家で、その息子の賢丸(まさまる)は、田沼意次の策略により陸奥白河藩へ養子に出されてしまう。寺田心さんが演じていたこの賢丸こそ、後に蔦屋重三郎にとっての最大の障壁となる松平定信である。

田安門の名の由来は、近くにあった田安大明神(現在は築土〈つくど〉神社)より。
北の丸公園の象徴的存在の武道館。
園内には吉田茂の像もあり。

田安門から北の丸へ入ると、すぐに武道館の前に出る。武道館を回り込むように左手の植え込み内を抜ける小径をたどると、戦後の名宰相・吉田茂の銅像が見えてくる。銅像前から東へ向かうと清水門が見えるが、この付近に、御三卿のひとつ清水家の屋敷があった。

門まで続いている雁木坂(がんぎざか)は、江戸時代に築かれたままの階段が残されている。高さと幅が不揃いになっているが、これは攻め込んできた敵が足をとられてしまう工夫とのこと。清水門を出ると正面に千代田区役所が見えるが、池波正太郎の人気作『鬼平犯科帳』の中では、その付近に長谷川平蔵が率いた火付盗賊改の役宅がある設定となっていた。小説上のこととはいえ、鬼平ファンにとってこの風景は心躍るものがある。

清水門から北の丸に続く雁木坂。
清水門を出ると千代田区役所があるが、この付近に火付盗賊改の役宅があったと設定。

今回最後に訪れたのは、九段下交差点近くにある「馬琴硯の井戸跡」である。そこは滝沢(曲亭)馬琴が『南総里見八犬伝』などの執筆を行っていた場所。そこにあった井戸は、馬琴が硯に水を注ぎ、筆を洗っていたことからこう呼ばれていた。しかし井戸は関東大震災で失われ、今はマンション入り口に井戸枠や石碑が設置されている。馬琴は若い頃に山東京伝の弟子となり、京伝の口利きで蔦重の店の手代となったのである。

マンションの入り口に置かれた井戸枠。

次回は蔦重がいよいよ吉原を出て出版業会に旋風を巻き起こした地、日本橋の耕書堂跡周辺を訪ねたい。

取材・文・撮影=野田伊豆守

野田伊豆守(のだいずのかみ)
フリーライター・編集者
1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。

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